ギリシャ神話における略奪婚のその後。
「トゥリッドゥが殺された!!」
女の悲痛な声が響き渡る。
眼の縁をくっきりとしたアイラインで縁どった化粧の濃い派手な顔とは、裏腹に地味な衣装の女たちが騒ぐ。人々の悲鳴が飛び交う。
身内らしい女が、大仰な身振りでその場に倒れ込んだ。
トゥリッドゥ……って、誰だっけ?
眠い目を擦りながら、ぼんやりと思い出す。
ああ、そうだ。
シケリア島の村に帰ってきた青年だ。
それが、昔の恋人とよりを戻したのはいいけど、残念ながら彼女はすでに人妻。
妻の不倫にキレた夫が、トゥリッドゥを決闘で殺してしまう。
今は、シケリアではなくシチリアと呼ばれているイタリア半島の地中海最大の島を舞台にしたオペラだ。ほとんどワイドショーのネタみたいな内容……。
周囲では、盛大な拍手が沸き起こり、あたしも軽い調子で拍手をした。ようやく舞台は、終ったようだ。
21世紀の現代で、古代ギリシャの野外劇場テアトログレコで上演されたのが、19世紀のヴェリズモ(真実主義)・オペラだなんて、ちょっと間が抜けている。
おそらく19世紀なら、シチリアで第二の規模を誇るこの古代劇場も半分埋もれかけた廃虚だったはずだ。今では、観光化のおかげで修復も進んでいる。
もっとも、クラッシックに興味のないあたしには、非常に退屈この上ない。
結婚とは人生の墓場だとは言うが、あたしだって墓所に生きたまま埋められたのも同然の身の上である。
「よくお休みでしたね」
隣の席から、夫が声をかけてきた。
さすがに、眠っていたと言われると恥ずかしいので、いかにも起きてましたよ!というアピールをしてしまう。
「いいえ、トゥリッドゥによって歌われるシチリアーナはとても素晴らしかったわ」
パンフレットの受け売りだ。
後で、どうだった? と、夫に聞かれたときのために用意していたセリフだから、すらすら出てくる。
「それに何と言っても劇的なラストシーンの直前に置かれた間奏曲は……」
「そのシーンであなた。爆睡してたでしょ?」
だから、どうした。いびきでもかいて、あんたに迷惑をかけたとでも言うのか。
内心でそう思ったものの口には出さず、にっこり微笑んでやる。我ながら、見事な顔面操作。
半年ぶりの里帰りに、こんな面白くもないオペラなど観にくるのではなかった。
シチリアで第二の規模を誇る古代劇場は、タオルミーナの高台に位置しており、海の近くにある。劇場ではまだ人々が残って、騒いでいるようだった。
ギリシャでも、夏の芸術祭でオーケストラやポピュラーミュージックのコンサート、演劇、舞踊など、世界中の一流パフォーマンスが古代野外劇場で開催されるけど、こちらはそんな大がかりなものではない。
村のお祭りぐらいの規模か。
「あたし、少し一人で歩きたいわ。いいでしょ?」
「おや、わたしはジャマですか」
あたしの言葉に夫は、わずかに眉根を寄せる。
「そんなことないけど、たまには一人になりたいこともあるのよ」
「ええ、そうですね。あなたの里帰りは、半年に一度のことだから」
「そのことに関しては、両家で了承済みだったはずよ」
少し斜めに睨んでやると夫は、やれやれとばかりに首を横に振った。
「では、せめてボディーガードを」
「必要ないわ。だって、シチリア島はあたしの庭よ。今日から半年間だけ、あたしは、一人で好きなところへ行けるんだもの。この島のどこへでもね」
基本的に、今まであたしの思い通りにならなかったことなど、ほぼなかったに等しい。
何より年上の夫は、あたしに甘い。甘すぎて胸やけする。
親子ほども年齢差があるのだから、当然かもしれないが、いつになっても夫は、あたしを子供扱いするのだ。
