私的な痛みが公的な娯楽へ変換されること:アラサーリリース
本作は、いわゆる「アラサーリリース」というネット俗語を題材にしつつ、恋愛そのものよりも、「保留された時間」と「私的な痛みが公的な娯楽へ変換されること」を主題に据えた純文学寄りの作品です。
誰かの別れ話は、本来かなり個人的で、かなり静かな出来事のはずです。ところが現代では、それが言葉ひとつでラベル化され、整理され、共感や批判や分析の対象として、瞬く間に外部へ流通していきます。本作で描きたかったのは、その過程で当人の痛みがどのように薄められ、逆にどのように鋭く加工されてしまうのか、という点でした。
読後感はあまりよくありません。救いも薄いです。気持ちよく傷が癒える話でもありません。ただ、そう簡単に整わない感情や、誰にもきれいに回収されない喪失を書くことには、意味があると思っています。
なお、本作は特定の個人・事例をそのまま描写したものではなく、あくまでモチーフを借りたフィクションです。楽しめる作品ではないかもしれませんが、刺さる方には深く刺さるはずです。
最終確認用のリリースノートを印刷すると、紙はいつも少しだけ温かかった。複合機の熱だと分かっているのに、澪はそこに、まだ誰の手にも渡っていない新しい言葉の体温のようなものを感じていた。画面の中で整列した文は、紙になると急に責任を帯びる。提供開始、仕様変更、動作改善、軽微な不具合を修正しました。ユーザーにはその一行しか見えない。だが、その一行の下には、誰かが深夜に潰した眠気や、別の誰かが見落としたバグや、会議室で何度も言い換えられた逃げ道のような言葉が、地層みたいに積もっている。
澪の仕事は、その最後の表面を磨くことだった。言い過ぎず、足りなさ過ぎず、誰にも怒られない温度に整える。事実だけを書くというより、事実が角を立てないように、文章にクッションを詰める作業に近かった。
「一部機能の終了に伴い」
そこまで打って、澪は一度止まった。終了、という言葉が妙に硬かった。廃止よりましで、停止よりやわらかく、しかし再開の希望もほとんど含んでいない。終了は、いったん閉じるふりをしながら、だいたい二度と戻らない。
「長らくご利用いただきありがとうございました」
その一文は、どのサービスにも使えるし、どの別れにも使える気がした。
オフィスの窓の外には、十一月の夕方がガラスの向こうに薄くへばりついていた。日が落ちるのが早くなると、退勤時刻のころには街路樹だけが妙に明るく見える。イルミネーションの準備が始まっているのか、ビルの低い階には小さな電球が点っていて、まだ本番でもないのに、先回りした祝祭の気配だけが漂っていた。
澪はマグカップの底に残った冷えたコーヒーを飲み干し、チャットに「リリースノート最終版、格納しました」と流した。すぐに既読がつき、誰かが親指を立てる絵文字を返した。親指は便利だった。承認、了解、会話終了、どれにもなる。好意に見せかけた省略だと、澪はときどき思った。
帰宅すると、玄関には見慣れたスニーカーがあった。男物の、灰色で、踵の減り方が左右で違う。彼は帰っている。そう分かっただけで、部屋の温度が一度変わる。安心でも緊張でもなく、既に決まっている場面の稽古場に入ったような、身体が台本を思い出す感じだった。
キッチンから味噌汁の匂いがした。恒一は鍋の前で背中を丸め、片手でスマートフォンを見ながら味見をしていた。付き合って八年、同棲して六年半になる男の背中は、もはや恋人のそれというより、生活の備品に近かった。ないと困る。しかし、それがあること自体を特別とは思わない。冷蔵庫や洗濯機と同じで、壊れたときだけ存在感が増す。
「おかえり」
恒一は振り向かずに言った。
「ただいま」
澪も靴を脱ぎながら答える。
「味噌汁ちょっと薄いかも」
「薄ければ足せばいいじゃん」
「まあそうなんだけど」
その程度の会話が、妙に完成されていた。喧嘩も起きないし、笑いも大きくは起きない。居心地がいい、と外から見ればたぶん言われる種類の平穏だった。
テーブルには二人分の箸が並んでいた。茶碗の柄は揃っていない。洗剤の銘柄も、トイレットペーパーの長さも、牛乳を買うタイミングも、二人の共同生活は数えきれない妥協の上で成り立っていた。そのくせ、未来に関することだけは、一度も正式に共有されたことがなかった。
結婚するのか、しないのか。子どもが欲しいのか、いらないのか。いつまでこの部屋に住むのか。どこかへ引っ越す予定はあるのか。どちらの親が先に弱るのか。誰が何を背負うのか。
