源初
源初
血の色をした洞窟であった。
ごつごつとした岩壁も。闇がわだかまる遥か天蓋も。地面に転がる小さな石までも。
べっとりと血を塗ったように赤い。
どこか奇妙な洞窟である。
子宮のような丸みを帯びた岩肌に、太い筋が無数に走っている。
それがやけに生々しい。
色のせいか。どうしても血管を連想する。
硬いはずの岩肌が、それのせいで、臓器のようにぬらぬらと濡れて見える。
その岩肌を、篝火の炎がさらに赤く照らしている。
突き当りになった洞窟の奥で、篝火が燃えていた。
台座のような巨石が置かれ、その両脇で、三本の鉄棒を絡み合わせた三脚が薪を入れた鉄の籠を支えている。
祭壇であろうか。
巨石の上には、全裸の赤子が寝かされていた。
生後数カ月かそこらの男児である。
つるりとした桃色の肌が、炎の明かりをふんだんに浴びて輝いている。
眼はすでに見えるらしい。澄んだ眼を、洞窟の壁や天蓋に向けている。
その動きが止まった。
祭壇の前に男がひとり現れ、赤子の眼はその男に向けられた。
幽鬼のような老人であった。黒ずんだ朱色の長衣を身に纏っている。首は細く、青黒い血管が別の生き物のように浮き出ている。
貌は、しかし、陽光の下で見れば、穏やかで、品があるとさえ言えただろう。
白い眉。切り揃えた白髪。筋の通った鼻。
頬の肉は落ち、老人特有の血色の悪い肌をしていたが、それなりに整った容貌である。
だが、炎の陰影の下では、なまじ整っているだけに、不気味であった。
深い彫りは深淵のような暗い影を作り、皺の一本一本が、泥土に刻まれた漆黒の筋に見える。そして――
異様に輝くふたつの眼。
どろり、と濁った眼球であるのに、虹彩だけが不気味にぎらついている。
その眼が、舐めるように赤子を見つめている。
「アイン――」
老人が口を開いた。
アイン――
アイン――
同じ言葉が陰々と洞窟の中に響く。
それは、反響ではなかった。
老人の背後に百人はいようかという男女が跪き、老人と同じ言葉を唱和したのだ。
若者から年寄りまで。男女の年齢はまちまちであったが、いずれも老人と同じ黒朱色の服を着ている。何よりも、眼の色が同じだった。欲望と執念にぎらついた眼――
その眼が全て赤子を見つめている。
異様な空気だ。
その中で、赤子は静かであった。
澄んだ眼で老人を見返している。
恐怖も怯えの色も無い。平然とした貌で、粘つくような視線を受け流している。
まだ何も理解していないのかもしれない。いや、それはない。利発そうな貌は、何も知らない赤子のそれではない。状況こそ理解していないかもしれないが、老人と、背後の男女から放たれる感情を、その欲情が染める空気を、明らかに認識している。
認識しながら、泣きもしない。
並みの神経ではない。
「いい面魂をしている」
赤子を見下ろし、老人が言った。
「それでこそズァイン――アインの『御力』だ。――諸君よ」
背後の男女に老人は貌を向けた。
「ついにアインは我らに『御力』を授けてくれた。それもただの『御力』ではない。生きた『御力』だ。この赤子が成長すれば、『御力』もまた強大化する。それは必ずやアインを呼ぶであろう。――祝え。アインがこの世に顕現すれば、あらゆる苦しみは消滅する。老いも病も死すらなく、我らは永遠の命を生きるだろう」
おおおおお――と、男女が叫んだ。
アイン――
アイン――
洞窟の壁をも震わす男女の声を聴きながら、老人は赤子に視線を戻した。
唇に、ぞっとするような笑みを浮かべている。
右手には、いつの間にか、鋭いナイフが握られている。
「だがおまえの意思は必要ない」
赤子の上に身を屈め、老人は悪鬼のように囁いた。
「人形のようにわしに従うといい」