周囲もそれが当然だと思っているから、ちょっとした散歩にさえ、ボディーガードがつく。自由にできるのは、実家のあるシチリア島にいる間だけなのだ。
そんなわけで夫をほっといて、あたしは、ハイヒールの踵を鳴らしながら歩き出した。
海沿いの市街地には、昔から大きな魚市場がある。
普通のマーケットとも一緒になっていて、外国人の団体観光客やグループも多い。
新鮮な魚介類に紛れて、カタツムリが売っている。
大きさは大小あわせて三種類くらい。小さなもので小指の先くらい。大きいほうなら掌ぐらいはあるだろう。
これが箱の中に山のようにいた。
見ていると、カタツムリはうぞうぞと、触覚を動かしながら箱の中からこぼれるように抜け出してくる。
それを店番の男性が、素手で押さえ込んでいるのだ。
興味津々で見ていると、買い物客らしい老婆が、ものすごい早口で説明してくれる。
気持ちは嬉しいのだが、さっぱり判らない。
これはシチリア特有の方言だ。あたしの知っているシチリアの言葉と違うのは、下町のものだろうか。
カタツムリは、春から夏にかけてよく食べられる。食に関しては、今も昔も変わらないのが嬉しい。
にこやかに老婆は、話しかけてくれるので邪険にするわけにもいかず、なんとなく相手をしているうちに時間が過ぎていく。
そろそろ飽きてきた……そう思っていたとき、背後から肩をつかまれた。
ぎょっとして振り返ると、まるで知らない男がそこにいた。
がっしりとした長身。着崩しただらしない服装は、見るからに怪しげに見える。
綿のシャツの下に革紐でつるした黒い石が、大きく開いた胸元にぶら下がっていた。
マフィアの発祥の地とでもいうべきシチリア島だけあって、そちらの関係者といえばそうかもしれない。
あたしのボディーガードにもこんなタイプはいなかった。
「……どなたですか」
混乱していたあたしは、思わずイタリア語で応対するのを失念してしまった。
あわてて言いなおそうとしたが、先に相手が答える。
「もう、そろそろお家に帰る時間じゃないのかね。バルバルッチの好きなお嬢さん?」
男が口にしたのは、意外にもあたしのよく知っている古代ギリシャ語だった。
古くて厳めしい言語とは裏腹に、その内容はずいぶんと砕けたものだ。
あたしに向かって、こんな口の利き方をする相手とは、長らく話したことがなかった。
必死で、親族たちの顔を思い浮かべる。だが、結婚後も前も社交場とは縁がない。でも、相手はこっちの身の上を知っている。
これは誰だ。
男は、いやらしいニヤニヤ笑いを浮かべて、わたしを見下ろしている。
「ち、近寄らないで下さい」
「別に、寄っちゃいないさ。俺はあんたにこれを」
そう言いながら、男はポケットをまさぐっている。
まさか飴でもくれようというわけでもあるまい。わたしは男の脇をすり抜けて逃げ出した。
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「待て、こら!」
後ろで男の声が聞こえたが、はいそうですか、と待つ馬鹿もいるはずもない。
わたしは、人ごみをかき分けながら全力で駆け出した。
だが、同じ逃げるなら人のいるところを選んで逃げるのが、賢いやり方だった。
落ち着いて考えればすぐに理解できることでも、この状況では無理だ。
――お若い后さま。よくよくお気を付けなさることだ。ことに“男”という生き物は油断がならぬ。
賢い……というか、あたしよりもはるかに智慧の回る異母兄ヘルメスならば、そう言っただろう。
今の夫と結婚させられるハメになったのも、あたしの不注意が元だった。
そうだ。
