聖魔殿堂 4(肉塊)
地面の底から、凄まじい風が吹き上がった。
地中に強風が吹き抜けるような空洞があったわけではない。
そうであるなら、土や岩が噴き出したはずだ。それは無かった。
風だけが生じた。巨大な柱と化して、天を貫く。
その風の柱を、エメラルドの光が旋回している。
チャナであった。巨大な羽を広げ、後肢の指でヴォルドルーンの右腕を掴んでいる。
「吐き出し――か」
上空から、ヴォルドルーンは地上を見下ろした。
地面に深淵のような穴が開いていた。昼間、空に開いた穴と似ているが、あの時と違って、空気を吸い込んではいない。逆だ。轟々と風を吐き出している。空まで吹き上がった風が雲を吹き飛ばし、広がっていく。
昼間が『吸い込み』なら、これは『吐き出し』であった。
どこへ吸われ、どこから吐き出されてくるのか。
誰も知らず、予兆としてわずかばかりに空間が揺れるその現象から『空震』と呼ばれるが、その原理を知る者はいない。あるいは、真理と叡智の求道者を標榜する聖魔殿堂であるなら、この現象を紐解いているのかもしれないが、徹底した秘密主義でもあるため、実際のところ、何を知り、何を識らずにいるのか、明らかにされていない。
ヴォルドルーンが動きを止めたのは、空震の予兆を感じたからだが、男は気づかなかったようだ。
男はどこにいるのか。この位置からではわからない。
ふいに風が止んだ。
穴が消えていた。
昼間の時と同じだ。何の前触れも無い。
地面にはその痕跡すら残らなかった。
「降ろしてくれ。チャナ――」
ヴォルドルーンは言った。チャナが首を振る。
「チャナ」
繰り返した。
首を垂れ、チャナが高度を下げた。地面に足がつくと、ヴォルドルーンの身体は揺らいだ。脇腹から背中にかけて激痛が走った。チャナが覗きこんでくる。軽く腕を振った。チャナの足がヴォルドルーンの腕から離れた。
ヴォルドルーンは穴があった場所に近づいた。
そこに、奇怪なものが存在した。
巨大なアメーバに見えた。あるいは、透き通った肉塊か。
見上げるほどのサイズだった。
透明な肉塊の中に、黒い影が蠢いている。
男であった。両手で喉を掻きむしっている。息ができないのかもしれない。蟷螂のような眼は限界まで見開き、広い額に血管が浮き上がっている。
どろり、と皮膚が溶けた。
その瞬間、ヴォルドルーンは右手を肉塊に突き入れていた。
じゅん、と焼けるような音が響いた。右眼を細くする。
腕輪が光を放った。絡みついてくるような肉の感触が弱まる。
男の腕を掴み、引いた。男の貌と胸が外に出た。下半身は――後に続かなかった。
肉塊の中で、男の下半身がぼろりと崩れた。ばらばらになった骨が、肉塊の中で溶けていく。
「ヴォル――」
背後でチャナが声を上げた。
「来るな」
眼の前で、巨大な肉塊が収縮を繰り返している。
獲物を奪われて、怒っているのかもしれない。あるいは捜しているのか。
知能のようなものがあればだが。
触手のようなものが、伸びては縮む。
ヴォルドルーンの眼が金色の光を放った。右腕で男の上半身を抱え、肉塊を見据える。
ず、と肉塊が後退した。
ずるずると動いていく。肉塊の背後には、ルエルラメムの王都がある。後退ではなく、そちらに引き寄せられたか。
ヴォルドルーンは男の上半身を地面に置いた。
立ち上がって肉塊を追った。こんなものを街に入れるわけにはいかない。
腕を貌の前でクロスした。
肉塊に飛び込もうとした瞬間――
光が迸った。爆発したと言ってもいい。同時に、凄まじい音が炸裂した。
弾き飛ばされた。
空気が焼ける匂いと硫黄に似た匂い。
落雷だった。
空震の穴から吐き出された風は、上空の雲を貫いた。押し退けられた雲は瞬間的に圧を高め、帯電し、限界を超えて、放電した。理屈は合っている。だが。
このタイミングは偶然か。
地面に右手だけをついて、ヴォルドルーンは貌を上げた。