そういう話題は、一度も大きな喧嘩にならないかわりに、一度もはっきりとは口にされなかった。澪はそれを、成熟だと誤解してきた。踏み込まないことは思いやりだと。答えを急がないことは、相手の自由を尊重していることだと。
味噌汁を飲みながら、恒一が会社の後輩の話をした。二十四歳の男で、結婚するらしい。授かり婚らしい。まだ早いよな、と恒一は笑った。澪はご飯を口に運ぶ手を止め、ほんの一秒遅れて笑った。何が早いのか、何に対して、誰にとって、とは訊かなかった。
食後、恒一はソファに寝転んで動画を見始めた。澪は食器を洗った。水道の音の向こうで動画の笑い声が漏れている。誰かが転んで、誰かが大げさに驚いて、編集された沈黙のあとにテロップが出る。澪はスポンジを強く握りすぎて、爪の先が白くなった。
笑いというものは、たいてい安全な場所から他人の失敗を見ることによって成立する。そういう意味で、世の中の大半の娯楽は軽い残酷さの上に立っている。澪は昔から、バラエティ番組のドッキリが苦手だった。知らない間に落とし穴が掘られていて、本人だけがそれを知らない。観客はそのことを既に知っている。知っている側の笑いに参加するかどうかで、人はたぶん、少しずつ自分の神経を削っていく。
洗い終えた皿を水切りかごに置きながら、澪はふと思った。自分の人生にも、もうかなり前から見えない落とし穴が掘られていたのではないか。しかも、掘ったのが誰なのかも分からず、自分だけが、それを床だと信じて立ち続けていたのではないか。
その夜、寝室の天井を見上げながら、澪は眠れなかった。恒一の寝息は規則正しく、隣で一つの機械が正常稼働しているみたいだった。彼の肩は暗がりの中で、冬物のコートみたいに無口だった。
澪は三日前に、大学時代の友人から届いた結婚式の招待状を思い出した。手書きのメッセージが添えられていた。「ようやくです」。ようやく。あの二文字は、祝福より先に時間を数える。続けた者にだけ与えられる褒賞みたいに見える。澪は招待状を引き出しの中にしまったまま、返事を出していない。
ようやく、と言われるほど待ったのに、それでも手に入る人と、待っているあいだに待つ資格そのものを失っていく人がいる。
澪は横を向いた。恒一の顔は見えなかった。見えないほうがよかった。見れば、まだ好きだと思ってしまうからだった。好きだという感情は、正しい判断の邪魔をするほど新鮮ではなく、しかし見切りをつけるには充分に腐っていない。その中途半端さが、いちばん厄介だった。
二
澪が二十九歳になってから、周囲の会話には目に見えない副音声がつくようになった。
会社のランチで同僚が「最近寒いですよね」と言えば、その裏に、体を冷やさないほうがいいですよ、が聞こえる気がした。美容院で担当の女が「前髪どうします?」と訊けば、若く見せたいですか、それとも落ち着いて見せたいですか、という選択肢が隠れている気がした。母親から来る「元気?」という短いメッセージには、ちゃんと先のこと考えてる? が常に同梱されていた。
もちろん、実際にはそんなことは書かれていない。副音声は澪の側で勝手に再生されているだけだった。だが、それでも人は、聞こえたものに傷つく。実際に言われたかどうかより、言われる可能性が現実の輪郭を決めてしまうときがある。
冷蔵庫の側面に貼った小さなホワイトボードには、買うもののメモが並んでいた。卵、豆腐、洗剤、トイレットペーパー、食パン。生活はきわめて具体的だ。豆腐は賞味期限があるし、トイレットペーパーは残量が見える。足りなくなれば買えばいいし、多すぎても置き場所に困るだけで、だいたいの問題には適量がある。
ところが、将来の話だけには適量がない。確認しなさ過ぎれば不安になり、確認し過ぎれば重いと思われる。待ち過ぎれば手遅れになり、急かし過ぎれば逃げられる。誰も正解を教えてくれないくせに、失敗した者だけが露骨に採点される。
休日、澪はクローゼットの整理をしていて、奥から古い旅行雑誌を見つけた。大学を卒業して間もないころ、恒一と行った箱根の特集が載っていた。ページの端に、彼の字で「ここ行きたい」と書き込みがある。あの頃の二人は、未来をまだ遠足の延長みたいに思っていた。どこかへ行って、何かを食べて、帰りの電車で眠れば、それでちゃんと進んでいる気がした。若さはしばしば、進展のない時間を進展だと見せる能力のことだ。