あの時も、こんな感じで見知らぬオジサンに声をかけられて、うかつに着いて行ってしまったら、そのまま初夜になだれ込むというありさま。
あいつは、絶対にロリコンだったんだ。後で聞いたら、夫は、父親の弟だというではないか。
血縁関係も本人の同意も無視した結婚だった。
余計なことを思い出していたせいだろうか。足が何かにひっかかった。
あっという間もない。そのまま両手をついてすっ転んだ。
ヒールの踵を石畳の隙間に突っ込んでしまったらしい。
道で転ぶなど子供のころ以来である。やはり、当世風の靴は歩きにくいのだ。
情けなさと痛みで、起き上がることさえできずにいると、頭の上から押し殺した笑い声が聞こえた。
「これ、あんたの財布だろう?」
差し出された染めた皮製品を見て、あたしは意地になって叫んだ。
「お金なら差し上げます。もう、どこかへ行って下さい!」
「俺はそれでも構わんが、あんたは困るだろ」
「…………」
「ちゃんとお家へ帰れるか」
「タ、タクシーで帰ります」
「財布もなしで?」
本来ならば財布どころか、タクシーの必要さえないのだ。
あたしがどこにいても呼べば、夫はすぐにくる。自分が行けない時には、必ず代わりの誰かが来るに決まっている。
だけど、たった今“この島は自分の庭のようなもの”と豪語した手前、助けを呼ぶなどできない。
「ホテルに戻れば、お金はあります。あたしはイタリア語だってちゃんと……!!!」
「あんたみたいなお嬢ちゃん、ボラれるに決まっているだろう。それ以前に古くさい言葉が通じるかよ。そもそも、あんたのはイタリア語じゃなくて古代ローマの言葉だ。現代には、ローマって国はないんだぜ。イタリアの首都だ」
「そ、そんなこと……」
口ごもるあたしの前に、見知らぬ男はしゃがみこんで視線の高さを同じにする。
思いがけず近くから覗き込まれるようで、あたしは心臓が跳ね上がりそうだった。
なぜ、それほどうろたえてしまったのだろうか。
つりあがりぎみのきつい男の眸の色が、シチリアの海のように真っ青な色をしていたからかもしれない。
海の色は、空の色を反射するという。
シチリアの海は、青い。その深い青さが目に沁みるほどである。
ここにいたってようやく、あたしは男の顔を見た。
銀の前髪を後ろになでつけた野生的な美貌。
日に焼けた精悍な頬の線や形のよい唇。ほっそりとした長身。ただ、これ見よがしにはだけたシャツの胸元があたしには、いやらしく危なげに見えた。
「何が目的なの」
「はあ?」
男は器用に片方の眉をあげて見せた。なかなか様になっている。
わたしはその場に座り込んだまま、繰り返した。
「だから……目的は……」
「目的って、俺があんたをナンパしているとでも思ったわけか?」
「……違うとでも言うんですか」
「悪いが、春の女神に手を出そうなんて怖いもの知らずじゃないんでな」
今、この男はなんと言った。
女神……それも“春”と言った。
わたしを知っているなら、“春の女神”などと言わない。后と呼ぶはずだ。
それは、結婚する前の……|乙女(コレ―)と呼ばれていた頃にしか。
落ち着かなければいけない。
そうは思うものの、全身の血液が頭に回ってくらくらするほどに恐慌状態に陥っていた。
「なんだ。お后様になっちまったら、幼馴染みの俺のことも忘れちまったか?」
男はわたしの耳もとに口を寄せて、小声で話す。
わたしは、ぞっと体が震えるのを感じた。ひどくなれなれしい。その態度に対して怒るのも忘れて問い返していた。
「貴方、誰……?」
「アーレスだよ」
「どちらのアーレスさん?」
「あんたが、この島で花に色をつけていたのを片っ端からジャマしてたあのアーレスだよ」
