父、参上
空港のロビー。
手提げ袋ひとつ抱えて、男は天を仰いだ。
懐かしき本土。そして懐かしき故郷の空だ。
空気すら、やさしく語りかけてくるような、郷愁。
あふれ出る情念を、男――萩原萩人は言葉にして吐き出した。
「友人! 心! お父さんは帰ってきたぞぉーっ!!」
周り中が彼に注目した。
あからさまに子供を隠す親さえいる。
実年齢より十は若く見られる彼だが、それでも外見上、いい年の大人である。変質者に見られても致し方なかった。
本人はといえば、周囲の目など気にならぬ様子だ。
いそいそと携帯なぞ掛けている。
「――あ? モシモシ? 心ちゃん? お父さんだよーっ」
“死ね”
一秒でガチャ切りされた。
萩人はしばし、固まる。
気を取り直し、息子の携帯電話にかけた。
繋がりもしない。着信拒否されていた。
「子供たちよ……」
萩人は涙をこぼさぬよう、天を仰ぐ。
「お父さんは悲しいぞぉーっ!!」
警備員が速攻で駆けつけてきた。
◆
「と言うわけなんだよ! ヒドイと思うだろう? 明ちゃん!」
萩人は電話越しに愚痴をこぼす。
相手は更科明。息子の幼馴染である。
「いや、まあ、どちらかと言うと、警備員のほうに理があると思いますけど……なぜ私にかけてくるんです」
「冷たいこと言わないでくれよ友達じゃないか!」
彼女に対してこんなことを言うから息子に嫌われているのだと、本人は気づいていない。
萩人の涙声に、返ってきたのは盛大なため息だった。
「友人や心の気持ちは、ものすごくよく分かりますが……でも、自分の家なんだから、連絡せずに押しかけてもよかったんじゃあ」
「それは、出来ない」
明の提案に、萩人は首を横に振った。
「なぜですか?」
「ウン、正直言うとだな」
「はい」
「金がないんだ」
「……はい?」
萩人の告白に、調子の外れた声が返ってくる。
「正直、家に帰る電車賃すらない」
しばし、沈黙。
つぎに聞こえてきた声は、平素のそれより、一段低いものだった。
「……ひょっとして、マキさんに内緒で帰ってきたんですか?」
「うん」
「いい年してカワイコぶらないでください。いくつだと思ってるんですか」
「よんじゅっさい!」
分別をわきまえた大人とは思えない返答だった。
「マキさんに内緒で、こっちに帰る金はどうしたんですか」
明が尋ねてきたのは、萩原家の財布を握っているのが彼でなく、その妻であると知っていたからだろう。
その質問に、萩人は頭をかく。
「なんかね、パチンコで大勝ちしちゃって。これだけあったら飛行機でウチに帰れるなーって考えてたら……飛行機乗っちゃってた」
「馬鹿ですか」
二十以上年下の少女に、大上段に斬って捨てられ、萩人は慌てる。
「イヤ、お金、余分にはあったんだよ? でもよく考えたら、愛しい子供たちにお土産でも買ってやらねばと、父親としての義務を思い出して……」
「無一文になったわけですか」
「うん!」
「あなたは馬鹿です」
「素で言われた!?」
萩人はショックを受けたように身を硬直させたが、至極まっとうな評価であることはあきらかだ。
さきほど萩人を連行していった警備員も、「またこいつか」と言わんばかりの苦りきった表情を見せているのだが、萩人は気づいていない。
「とにかく、すぐに行きますからそこを動かないでくださいよ」
盛大なため息とともに、釘を刺された。こども扱いである。
それがまるきり正しいことは、一連の会話で、誰もが理解するところだろう。
◆
それから小一時間。
更科明が空港にたどり着いたときには、当然のように萩人の姿はロビーになかった。
「あのひとは……」
こめかみを揉み解しながら、明は萩人の携帯に電話する。
「やあ、明ちゃん」
たっぷり5コール後。
明のいらだちを助長するような、能天気な声が返ってきた。
「やあ、じゃありません。いまどこなんですか?」
「ああ、外そと。タクシーの運ちゃんと意気投合してね、いまからちょっと呑みに行こうかって盛り上がって――」
「一分待ちます……いますぐ戻ってきなさい」
明は一切の感情を押し殺して告げた。
萩人が戻ってきたのは一分を少々過ぎてからだった。
「よっ、明ちゃん。久しぶり」
「……ほかに言うことはないんですか?」
へらへらと笑いながら、やってきた萩人に、明は半分座った目を向ける。
「キレイになったね。見違えた」
「私が聞きたいのは軽佻なお世辞ではありません!」
「でもオッパイは全然変わってないね?」
「誰が事実を言えと言ったっ!?」
あっさりと逆鱗に抱きついてきた萩人に、明は柳眉を逆立てた。
萩人はどこ吹く風である。へらへらとした笑顔が、明の神経を余計に逆なでした。
「あんまり怒ると美容によくないよ? ウチのマキちゃんも最近……」
「そのド元凶がなに言ってるんですか!」
「マアマア、それよりちょっと食事にしない? 俺腹減っちゃってさー」
腹を押さえながら勝手なことを言い出す萩人に、明は腹の底から叫んだ。
「――いい年して高校生にたかろうとしないでくださいっ!」
◆
時間が外れているせいか、それとも流行っていないのか。店内に人はまばらだ。
明は軽めに、萩人はがっつりと、食事を終えて。グラスを片手にふたりは近況を語り合った。