恒一は午後まで寝ていた。起きてきて、澪が雑誌を見ているのを見つけると、「懐かしい」と言った。それだけだった。懐かしい、という言葉は便利だ。今ここに責任を持たずに過去を肯定できる。懐かしいの中には、取り戻したいも、失って惜しいも、ほとんど含まれていない。
夕方、スーパーに行く道で、小さな公園の前を通った。砂場の脇で若い夫婦が子どもを見ていた。ベビーカーには薄い毛布が掛けられ、母親は立ったままホットコーヒーを飲んでいた。父親が子どもに向かって手を振ると、子どもは意味もなく転んだ。二人は笑った。その笑いは安全だった。転ぶことが怪我ではなく成長の一部として囲われている場所の笑いだった。
澪は視線を逸らした。自分が欲しいのが結婚なのか子どもなのか、あるいは単に「選ばれている」という確認なのか、もうよく分からなくなっていた。ただ、何も決まっていないこの状態が永遠に続くわけではないことだけは、年齢が嫌というほど知らせてくる。
レジに並んでいるとき、前の女性がスマートフォンで誰かと話していた。「いや、もう三十だしさ」という声が聞こえた。別にこちらに向けられたわけではないのに、澪の耳の奥でその数字だけが大きく反響した。三十という数は、魔法みたいだった。二十九のあいだはまだ曖昧だったものが、三十になると急に説明を要求される。どうして独身なのか。どうするつもりなのか。今まで何をしていたのか。数字そのものには意味がないのに、人は節目に物語を押し付ける。
帰宅して荷物をほどいていると、母から電話がかかってきた。珍しいことではない。珍しくないということが、却って厄介だった。切ればいいだけの電話を、娘はなぜか切りにくい。
「もしもし」
「あんた、元気?」
「元気」
「そっち寒い?」
「普通」
「そう」
母はそこで一度黙り、それから唐突に、近所の誰それの娘が結婚したという話を始めた。高校の一つ上だか二つ下だか、顔もほとんど思い出せない相手の名前が出てくるたび、澪は自分の人生が地方の狭い地図の上でまだ測られ続けているのを感じた。
「別に焦らせるつもりじゃないのよ」
焦らせるつもりがない、と前置きする人間は、だいたいもう焦らせている。
「でも、あんたもそろそろ考えないとね」
「考えてるよ」
「恒一さんとは、その、どうなの」
その質問は、いつか必ず来ると思っていた。来ないはずがなかった。澪は流しの縁を指先でなぞった。少しだけ水が残っていて、爪の間が冷たくなった。
「普通だよ」
「普通って何」
「普通は普通」
「ねえ、女の時間って男と違うんだからね」
「分かってる」
「本当に分かってるならいいけど」
分かっている、ということは、どういう状態なのだろう。自分の人生が有限だと知っていることか。相手の曖昧さを曖昧なまま受け入れることが損失だと計算できることか。あるいは、傷つく前に撤退する残酷さを身につけることか。
電話を切ったあと、澪はしばらくその場に立っていた。鍋の蓋に自分の顔がぼんやり映っている。二十九歳の女の顔は、特別に老けても若くも見えない。ただ、ちょうど今が、何かの説明責任を背負わされる年齢に入ったのだということだけが分かる顔だった。
その夜、湯船に浸かりながら、澪は初めてはっきりと思った。訊かなければいけない。私たちはどうするのか、と。何年も避けてきた問いを、こちらから差し出さなければいけない。壊れるかもしれないから訊かない、という時期はもう過ぎている。壊れるなら壊れるで、早いほうがいい。少なくとも頭ではそう分かっていた。
だが、頭で分かることと、実際に口に出せることのあいだには、海みたいな距離がある。人は、知らないままでいられるあいだは、知ることを先延ばしにする。真実は痛いからではなく、痛みの種類が確定してしまうから怖いのだ。曖昧な不安にはまだ逃げ道がある。名前のついた絶望には、避難経路が少ない。
風呂から上がると、恒一はソファで寝落ちしていた。テレビの音量は小さいまま、テーブルの上には飲みかけの缶ビールがある。澪は彼の顔をしばらく見た。眠っていると、三十三歳の男も少し幼く見える。責任を負っていない顔というものがある。何も決めていない人間の寝顔は、ときどき幸福そうだ。
三
その問いは、結局、日曜日の午後に口から出た。
朝から雨だった。洗濯物を干す意味のない湿度で、カーテンを開けても部屋の中の色が薄くなるだけだった。恒一は昼過ぎまでパジャマのまま、動画配信サービスのおすすめ欄を眺めていた。澪は冷凍うどんを茹で、二人で無言の昼食をとった。平和な午後だった。だからこそ、そこで言わなければ、もう言えないと思った。