一瞬、あたしの脳内で竜に曳かせた戦車に乗って走り回っていた小さい男の子が浮かんだ。
豊穣の女神である母の手伝いをしていたころ。
まだこの地上に人間が数えるほどしかいなかった時代だ。あたしは、芽吹いたばかりの花々に色をつけていた。
たくさんの花々……たくさんの木々。強い日ざしをうけて,草むらから立ちのぼるむっとする熱気の中で、小さな男の子が小さな枝で草花を薙いでいく。
それも、決まってあたしが見ている前だ。
わざと、目につくやりかたで、いたずらをする悪い子。
小さな竜を従えて、偉そうぶってみせる腕白坊主。
でも、本当は、意気地なしの泣き虫。腕力では、あたしには敵わないんだもの。
「って……まさかピーピー泣いてたあのチビちゃんが」
そういえば、あの男の子もこんな青い奇麗な目をしていた。
今の彼からは、そんな面影を見つけるのは難しい。すっかり人の世に紛れ込んでしまって、マフィアにしか見えない。
「よくそこまで言えるな。もうチビじゃないんだ。俺もオリュンポスの十二神の一柱だぜ。」
「……だぜって、嘘でしょ?」
「あいにくだが、事実だ。人間と違って、俺たちは嘘がつけないからな」
「嘘、絶対に嘘よ!」
「しつこいぞ。なんなら証拠を」
「いやぁあああ、止めて!!!!」
「何が?」
「だって、アーレスっていったら“狂乱の戦の男神”だとか、“オリュンポスでも一、二を争う美男”だって聞いていたから……まさか、あの泣き虫チビちゃんだったなんて!」
「それは子供のころだろ。顔だけは、わりと自信があったんだが」
「だからって、わたしのイメージじゃないんですもの。あなたってマフィアのボスみたいで」
「誰がマフィアだ!!!」
「ショックだわ。こんなマフィアみたいな……」
「マフィア、マフィアと言うな。地元にしたらそのありがたくもない称号を外国人に口にされるのは嫌なものなんだ」
「あら。悪気はなかったんだけど」
「悪気があろうと、なかろうと……あんただって胸ばっかり育って頭の中は空っぽだなんて言われたら、嫌な気分だろうが?」
そう言ってアーレスは、あたしの胸に指を突きつけてきた。
結婚する前は、ずっと“乙女”だったから、胸だって、身体だって小さな女の子のままだった。
あたしは、永遠に母のそばで、娘のままでいるものだと思い込んでいたのに……それを、夫となったあの男は、あたしに名前を与えた。
彼の妻にふさわしい名前を……その瞬間から、あたしは大人になったのだ。
名を与えられ、彼に触れられたこの身は、大人の女のそれになってしまった。
気にしていたことを、ずばりと言われて、あたしはその場でひっぱたいてやりたかった。
殺してやりたいくらい悔しかった。
幼い日の自分を知っている相手だけに、怒りはなお増したが、どうしようもない。
確かに自分の非も認めなくてはならない。
認めたくはないが、それは母の言いつけでもあったから、しぶしぶ謝罪をした。
「ご、ごめんなさい……」
唇を噛む。相手が夫や父である大神の前でも、そんなヘマはしなかったのに。
后だろうと、女神だろうと、詫びるべきときは詫びるものだ。
それを教えてくれたのは、あたしの敬愛する母……大地母神だった。
正直、母の教えはあたしには苦痛でしかなかったので、できるだけ、物事を慎重に行う癖がついていたはずだったのに……どういうわけか、今のあたしはこの男のペースに巻き込まれている。
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「あんた、やっぱり変わらねえな。あいかわらず可愛いぜ」
……可愛い?