ゆっくりと老人はナイフを動かした。
赤子の眉間から髪の生え際まで。
ぱくり、と桃色の肉が弾け、白い骨が覗いた。見る間に赤い血が溢れ、眼から頬へと流れていく。
赤子の背中が激しく反り返った。だが逃れられるはずもない。老人の手が赤子の喉を押さえつけている。
「すぐに済む」
老人の舌が、乾いた唇をぞろりと舐める。
「脳を少し、破壊するだけだ」
老人はナイフを下げていった。垂直に立てたナイフが赤子の額に潜り込もうとする。
「やめて――っ」
甲高い悲鳴が老人の動きを止めた。
老人の眼が、ぎろり、と動いた。背後の男女達の、そのまた背後に――
そこに、ひとりの女が立っていた。
ほっそりとした美しい女だった。ここまで走って来たのだろう、服ははだけ、腰まである長い髪は激しく乱れていた。息は荒く、汗に濡れた貌は獣のような表情を浮かべていたが、それでも、美しい女だった。どことなく赤子と面差しが似ている。
女は顔面を血に染めた赤子を見るや、さらに血相を変えて走り出した。
跪いていた男女が押し退けられて悲鳴をあげた。女の細腕のどこにそれほどの力があったのか。祭壇の前にいた老人は、突き飛ばされてよろめいた。
「ぼうや……」
わずかに女の表情が和らいだ。赤子に両手を伸ばす。
「わたしのぼうや」
優しい指で赤子の血を拭った。後から後から溢れる血を何度も拭った。
女の貌に慈愛の笑みが浮かび、一瞬後、凍りついた。
女の胸からナイフの切っ先が生えていた。
女の背後に老人が立っていた。女の肩越しにぎらついた眼が現れる。
「それは我らのズァインだ」
暗い声で告げる。
「誰にも渡さん」
「わたしの……子供です」
一瞬老人に眼を向けた女が、喘ぎながら赤子に眼を戻した。美しい眼に涙が溢れ、頬に伝った。
赤子の眼に、女の貌が映っている。
「わたしの……」
両手が赤子の上を彷徨い、女の身体は水に揺れるようにゆっくりと倒れていった。
泳いだ腕が祭壇の左脇に置かれていた三脚に当たった。
がしゃん、と派手な音をたて、三脚が倒れた。
火のついた薪が飛び、金色の火の粉が光の砂のように散る。
片方の篝火を失った祭壇に、影が生じた。影は赤子の身体にも落ちた。
「いかん」
老人が叫んだ。
「すぐに元に戻せ」
二、三人が慌てて応じようとし、地面に叩きつけられた。
ずん、と地響きとともに、洞窟が揺れたのだ。
縦揺れだった。
全員がたまらずに突っ伏した。
「おお。もうひとつの篝火が――」
両手を地面につけたまま、老人は叫んだ。
右脇の鉄籠が三脚から弾け飛んでいた。ごろごろと地面を転がり、火の粉を撒き散らす。
衝撃でほとんどの火が消えた。
あ、あ、あ、あ、あ――
暗くなった洞窟に、赤子の声が響いた。
額を割られても悲鳴をあげなかった赤子が、闇を引き裂くような声をあげていた。
呼応するにように揺れが酷くなる。
赤子の仕業なのか。
老人は赤子を『御力』と呼んだ。
これが、その『力』なのか。
だが――
『これ』で終わりではなかった。
岩肌に走っていた血管のような筋が、どくん、と音をたてて膨れ上がった。
びくびくと痙攣するように震え、蛇が鎌首をもたげるように岩肌から遊離した。
おぞましくも無数の触手と化して、洞窟内をゆらゆらと蠢いた。
「ひいいい」
誰かが叫んだ。それが恐慌を誘発した。老人を除いた全員が口々に悲鳴をあげ、洞窟から逃げ出そうとした。
ゆらり、と触手が動いた。
逃げ惑う者達に生き物のように巻きついた。
ぼきり、と乾いた音が響いた。
骨が折れる音だった。
ぶちり、と手や足がちぎれて落ちた。
何本もの触手が引き合った結果だった。
噴き上がった血が、洞窟の中で渦を巻く。
「ズァインだ。……ズァインが発動した」