シンクに器を下げたあと、澪は蛇口をひねらずに立っていた。恒一はリビングから「何か見る?」と訊いた。いつもなら「何でもいい」と答えるところを、澪は振り向かずに言った。
「ねえ」
「ん?」
「私たち、どうするの」
自分の声が、自分のものではないみたいに平板だった。問いは空気の中に出ると、思ったよりずっと小さかった。もっと劇的な音を立てて部屋を裂くのかと思っていたのに、ただそこに置かれただけで、あまりにも普通の日本語だった。
恒一は返事をしなかった。ソファの沈み込む音だけがあった。澪はようやく水を出した。蛇口から落ちる水が、数秒遅れて止まった。
「どうするって」
「このままなのか、違うのか」
「何が」
「分からないふりしないで」
自分でも驚くほど、怒鳴ることなく言えた。長く温め過ぎた怒りは、熱ではなく粘度になるらしかった。
恒一はしばらく黙っていた。それから、「急にどうしたの」と言った。急に。八年かけて熟成させた問いに向かって、急に。澪は笑いそうになった。笑えばたぶん終わると思ったので、笑わなかった。
「急じゃないでしょ」
「いや、まあ、そうかもしれないけど」
「結婚する気があるのかないのか、それだけ」
「そんな二択で言われても」
恒一は頭をかいた。困ったときの癖だった。髪をかき上げるでもなく、爪を立てるでもなく、ただ手のひらで頭頂部をなでる。考えているふりをするときの動作だと、澪は知っていた。
「俺、結婚に向いてないと思うんだよね」
その瞬間、澪はなぜか、会社の不具合報告フォームを思い出した。再現手順不明、原因調査中、暫定対応のみ実施。結論だけが早くて、説明の中身が空洞な文面。
「向いてないって何」
「そのまま。責任とか、家庭とか、そういうの」
「今は責任ないみたいな言い方するんだね」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味」
恒一は目を伏せた。視線が合わないのは、後ろめたさではなく、むしろ自分の中で話を終わらせたい人の態度だった。
「澪のこと嫌いになったわけじゃない」
「それ、いちばん要らない前置き」
「でも本当だし」
「本当でも、要らない」
言葉はときどき、正しいからこそ残酷だ。嫌いになったわけではない、というのは、相手に落ち度がないことの証明であるように見えて、実際には修正不能の宣告に近い。欠点があるなら直しようがある。嫌いではないのに選ばない、という判断だけが、人間を人格ごと不要品に変える。
「自由でいたいんだよ、まだ」
「三十三歳で?」
「年齢の問題じゃないだろ」
「女にはその言い方できないよ」
「またそうやって、男と女で」
「男と女で違うから言ってるんだけど」
雨音が窓に張り付いていた。外の世界が水で薄められて、部屋だけが異様にくっきり見えた。床に落ちた恒一の靴下。観葉植物の乾いた土。テーブルの上の読みかけの本。共有してきた物たちが、急に証拠品めいて見えた。
「じゃあ、もっと早く言えたよね」
澪の声はそのとき初めて少し震えた。怒りではなく、温度の低い失望が喉を狭くしていた。
「私が二十五のときでも、二十六のときでも、二十七でもよかった。何で今なの」
「今って、別に」
「今、二十九だから」
恒一はそこで初めて顔を上げた。言ってはいけないものの名前が出たときの顔だった。澪はそれを見て、自分の中で何かが決定的に冷えたのを感じた。彼は分かっていたのだ。最初からずっと分かっていた。分かったうえで、先送りにしてきた。彼女が自分から訊かないことを利用して。
「そんなふうに責められても」
「責めてるんじゃないよ。確認してるだけ」
「俺だって苦しい」
「それ言うんだ」
加害者が被害者の顔をする瞬間、部屋の重力はおかしくなる。泣きそうなのはなぜそっちなのか。失ったものをまだ数え終えていない側がこちらなのに、どうして慰める役まで回ってくるのか。
恒一はほんとうに少しだけ泣きそうな顔をしていた。澪はそのことに、最後の最後で軽蔑した。浮気や暴力のほうが、たぶんまだ分かりやすかった。悪意には形がある。だが、この男の卑怯さは、優しさに擬態していた。怒鳴らない。殴らない。生活費も出す。記念日にはケーキも買う。そういう小さな善良さの総量が、長いあいだ、判断保留という暴力を覆い隠してきた。
「出てく」