聞きなれないせりふにわたしは、びっくりした。
そんな風に言うのは、母様だけだ。
たいていは、“美しい”だとか“きれい”だとか……。
人間と違って、神々は偽りを語ることはない。鏡を見た自分の顔を見てもそう思う。ただ“可愛い”とは、大人になってしまうと、まるで言われることがなかった。
どうして狼狽してしまったのだろうか。
可愛いと言われて、不覚にもわたしは赤面してしまったのだ。
小娘のように恥らうあたしを見て、アーレスは大笑いするかと思ったら、意外にも真面目くさった顔をしてこちらを見ている。
なんだか決まり悪くなって、あたしは嬉しいくせにわざと不機嫌な顔を造ってみせた。
「初めて出会った女性にそんなこというなんて、あなた、紳士じゃないわ」
「オリュンポス十二神は、紳士じゃねぇよ。あんただって、バルバルッチが好きな神后さまなんて変わってるぜ」
「その……バルバルッチって?」
「ガリア(フランスの古語)あたりなら、エスカルゴとかいうんじゃねえか?」
「……あ、さっきのカタツムリのこと……」
いつからこの男はあたしのことを見ていたのだ。
「あんた、今もコレ―って呼ばれんの?」
「何?」
「昔みたいに呼ぶのも変だろ。だからって “お后さま”なんてのも、今さらだしな」
「……そう呼べばいいんだわ。神后ですもの」
久しぶりに会った幼馴染だからと言って、そう簡単に本名を言うものではない。
オリュンポス山の頂に住まう十二柱の神々は、お互いに名前で呼び合っているようだが、それはオリュンポスの流儀だ。
同じ父方の系統とはいえ、あたしは違う。
「まあ、なんでもいいわ。十二神なら安心ね。あたしを母の神殿まで送ってくださいな」
本当は一人で帰るから、どこへでも行ってくれと言おうとしたのだが、なぜか、あたしの口から出たのはそんな言葉だった。
「それはかまわねぇが、それで俺のメリットは何かあるのか?」
「メ、メリット……って、あなた、十二神でしょ? ピーピーチビちゃんでしょ? あたしの言うことが……」
「オリュンポスならいざ知らず、こんなイタリアで何言ってるんだ。俺は、時間外労働はしないんだ」
アーレスは、ぐっと顔を近づけて言う。
葉巻と皮の臭いがする。
小さかったころの甘ったるい匂いはしなくなっている。あのころは、蜂蜜菓子が好きだったから。
見上げるとアーレスは、あいかわらず口の端だけをきゅっと上げた嫌味ったらしい笑い方をしている。
「それなら、もういいわ」
あたしは、そう言い捨ててアーレスに背中をむけた。
いくら幼馴染だからって、ずうずうしいのではないかしら。昔はこんなではなかった。
もっと素直で、あたしの言うことなら何でも聞いたのに。
しばらく会わないうちに、すっかりオリュンポスの流儀に染まって、いっぱしの色男気取りだ。
「何、しょぼくれてる?」
「おあいにくさま。ショボくれているのはそちらでしょ?」
彼の中で子供のころとちっとも変ってない部分をあたしは見つけたような気がした。
アーレスは、明るい開けっ放しの生き生きとした感情がそのまま表情に出る。意地の悪い言い方をしてさえ、楽しくて仕方ないようだ。それなのに、あたしのほうがアッサリと引き下がったものだから、拍子抜けしているのかしら。
人間と違って神々が大人になるのは、一瞬のことだ。あたしだって、夫から名前をもらって、大人になった。外見が変わったからといって、中身までがそう簡単に変るものだろうか。
「ふうん……」
「なんなんの?」
「あんた、俺に誘って欲しかったんだろう?」
少々、相手より優位に感じた気分は、一瞬にして霧散した。
この男は、神后たるあたしをなんだと思っているのか。
「ぶぶぶぶ、無礼者!!!!!」
握りしめた拳を振り上げたが、むなしく空をきる。
頭にきたので、とっさに体勢を整えた。利き足で蹴りつける。
わたしのローキックはうまくアーレスの脛にヒットしたが、思いがけずこちらのダメージの方が大きい。
小さいころには、最初の一撃で瞬殺してやったものを。
打ち付けた足の甲が痺れるように痛い。なんて硬さだ! 鋼を仕込んでいるのか。
これでも神殿の柱の一本くらい折れる自信があるのだ。そのわたしの足が……!