雲が激しく流れている。月が貌を出していた。流れる雲が月の光に照らされ、目まぐるしく形を変えている。崩れる雲塊の中で、雷の気配もまた薄れていく。
ゆらり、とヴォルドルーンは立ちあがった。
肉塊は消し飛んでいた。落雷のエネルギーはそのほとんどが肉塊に集中したと見える。地面には焦げ跡すら残っていない。
眼前には黒々とした王都の影――
ヴォルドルーンは無言でその影を見つめた。
「ヴォル――」
チャナが背後に来た。ヴォルドルーンの背中から抱きついてくる。
白い腕は、少女のそれだった。何も着ていない。変身の度に服がだめになる。
チャナの腕を身体から離し、ヴォルドルーンは服を脱いだ。チャナに着せる。さすがにでかい。そのままでは肩から落ちてしまうので、肩口で余った布を縛った。
チャナの手が、ヴォルドルーンの手に伸びた。
両手でヴォルドルーンの右手を捉え、口許に持っていく。
肉塊に焼かれた手を、猫のように舐め始めた。少女の姿でも中身は変わらない。傷は舐めて治すという認識しか持たない。
チャナの舌が掌にまわった。
ヴォルドルーンは手を引いた。
チャナが貌を上げる。子供のような貌だった。
「もういい。おまえの舌が荒れる」
苦笑しながら、ヴォルドルーンは言った。チャナが、猫のように、きょとん、とする。
「ペット……だな。そのざま……は……」
男の声がした。ヴォルドルーンは視線を落とした。
男の眼に、微かな光が宿っていた。
「生きていたのか」
「生きて……いると…言える……かどう……か」
ごぶり、と男が半透明の液体を吐いた。肉塊の中にあった液体だろう。男の口から喉にかけて、こぼれた液体が肉を溶かす。
「とどめが欲しいか」
ヴォルドルーンは言った。口調に変化は無い。
男はひきつったような笑みを浮かべた。痙攣にしか見えない。
「たい……し…て、変わ……らん」
そう長くは保たないだろう。胃から下は溶けて無い。背骨が、尾のように残っているだけだ。
「なぜ……たすけ…た」
「なぜ?」
「き……さまを……滅却し…よ……と…した……相手だ……、ぞ」
「たすけようと思ったわけではない」
男の皮膚が溶けるのを見た瞬間、手が伸びていた。
「ただの反射だ」
「は……んしゃ…か」
男の喉が鳴った。笑ったのかもしれない。
「あ……れを、止め……よ…うと……して……た、な」
「ああ」
「とび…込……んで、か?」
「『封印』が反応すれば、動きくらいは止まっただろうさ」
「反応……しな、か……たら?」
「さあな」
「……」
男の眼が、ふ、と透明になった。
「殿堂は……おまえ……を……殺す…まで…狙う……だろ…う」
男は、ズァインを滅却する――とは言わなかった。
人に対して言うように、殺す――と言った。
ヴォルドルーンは唇の端を上げた。
「殺される気は無いが、おれだけを狙うなら好きにすればいい」
関係無い者を巻き込むな――と言いたかったのだが、男にそれを聞く力はもう残っていないようだった。
眼の光が急速に薄れていく。
「仲間はどこにいる」
片膝をついて、ヴォルドルーンは言った。
「な……かま?」
男が反応した。
「城にいた仲間だ。視線を感じた。近くにいるのだろう? 聖魔殿堂に連れ帰ってもらうといい」
「なか……まは、い……ない。見てい……のは、自分……だけ、だ」
では。あの視線は――
ヴォルドルーンは右眼だけを細くした。
だが――と男が言った。
ヴォルドルーンは男に視線を戻した。
「だが?」
「ナ……ヤー……の……始末に……が向か……た。虚構が…解……た…のは、……が目覚……め――た――」
ひゅっ、と喉が鳴った。ひゅ、ひゅ、と鳴る。それはもう呼吸ではなかった。
ヴォルドルーンは右手を伸ばし、男の眼を覆った。
「もういい」
男の身体から力が抜けた。
風が吹いた。
ヴォルドルーンの髪を揺らす。
空震から吐き出された風が、この時、吹き返しとなって戻ってきたのだった。