言ったのが澪のほうか、恒一のほうか、一瞬分からなかった。結局、出ていったのはその日、恒一だった。近くのビジネスホテルにでも泊まる、と言いながら、適当にバッグに着替えを詰めた。歯ブラシを持っていくか一瞬迷って、やめた。そういう小さな仕草が、もう二度と戻らない可能性より先に目についた。
玄関のドアが閉まる音は、思っていたより軽かった。もっと世界が割れるような音がするのかと思っていた。実際には、ごく普通の防火ドアの、よく調整された蝶番の音だった。
澪はしばらく玄関に立ち尽くし、それから鍵をかけた。二重ロックの上の鍵が少し固くて、二度回さなければならなかった。何かが終わるとき、人は案外、こういうどうでもいい操作のほうに集中する。
部屋に戻ると、ソファのくぼみだけがまだ彼の形を残していた。澪はそこに座らなかった。代わりにキッチンの床にしゃがみ込んだ。泣くならここがいいと思った。タイルは冷たいし、汚れても拭ける。涙を零す場所にまで実用性を求めている自分を、少しだけ滑稽だと思った。
けれど涙はすぐには出なかった。悲しみより先に来たのは、妙に事務的な思考だった。敷金はどうなるか、家具はどちらが持つか、電気代の名義変更はどうするか、会社には何と説明するか。人間の心は壊れると、まず生活のリストを作り始める。生きるために必要な処理が、感情より先に立ち上がる。
夜になっても、雨はやまなかった。澪は冷蔵庫から缶ビールを一本出し、半分だけ飲んでまずくて捨てた。テレビはつけなかった。音が欲しいのに、誰かの明るさに殴られるのが嫌だった。
日付が変わるころ、澪はスマートフォンを開いた。誰かに連絡する気にはなれなかった。慰められたくも、説明したくもない。だから、誰にも向けず、けれど誰かに届く前提で短い文章を書いた。
二十代の大半を一緒にいた人に、自由になりたいと言われた。
私の人生は、いつ正式版になる予定だったのだろう。
投稿ボタンを押したあと、澪はすぐに画面を伏せた。あんなものは独り言だった。ネットの海に落ちる小石の一つに過ぎない。そう思って眠った。
翌朝、目が覚めたとき、通知の数字は三桁になっていた。
四
最初のうちは、見知らぬ女たちからの「分かります」が並んでいた。
私も似たようなことがありました。
七年付き合って捨てられました。
ほんとうに時間返してほしいですよね。
泣きました。
許せないです。
共感は、一見やさしい。だが、同じ傷が並ぶと、痛みは個別性を失う。澪は一つ一つ読んでいるうちに、自分の出来事が自分の手を離れ、典型例に変わっていく感覚を覚えた。自分が特別に不幸だったのではなく、ありふれた不運の型にはまっただけだと知らされることは、慰めよりむしろ侮辱に近い場合がある。
昼休みにスマートフォンを開くと、知らないアカウントがその投稿を引用していた。文章の上に、大きな文字でこう書かれている。
アラサーリリースってやつ、えぐい
澪はその単語を初めて見た。アラサーリリース。二十九歳前後で長く付き合った相手から放流されること。放流、と書く人もいた。リリース、と書く人もいた。釣った魚を川に返すみたいな軽さで、人間の年月が言い換えられていた。
その語感は妙に耳に残った。アラサー。リリース。どちらも澪の生活の中に既にあった単語だった。年齢を測るざっくりしたラベルと、仕事で毎週のように使う冷たい用語。その二つが接続された瞬間、個人的な不幸は、検索しやすい現象に変わる。
午後、会議中にも通知は増え続けた。上司が何か説明している横で、澪のポケットの中のスマートフォンが小さく震え続ける。社内の誰かに見られていないだろうか、という不安より先に、見知らぬ多数が自分の心の一番柔らかい部分を手でつついてくる感覚に眩暈がした。
帰宅途中、電車の窓に映る自分の顔は、昨日までと同じはずなのに、どこか既に観察対象の顔になっていた。誰かが「あれがその人かもしれない」と言い出しそうな、輪郭の外側だけが硬くなった感じ。
家には恒一がいた。出ていったきりではなかった。荷物をまとめに来たのだと言った。スーツケースが一つ、玄関の脇に立っている。
澪は何も言わなかった。何を言っても安くなる気がした。彼の前で取り乱したくないという気持ちだけが、最後の見栄として残っていた。
「しばらく友達のとこ行く」
「そう」
「必要なものはまた取りに来るかも」
「そう」
恒一は澪の目を見なかった。目を見ないのは誠実さではなく、相手の反応を引き受けないための技術だと、澪はもう知っていた。彼はコップや充電器や仕事着を手際よく袋に詰めた。長く一緒に暮らした男が、自分の生活だけをきれいに切り分けて持ち去っていく様子は、引っ越しというよりデータ移行に近かった。必要なファイルだけ抜き出して、古い端末は置いていく。