「すまん。避けるつもりが、思わずあんたの足に見惚れた」
「な、なんですって!!!」
怒りのためか、痛みのせいか、もはやなんだか分からない涙があたしの眼にじんわりと浮かぶ。
今ここに地獄の番犬がいたなら、この男にけしかけてやりたい気分だった。
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「あんた、やっぱり可愛いぜ」
無駄に機嫌のよいアーレスの言いぐさが頭にくる。
結局のところ幼馴染の男に背負われてあたしは、母の許へと帰るはめになってしまった。
こんな姿を夫が見たら、どうするだろう。
想像しただけで恐ろしい。だが、約束したのは、半年間の自由だ。
この島の中では、どこで何をしていようと、嫉妬深い夫の監視からは逃れることができる。
以前に、あたしに想いを寄せた男が冥界まで忍び込んできたことがあった。
当然、ただでは済まされない。
その男は、今も生きることも死ぬこともできず、地下深くで毒虫にたかられながら“忘却の椅子”に捕らわれているという。
可愛い可愛い……と、
何度も言われて今のあたしは、茹でタコのように赤くなっていたに違いない。怒りで脳が煮えそうな気分だ。
「名前、教えろよ。あんたもいい加減、強情だよな」
「……無礼者に教える名などありませんから」
「どうせ、里帰り中だろ? ちょっとした浮気ぐらいオリュンポスの神々ならアリだぜ?」
「あなたがたにアリでも、わたしにはナシですから」
「あいからわらず、頭が固いな」
アーレスは、わざとらしい吐息をついたが、その背は広く温かだった。
ゆられていると、不思議と心がなごんでしまうのだ。子供のころをちょっと思い出す。
あのころは、何の屈託もなかった。
野原を駆け回っていたあの小さな男の子も、女の子も……もう、どこにもいなくなってしまった。
「あんたがいなくなってから、この地上に春がなくなっちまったな」
「だから、ときどき里帰りしているでしょ」
「短けぇ春だけどな」
「夫は、里帰りが多いと言ってるわ」
「冥府の王はよくばりだよ。あらゆる富を持っているくせに、春の女神まで連れ去っちまった」
春の女神に恋慕した冥府の神が、強引に連れ去ったのは、地上どころか雲居のオリュンポスまで知れ渡っているらしい。
「タクシーさえ捕まればそこで降ろしていただいて、けっこうよ。お礼はあとで母のほうから……」
「礼なら今、頂いてる」
そう言いながら、この男はさわさわと、あたしの脚を撫で回すように触る。
「ほんと、はいい脚してるぜ。|ペルセポネー(目も眩むような光)は」
あたしは無言のまま、男の脳天を正拳突きする。
突き出す側の手に、自分の体重を乗せるとより破壊力があるのだ。
「ぐえっ」とまるで蛙を潰したような声を洩らしてアーレスは、その場にしゃがむ。あたしは知らん顔して、さっさと男の背中から降りた。
油断も隙もない。まったくこの男は、どこであたしの名を知ったのか。
「痛いじゃねえか。このタコ!」
噛みつきそうな勢いで怒鳴るアーレスに舌を出したやったとたん、自分の脳天にも衝撃がきた。
「本当に“タコ”ですね。あなたは」
背後から聞こえた声にあたしは、総毛だった。
頭を抱えて振り返ると、あたしの頭上にアイアンクローが見事に決めて、ドヤ顔で笑う夫がいる。
冥府の王とか呼ばれているが、現世ではきちんとしたゼニアのスーツ。
見た目だけは、落ち着いた中年紳士だ。