老人が呻いた。その身体にも、触手が巻きついている。
「だ、だが、今ズァインを発動させてしまっては我らの悲願が……」
老人は辛うじて自由のきく右手を伸ばした。ほんの腕一本分ほど離れたところに、まだ炎を残した薪が転がっている。火のまわりには、触手が生じていない。
老人の指が薪に触れ――なかった。
ずぶり、と老人の身体が腰まで沈んだのだ。
硬かったはずの地面が、泥と化した。
「く……」
老人が貌を上げた。
その貌が、ずるり、と剥けた。
皮膚が溶けたのだ。赤い筋肉が顕わになり、血が汗のように流れ落ちる。
「ぐあうっ――」
叫び声をあげ、老人は両手で貌を覆った。
その手の皮膚も、どろり、と溶けている。
身体がぁ――
溶けるうぅぅ――
洞窟の中で、幾人もの悲鳴があがった。
今や洞窟の壁も地面も泥のように溶け、さらに呑み込んだ人間をも溶かそうとしていた。
無数の触手もぬらつきながら、泥の中に溶け崩れていく。
何もかもがひとつに溶け合い、原初の泥に還ろうとするかのように――
「こんな……ところで……」
指の肉を糸のように引きながら、老人は赤子に手を伸ばした。
伸ばしても、届く距離ではない。
手の向こう側で、細かな瓦礫が雨のように降り注いでいる。
天蓋までが崩れ始めたようである。いや、そうではなかった。
何かが、天蓋を割ろうとしている。
軋むような音が外から響いてくる。
老人は視線を上げた。
天蓋に、ぼこり、と穴が開いた。
ごお、と風が鳴り、空気の動きに逆らうように、何かが飛び込んでくる。
光の玉に見えた。
両腕でひと抱えできる大きさだ。繭のようにも見える。
それは真っ直ぐに赤子に向かい、そのまま、ふわり、と赤子を包んだ。
途端、全てが静まった。
泥と化していた地面が一瞬で硬い岩に戻った。
溶け崩れていた壁は冷えたマグマのように固まり、泥の中で蠢いていた触手は、その状態で岩と同化した。
あれほど激しかった揺れも、今は微動だにしない。
老人は、ぎらつく眼で赤子を見つめた。
正確には、赤子を包んだ光の繭を。
ふいに、光の繭が動いた。赤子を包んだまま、宙に浮く。
老人の顎が上がった。光の繭は、天蓋に生じた穴から外に出ていく。
満天の星が見えた。
その星空を背景に、小さな影が浮かんでいた。
光の繭が影の近くで動きを止める。子供のような姿が照らし出された。子供のような、というのは、頭部の比率がやけに大きかったせいだが、光に浮かび上がった貌は、子供のそれではなかった。
頭髪は無く、丸い頭は干からびた果実のようであった。
鼻も口も、皺に埋もれてあるのかないのかわからない。
眼は、左眼は潰れているのか、皺の中に埋もれていたが、右眼は半眼ながらも開いていた。その眼にだけ、精気がある。
子供のように澄んだ眼だった。
その眼で、金色の繭を覗き込む。
「ほ。これが空間異常の原因か」
子供のように甲高い声だった。
「……か…えせ。我ら……のズァインだ」
洞窟の老人が呻くように言った。
全身の皮膚が溶け、夥しい血を流している。
その出血量を見れば、意識があるのが不思議だった。絶命してもおかしくない。
半眼の眼を憐れむように細めながら、干からびた子供が口を開く。
「人間が操れる『力』ではない」
子供の手が繭に触れた。
そのまま繭と共に洞窟から離れていく。
天に向かって。
繭の光が星の光と区別がつかなくなるほど遠ざかり、それと同時に、老人は、がくり、と首を折った。
その下半身は、地面の岩と同化している。
洞窟の中は、半ば溶けた男女の、腕や、首が、岩の壁や地面に閉じ込められながら、びくん、びくん、と動いている。
まるで臓器の一部のように。
ぎょろり、と老人の眼が動いた。
その瞬間、洞窟が震えた。
どくん――。