ちなみに明のグラスの中身はミルクである。萩人はドリンクバーで珍妙なミックスジュースを作成していた。
「そっかそっか。友人は相変わらず女難で心は相変わらずブラコンなんだ」
あっはっは、と、萩人は笑う。
対する明は半眼である。
「笑い事じゃないでしょう。とくに後者」
「イイと思うけどな、別に。俺の妹も、若いときはあんなだったし。ハシカみたいなもんだろ」
「家系ですか……」
明は絶句した。
二代にわたってブラコンが生まれるとは、因業な家系と言うほかない。
「友人にしてもな。あの年頃じゃ、普通だろ?」
「……友人の状況を普通と思えるくらいの高校生活を、あなたが送っていたことは理解できました」
ジト目でにらむ明の視線は、かろやかにかわされた。
「まったく。あなたを見ていると、友人の将来が心配になります」
深々と。
明はため息をつく。
「友人との将来が?」
「発言を勝手に改変しないでください!」
「マアマア。そんなに怒ることないじゃないか。俺も明ちゃんが来てくれるならうれしいぞ?」
「っ、友人にはいくらでもいい人が居ます! 勝手に決めないでくださいっ! そんなこと言うから心に嫌われるんですっ!」
頬を染めながら、明は言い返した。
めったに見られない光景である。たとえば妙全寺あやめあたりが見れば、黄色い声をあげながら写メを連写するだろう。
そんな明の様子に、萩人のほうは無邪気な笑顔でいる。
「イヤ、でもな。明ちゃんのポジション、俺で言ったらマキちゃんだぞ?」
「え?」
と、萩人が唐突に口にした言葉を聞いて、明は固まった。
聞き捨てならない発言だった。
「幼馴染でむかしっから気兼ねない女友達。ほら、明ちゃんだ」
明はひとしきり首をひねり。
テーブルに突っ伏した。
「うわドウシタ明ちゃん!?」
「いえ、なんでも。ちょっと軽く死にたくなるような想像をしてしまっただけです……」
青ざめた顔で明は返した。
「……わたしがマキさんなら死んでもあなたのところへは嫁ぎたくありません。ええまったく理解不能ですとも」
「ナンカさりげなく酷いこと言われてないか俺っ!?」
「四十過ぎて専業主夫やってるオッサンと、結婚したいと思うほうがおかしいですよ」
「四十過ぎチガウっ! 俺四十! ジャストナウよんじゅっさい!!」
「ああ、そうでした。この四十歳児」
「四十歳児!? ナンダそのハズカシイ響き!!」
がーん、と、萩人はショックのリアクション。
「でもイイじゃないか! 少年の心を失わない大人カッコイイっ!!」
「少年の心を失わない青年とかなら、まだ響きはいいですけど、少年の心を持った中年は存在自体が犯罪です」
明は吐き捨てるように言った。軽蔑の色を隠す様子もない。
「いや、でも、まあ……俺も最初から四十歳だったわけじゃないんですよ? 大学出たての若いころとか、あったりしたわけですよ」
さすがに。萩人も分が悪いと感じたのか、アプローチを変えてきた。
むろんどれほどアプローチを変えようとも、萩人と言う時点でOB確定である。
「無理です」
「じゃあそのころの友人なら?」
「……まあ、土下座して頼むなら、考えなくもないです」
萩人の言葉にしばし思案したのち。
あさってを向きながら、明はそう答えた。
「あ、同じだ」
「なにがですか?」
「マキちゃんと。俺、マキちゃん土下座して口説いた」
「がっ!?」
心に負ったダメージに、明は突っ伏した。
不意打ちかつクリティカルヒットだった。
「明ちゃん? 明ちゃーん!?」
萩人が声をかけてきたが、ダメージはしばらく回復しそうになかった。
◆
それから。
友人や心、その周りの諸々について、ひとしきり話して。
ファミレスを出たところで、萩人の携帯が鳴った。
「んー? 誰ちゃんかな――って、マキちゃん!?」
ディスプレイを見た萩人の顔色が変わる。
「はい。俺です。いや――だから――その――チョットくらい言い訳――いや、イイデス。ハイ。スグに帰ります」
片方の声しか聞こえなくとも、力関係がよく分かる会話だった。
「……じゃ、俺、帰るから。友人と心にヨロシク」
すっかり背を丸めて。
萩人は手にした土産物を明に寄越してきた。
「うう。せめて一目、子供たちを見たかった」
「会ったところで、返ってくるのは罵声だけな気もしますがね」
「それでも嬉しいんだよう」
なにやらもの悲しくなってくる言葉だった。
さすがに明もかわいそうになってきた。
「まあ、またマキさんが休暇取れたら、一緒に帰ってくればいいじゃないですか。マキさんも、抜け駆けしたから怒ってるんだと思いますよ?」
「ん――あ!? マキちゃんに告げ口したの、明ちゃんだろ!」
言葉の端からなにかを感じ取ったのだろう。萩人が唐突に声を上げた。
「萩人さんはただの友人ですけど、私、マキさんとは親友ですので」
しれっと言って、明は微笑んだ。
本人は気づいていないが、萩人が頭の上がらない某人物と、そっくりの表情である。
「明ちゃんの馬鹿ーっ! そういうとこホントにマキちゃんソックリだーっ!!」
叫んで、空港にむかって走ってゆく萩人をながめながら。
不吉な未来図を想像して、明は頭を抱えた。