「申し訳ありませんね……皆で甘やかしておりましたせいでご迷惑をおかけした。まったく妻は、いつまでも子供でしてね」
そう言いながら夫は、しゃがみこんでいたアーレスに手を差し伸べる。
タコ呼ばわりしたあげくに頭頂部をわしづかみにした妻のことは、ほっとくつもりらしい。
実家に帰ったら、母に言いつけてやろうか……と思っていると夫は、アーレスの腕をつかんで助け起こした。
ずいぶんと紳士的なことだ。
いや、女性に脳天締めするあたりで、すでに紳士ではない。
ハーデスは、面喰っているアーレスを立ち上がらせると、両手を広げて抱きしめた。
今、目の前で何が起こったのか。まったく把握ができない。
たぶん、アーレスのほうも同じだろう。巨体の中年男に抱きつかれて身動きもできずにいるようだ。
無抵抗のアーレスの身体を抱きしめながらハーデスは、唇を若い男の咽喉から耳に這わせる。
「うっ」っと呻き声をアーレスはあげるが、かまうことなく夫は、耳朶を噛んだ。
アーレスは、あたしと同じ主神ゼウスを父とするから、ハーデスから見れば、彼も甥にあたる。
これは久しぶりに会った親戚同士が抱擁していると受けとるべきなのか。
たぶん、違う。
オリュンポスの神々において、血縁関係などあってないようなものだ。同族同士の殺し合いや肉体関係など、なんでもアリ。人間よりはるかに動物的だとも言える。
あたしの脳内で、男同士のイケナイ関係が出来上がってしまう。
夫ハーデスは、冥府の王と呼ばれているが、その外見は美しい。
初めて逢ったころには、神々の王である父よりもずっと老けていて恐ろしげに見えた。黒髪と髭のせいだろうか。重々しい威厳に満ちた姿。深い声音が、誰をも近づけさせない。
陽気で、女好みの父とは違い、いつも不機嫌そうだった。
だが、近くへ寄ってみれば、彼の切れ上がった涼しげな優しい眼もとに気づく者がいるかもしれない。
男のくせにほっそりとした長い指先。それに触れられたら、もうゾクゾクと身体の内側から震えてしてしまう。
いつもは、とても優しいのに突然、彼は性急な行動であたしを驚かせる。無遠慮で、大胆不敵な行動で、あたしの知らなかったさまざまなことを教えたあの指先と唇が、アーレスに触れている。
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年長者が美少年を愛するという行為は、古代からギリシャでもローマでもよくあることだ。それを目の前で見たのは初めてだった。
アーレスは、ほっそりとした長身の美丈夫だが、さらに縦にも横にもハーデスは大きい。
ハーデスに抱きすくめられて、もはやアーレスはなすがままだ。体を小刻みに震わせ、息も絶え絶えというさまだ。
好奇心と嫉妬が、胸の奥でせめぎ合う。
いや、いやいや。これは、夫の不貞行為だ。
やっぱり、母に言いつけてやるべきか。
そうだ。もうこうなったら離婚してやる。二度と冥府には帰ってやらない。
考えているうちに、だんだんと怒りがわいてくる。
その前に、こいつらまとめて、殴ってやらなきゃ、腹の虫が収まらない。
鬱屈した気分が、怒りに変わるにつれて、胸がドキドキしてきた。
興奮のあまり呼吸もままならない。“ごーはーごーは”と我ながら怪しげな息遣いをしながら、あたしが男たちの間に割り込もうとしたとき、いきなりハーデスは、アーレスを突き飛ばした。
赤い液体が飛ぶ。……血?