「ごめん」
最後に恒一がそう言ったとき、澪は初めて顔を上げた。謝罪は、何に対して使われるのだろう。悪かったと思っていることへの免罪符か。これ以上の説明はしません、という会話終了ボタンか。
「何に対して」
「全部」
「全部って言うなら、何も分かってないのと同じ」
恒一は少しだけ口を開き、それから閉じた。言葉の不足ではなく、言葉を尽くす意思の不足だった。彼はスーツケースの持ち手を上げ、玄関のドアを開けた。雨はやんでいた。
出ていく背中を見ながら、澪はふと思った。あの男はこの先、自分のことを、ひどい別れ方をしてしまったと記憶するだろう。だが、自分が奪ったのが澪の時間だったとは、最後まで実感しないだろう。男にとって年月は、失ったときにだけ惜しいものだ。女にとっては、失う前から減っていくものとして意識される。
玄関が閉まってから、澪はスマートフォンを開いた。通知はさらに増えていた。誰かがまとめサイトに転載したらしかった。見出しは露悪的だった。九年交際、二十九歳、自由になりたい。単語だけ抜き出されると、人の人生はインスタント食品みたいに簡単に消費できる。
コメント欄には、多様な正しさが並んでいた。
見極め遅すぎ。
男も悪いけど女もアホ。
結婚の話しない時点で察しろ。
二十九ならまだ余裕。
男に責任押し付けるな。
時間返せは草。
これだから恋愛はコスパ悪い。
コスパ。澪は声もなく笑った。費用対効果。そうだ、人の二十代は、たぶん今やそういう単語で査定される。何年投資して何が回収できたか。損切りは早いほうがいい。感情の世界に企業会計の比喩を持ち込むことが、賢さの証拠みたいに扱われる時代だ。
その夜、澪はアカウントを非公開にした。だが、もう遅かった。一度貼られたラベルは、持ち主の許可なく流通する。名前のついた現象は、本人の手元に戻らない。
五
会社ではまだ、誰も何も言わなかった。あるいは、言わないふりをしていた。
朝礼で向かいの席の由梨が「顔色悪いよ」と小声で言ったとき、澪は「寝不足」とだけ答えた。由梨は三十一歳で、一歳の子どもがいる。結婚も出産も、澪から見ると遠い丘の向こうで行われた祭りみたいだった。存在は知っているが、自分の足でそこへ行ける感じがしない。
「ちゃんと食べてる?」
「まあ」
「何かあった?」
何かあった。便利な問いだ。何か、で括れるほど世の中の崩壊は雑ではない。
「別れた」
「え」
「終わった」
由梨は目を丸くし、それからすぐに眉を寄せた。善意の顔になった。人が他人を傷つけるのは、たいてい悪意より善意のときだ。悪意には警戒できる。善意は、こちらが受け取る義務まで含めて押しつけてくる。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど」
「でも、まだ二十九でしょ」
由梨は慰めのつもりで言ったのだろう。澪は笑った。「まだ」という副詞は、ときどき人を殺す。まだ大丈夫。まだ間に合う。まだ若い。それらは全部、いつかは駄目になるという前提の上にしか成り立たない。
「うん、まあ」
「むしろ今でよかったよ」
「そうかもね」
「三十五とかで同じことされたらもっときついし」
その瞬間、澪はほんの少しだけ由梨を嫌いになった。もちろん、由梨は正しい。正しさはいつだって他人の傷に対して強すぎる。今でよかった、という評価は、未来のより大きな不幸を仮定して現在を小さく見せる技術だ。だが、比較の上で軽くなる痛みなどない。
昼休みにコンビニへ行く途中、エレベーターの中で若い営業の男たちが話していた。「アラサーリリースって知ってます?」と一人が言い、もう一人が笑った。澪の心臓が一拍遅れた。まさか、とも思ったが、まさに、だった。言葉はもう外に出ている。発生源が誰かを知る必要もなく、面白い単語として独り歩きしている。
「やっぱさ、見極め力よな」
「いや男もエグいって」
「でも結婚したいなら最初に確認しろよ」
「それな。長期保有のリスク管理」
長期保有。株式の話みたいに言う。澪はエレベーターを一階で降りたあと、少し歩いてからトイレに駆け込んだ。吐き気はなかったのに、胃だけが硬くなっていた。個人の悲劇が公共の雑談へ変換される速度は、思っていたよりずっと速い。誰かの言葉になる前に、もう誰かのネタになっている。
その夜、母から再び電話が来た。どこから聞いたのか、ではなかった。母は知らない。ただ勘のいい生き物のように、娘の声色の変化だけを拾う。
