後編
興奮して眠れないかと思ったが、逆に興奮し疲れてすぐ眠っていたらしい。僕にしては羊を数えた記憶がないことは珍しかった。起きたらもう夕方で、幸い今日の予定は何もないので焦ることもなく、Kと会う準備のためにお風呂に入ったり買い物に出かけたりと時間をつぶした。ちなみに買ったものはお高めの猫缶とカツオ節だ。別に結婚式を挙げようとかそんなことは考えていない。昨日驚かせてしまったことへの謝罪のつもりだ。
起きたときの時間が時間なので夜になるまで数時間しかなかったのだが、僕には何日も経ったかのように感じられていた。それほどまでに緊張していたのだ。会ったらどうしよう。今日は何をしよう。もっと話しかけてみようか。また、Kの声が聞きたい。頭の中はずっとKのことでいっぱいだ。
ネットを使って猫とのじゃれ方などを探しているとこんこん、というドアを叩く音がした。こんな時間に訪ねてくる客など、Kしかいない。しかし妙だ。いつもならノックなどしないで、密室なはずの部屋の中に入り気付いたら僕の膝の上に乗っているというのに。だから僕はKを「現実にいるはずがない」と例えているというのに。もしかしたらKじゃないのかもしれない。それはそれでおかしいのだが、とりあえず僕は出ることにした。
はい、と返事をしながらドアを開けると、そこには見知らぬ女の子が立っていた。背はやや低め、美しく長い黒髪だ。透き通るような白い肌ととても合っている。少し吊り上った目をしてとても整った顔立ち。なぜこんな美人がこんな時間にうちに?と疑問を抱いた。「どちら様ですか?」と尋ねると、その美人は嬉しそうに「Kだよ!」と言いながら僕に抱きついてきた。いや、は?え?なんだって?
状況が理解できない僕に、Kと名乗る美人はこんな話を始めた。
「信じられないかもしれないけど私は本当は天使だったの。神様に言われて、あなたが悪いことをしないように監視していなさいって言われて毎晩猫の形になってあなたの一日の行動を見せてもらいに行ってたんだ。でも、あなたが悪いことをするような人じゃないっていうことは、3年目くらいでもう確信されていたの。それでも私は神様に「もうちょっと様子を見ます」って答えてた。あなたと会える時間が好きだったから。でも、あなたは夜な夜な現れる私のことを本当は気味悪がっていたのかもしれない。そう思ったら神様にちゃんと報告しなければいけないような気がした。あなたと会えなくなることにまだ覚悟ができなくて悩んでいたところで、あなたが初めて私に「愛してる」って言ってくれたの。初めて聞いたあなたの声で私に愛の言葉をくれたことが本当に嬉しかった。だから私はそれから直ぐに神様のもとへ行って、今までのことをすべて報告したんだ。処罰を受ける覚悟をしていたんだけど、やっぱり神様ってすごいよね、全部知ってたみたい。神様はね、私が仕事として報告を欠かさなかったことを褒めてくれた後「人間になって彼がこれからも悪いことをしないように見張っておいてあげなさい。これに期限は定めない。きちんと仕事をしてくるように」って言って私を人間の姿に変えてくれたの!これでやっとあなたとお話ができるんだよ!」
つまるところ、僕の妄想は現実で、Kは本当に天使という存在だった。そして神様に人間にしてもらって僕のところにやってきたと。いっぺんに話していてよく疲れないものだなとも思うが、その状態は昨日のKに愛の告白をした直後の僕と同じものなのかもしれない。それならば彼女、いやKには悪いが僕には言いたいことがあった。今すぐに言わなければいけないことだ。
「ああ、昨日愛してるって言ってくれたのに私、何にも言わずに…あ、あのね、私もあなたのこと…あい」
「待って。その前に僕から一言、言いたいことがあるんだ」
彼女の言葉を遮ると、彼女はきょとんとした表情で僕のことを見つめてきた。その目の奥に見えるものは、間違いなく僕の愛したKと同じだった。非常に残念でならない。僕は彼女に一言告げた。
「帰れ」
「え?」
「今入ってきたドアから出ていき、天の国に戻り、神様のもとで天使として働いてろ」
「え、え?なんで?そんな急に…」
彼女が戸惑うのも無理のないことだと思う。僕もひどいことを言っている自覚はあった。しかし僕にはどうしても許せなかったのだ。僕の大切な存在が居なくなってしまったことが。
僕は黒猫のKが好きだったんだ。話せなくたってよかった。膝の上で丸くなったり、僕に頭をすりつけてきたり、くりくりした目でじっと見てきたり、猫じゃらしにじゃれるところが愛しくて大好きだったんだ。人間の姿じゃ何もできない。確かに彼女は美人だ。あの美しかったKに違いないんだろう。でも、だめなんだ。彼女はKであってKではない。僕の愛したKはもう居なくなってしまった。
「はやく帰れ!」
一人になりたくてそう怒鳴ると、彼女は悲しそうな顔をして部屋から出て行った。ドアが閉まるのとほぼ同時に、付けっぱなしだったPCから26時を告げる時報が流れた。彼女には悪いことをしたと思っている。しかし彼女のことを気に留めていられるほど僕には余裕はなかった。僕はその夜、おんおん泣いた。あんなに泣いたのは産声以来かもしれない。初恋とは叶わないものだと誰かが言っていたが、僕もそれに当てはまったようだ。
僕の初恋は失恋に終わった。僕のKは、やはりKだったのだ。
その日から僕は寝坊を一切しなくなった。早寝早起きになったのだ。
26時前になると、存在しない黒猫のことを思い出すから。
矛盾点がありましたらごめんなさい、ご指摘いただけると嬉しいです。
書いててとても楽しかったです。読んでいただいてありがとうございました。