あたしは、怒りを忘れて茫然とその場に立ちすくんでしまった。
勢いよく放り出されたアーレスは、地面に転がりながら、血をまき散らしている。
あせって、駆け寄ろうとしたが、ハーデスがあたしの腕をつかむ。
アーレスは右耳のあたりを押さえている。その血は、どうやら耳から溢れているらしい。
今の状況についていけないあたしにハーデスは、ゆっくりと微笑んだ。
「ちょっと、先ほどのオペラをを気取ってみたんですよ」
「……え、オペラ? ……少年愛的なものじゃなくて?」
我ながら、間の抜けたセリフ。とっさに思い浮かんだのがそれしかなかった。
「誰がホモだ。痛いってんだよ。あんたら夫婦して凶暴だな!」
耳から、ものすごい血を流しながらアーレスが怒鳴る。ハッキリ言って怖い。
出血は激しいが、耳そのものは無事らしい。ちゃんと形がそのまま残っている。よかった。噛み千切られたんじゃなくて……。
ハーデスは、あたしのほうを向いてにこやかに答えた。
「あなた、寝ていて観ていなかったですね。これは、シチリアでの決闘申込みの流儀です」
そう言われてみれば、さっきのオペラでそんなシーンがあったのかもしれない……ほとんど観てないので、記憶はおぼろげだ。
「け、決闘?」
「まあ、わたしと彼とでは、力の差は歴然としていますので、あのオペラと同じ結果ですけどね」
「あぁん? 何、言ってやがる!!」
ハーデスの言葉に、血まみれのアーレスが反応する。
マフィア……というより、ガラの悪いチンピラが、どこかのIT企業の社長に絡んでいるようにしか見えない状況だ。
その間も、噛まれた耳からは血が止まっていない。
ハーデスが指を鳴らした。
ボンと爆発音がして、煙があがる。
ポップコーンでも作っているかのような軽い音だったのに、真っ黒な煙は目にしみて、涙が出た。
火の爆ぜる音がして、薄眼を開けてみると、さっきまで、アーレスがいた場所に青銅の牛があった。
その牛が小さな焚火で燃やされている。
「まさか、アーレスを牛に?!」
ハーデスを振り返ると彼は、にっこりと優しく微笑んだ。
「違いますよ。これは有名なファラリスの雄牛です」
「ふぁら……の雄牛?」
「この牛の背中に扉があって、そこに犠牲者を入れるわけです。閉じ込めて恐怖心とストレスを与えつつ、火で炙ってじわじわと焼きます。人間の考えることは、果てがないと思いませんか」
「それ……拷問具じゃないの。冥界から持ってきたの」
「まさか。考えたのは古代ギリシャ人です。シチリア島の僭主であったファラリスに献上されたものですよ」
あたしの知っているシチリア島の名物といえば、ワインに塩、はちみつ、オリーブオイルぐらいなものだけど、とんでもないモノがあったんだ。
「単純に焼死させるよりもステキですよ。内部には牛の口へと伝わる真鍮の管があるから、煙で意識を失うこともできずに、焼け死ぬまで苦しみ続けることになる」
グロい……。
ってことは、アーレスは?!
「中にいます」
当然でしょう? と言わんばかりだ。
「決闘はどうしたのよ」
「彼が負けたから、こうなったんですよ」
「……だって、ハーデス。ちょこっと指を鳴らしただけで、何もしてないじゃない」
「軍神といいながら、意外な弱さでしたので」
いつの間に、決着がついたの?
「内部の管は、ちょうどトロンボーンに似た形をしているから、犠牲者の悲鳴が反響して、雄牛の口から断末魔の声が聴ける。音楽的なね……オペラよりいいかもしれませんね」
青銅の雄牛は、ごとごとと動く。
中に何者かがいるのは、確実なようだ。
ハーデスは気取ったしぐさで、あたしの肩を抱く。
そのままくちづけせんばかりに、頬を寄せながら言った。
「愛していますよ。ペルセフォネ―。でも、気を付けて……わたしほど嫉妬深い男はおりませんから……」
「嫉妬って……なんのことよ」
あたしは、身体をこわばらせながら答えた。アーレスのように耳を噛み千切られそうな気がしたのだ。
「オリュンポスでは有名な男ですよ。アーレスは……他者の妻を寝取って、愉しむが好きなのです。へパイストの妻、アフロディーテを寝取った時には、手ひどい仕置きをされたというのに、まだ懲りないらしい」
「そ、そう」
「光を破壊する女に……あなたの美貌に目がくらんだのでしょうね。冥界の神后に手を出すとは……愚かな男だ。いや、哀れと言うべきか」
まっくろな煙が上がる。
被害者の悲痛な声が雄牛の口から洩れた。
なぜだろう。あたしは、その声を聴きながら不思議な昂揚感に包まれている。