「何かあった?」
「別れた」
「あら」
母はそこで黙った。「あら」の中に、驚き、残念、やっぱり、いろいろ入っていた。親の相槌は、短いくせに重い。
「いつ」
「数日前」
「そう」
また黙る。沈黙の向こうで、実家の時計の秒針が聞こえる気がした。
「……早めに分かってよかったと思いなさい」
由梨と同じことを、母も言った。人は正しい言葉しか持たないとき、同じ形の慰めしか差し出せないのだろう。澪はそれを責める気力もなかった。
「ねえ、今はそういうの無理」
「分かってるわよ」
「分かってない」
「じゃあ何て言えばいいの」
「別に何も言わなくていい」
電話を切ったあと、澪はソファに座った。恒一のくぼみはもう戻っていた。人がいなくなった場所は、驚くほど早く平らになる。痛みだけが、形を失わずに残る。
寝る前、何の気なしに検索窓にその言葉を入れてしまった。アラサーリリース。画面には大量の投稿や記事が並んだ。面白画像、短い解説、体験談の募集、恋愛アドバイス、婚活アカウントの営業。人の不幸は、誰かの流入経路になる。
その中に、まとめサイトのスレッドがあった。澪は開いてしまった。匿名の声が高速で積み重なっていた。
女の二十代なんて商品価値なんだから管理しろ。
男は結婚したくなったら若い子いけるし。
これで泣くくらいなら最初に確認しとけ。
女の自己責任。
いや普通に男がクズだろ。
でもそんな男を選んだのも女。
結局どっちも馬鹿。
議論というものは、だいたい誰かを助けない。だが、参加者たちは助けているつもりでいる。正論を投げつけると、自分だけが清潔でいられるからだ。澪はスクロールを止められなかった。自分を切っているのが分かっているのに、傷口の深さを確かめるために刃を押し込んでしまう感じに似ていた。
スマートフォンの画面に映る自分の顔は、青白くて平坦だった。泣いていないのに、既に泣き終わった人の顔をしていた。
六
十二月に入ると、街は勝手に明るくなった。人の事情とは無関係に、ビルのエントランスにはツリーが立ち、コンビニにはケーキの予約札が並び、街頭では恋人向けのジュエリー広告が風に揺れていた。祝祭というものは、参加していない者にだけ過剰に見える。
澪は仕事の帰り道、ドラッグストアで無印の歯ブラシを一本だけ買った。これまでは二本入りを買っていた。色違いで、どちらがどちらでもよかった。そのどうでもよさが、もう失われた。選ぶ自由があるということは、ときどき寂しい。
由梨に誘われて行った女子会めいた飲み会では、同世代の女たちがそれぞれの正しさを持ち寄っていた。早く結婚した者、離婚した者、婚活中の者、子どもが欲しい者、欲しくない者。多様であることが免罪符になる場では、誰もが自分の選択を一般論に偽装する。
「九年は長いね」
「でも逆に、それだけ一緒にいて無理なら無理だったんじゃない」
「時間返せは分かる」
「でも男ってそういうとこあるよね」
「最近は凍結卵子とかもあるし」
「アプリやればすぐだよ」
「三十前後の市場、まだ全然いけるって」
市場。いける。澪はハイボールの氷をストローでつついた。女たちは傷を慰めながら同時に相場表を読み上げていた。善意と査定が同席している。現代の励ましはたいていそうだ。落ち込んでいいよ、と言いながら、次のレースにまだ出られるかを確認してくる。
帰り道、駅前で配っていた美容クリニックのチラシを受け取ってしまった。くま取り、糸リフト、凍結卵子相談会。紙の上では、老化も不安も選択肢の一つとして整然と並んでいる。すべては対策可能、という顔をしている。その明るさが、澪にはほとんど脅迫に見えた。
家に帰ると、ポストに大家から更新書類が入っていた。二年契約の更新。今の部屋に住み続けるのか。引っ越すのか。恒一の名前がまだ契約書に残っている。澪は封筒を開けずにテーブルに置いた。紙の上の共同名義は、別れ話よりずっとしつこい。
ある晩、恒一から短いメッセージが来た。冬物のコートを忘れていたので取りに行きたい、と。澪はしばらく画面を見つめたあと、「土曜の午後なら」と返した。事務連絡の文体は、感情を圧縮するのに向いている。
土曜日、恒一は前より少し痩せて見えた。あるいはそう見せたいのかもしれない。人は罪悪感があるとき、自分も消耗していますという顔をしたがる。
「元気?」
「見ての通り」
「ごめん」
「その語彙しかないの」
恒一は苦笑した。苦笑。相手が傷ついているときに出すには、あまりにも自分に甘い表情だった。
コートを取りに来ただけのはずが、彼は少し部屋を見回した。観葉植物が枯れかけているのを見て、「水あげてないの」と言った。澪は思わず笑った。笑いというより、喉の奥で何かが割れた。
「今それ言う?」
「いや、なんとなく」
「なんとなくで言えるよね、そういうこと」
「澪、そんなに刺々しくしなくても」
「刺々しいのは、今さら部屋の草の心配してるほうだよ」
恒一は黙った。その沈黙の質が昔と同じで、澪は余計に嫌になった。彼はいつも、相手が正しいときほど静かになる。反論できないからではない。話し合いのテーブルに最後まで残る気がないからだ。
帰り際、彼は玄関で靴を履きながら、ふいに言った。
「俺さ、誰とも結婚しないと思う」
澪はドアノブに手をかけたまま固まった。なぜそんなことを言うのか。安心させたいのか。自分だけが選ばれなかったわけではないと伝えたいのか。だとしたらそれは、慰めではなく保身だ。
「そうなんだ」
「うん。だから、澪が悪いわけじゃない」
「そういう問題じゃない」
「分かってるけど」
「分かってないよ」
ドアを閉めたあと、澪はその場に立ち尽くした。誰とも結婚しない。もしそれが本当だとしても、何も救われない。だが数週間後、その言葉が嘘だったと知ることになる。
SNSのタイムラインで、知り合いでもない若い女のアカウントが流れてきた。誰かの引用から辿ったのだった。自撮りの多い、よく笑う二十四歳の女。写真の端に、見覚えのある灰色のスウェットが映っていた。さらに遡ると、食卓の向こうに見覚えのあるマグカップがあった。澪は血の気が引くのを感じた。
確証はない。だが、確証がなくても分かるときがある。生活は、どんなに隠しても細部に染みる。長く共有した物の形は、他人の写真の隅でこそはっきり見える。
女のプロフィール欄には、「毎日たのしく」とだけ書いてあった。楽しい、は若さの免許証みたいな言葉だ。そこに責任はない。だから強い。
澪はスマートフォンを置き、しばらく呼吸を整えた。誰とも結婚しないと言った男は、結婚しないのではなく、特定の誰かとの結婚を先送りにしていただけだった。いつか結婚したい相手が現れたとき、自分はその選択肢から初めから外れていたのだ。その事実は、失恋よりも格下げの感覚に近かった。
七
年明けの大型アップデートは、会社にとってここ数年でいちばん大きな案件だった。澪の所属するチームでは、年内からずっと準備が進んでいた。資料、確認、レビュー、差し戻し、再確認。人は大きな変化を起こす前に、必ずその変化を無害な書式に押し込めようとする。表計算ソフトのマス目が整っているだけで、不安は少し管理できるように見える。
澪は救われるような気持ちで仕事をしていた。確認項目の多さは、感情の逃げ道になる。期限が迫ると、私生活の破綻もただの背景ノイズになる。会社はしばしば人間を搾取するが、ときどき人間を延命もする。
ただ、言葉だけが次第におかしくなっていった。
「段階的に移行いたします」
「一部のお客様にはご不便をおかけする可能性がございます」
「今後ともより良い体験を提供してまいります」
「長らくご利用いただきありがとうございました」
テンプレートとして見ていた文が、ひとつずつ自分の生活に侵食してくる。段階的な移行。ご不便。より良い体験。ありがとうございました。どれも恋人に向けて使えそうで、しかもそのまま使えば最低の文面になる。企業の文法は、人を傷つけるときにこそ完成度が高い。
昼休み、会議室で一人で弁当を食べながら、澪は自分の手帳の余白に無意味な文を書いた。
私の二十代はサポート終了です。
代替機能はありません。
不具合ではなく仕様です。
書いたあとで、すぐに線で消した。冗談にすると、少しだけ楽になる。だが、冗談は人前に出た瞬間、本人の支えではなく観客の餌になる。その違いを澪は痛いほど知っていた。
一月の終わり、由梨に連れられて婚活アプリに登録した。顔写真を載せるか迷い、結局横顔だけのものにした。年齢、居住地、職業、年収、結婚希望時期、子ども希望の有無。項目を埋めるたび、自分が履歴書と中古品のあいだの何かになっていく気がした。スペックとして整理されると、人格は驚くほど薄く見える。
マッチングした男たちとの会話は、どれも最初から結果だけを急いでいた。休日は何をしていますか。結婚願望はありますか。何年以内に子どもが欲しいですか。実家との距離感は。転勤は。家事分担は。誠実と言えば誠実だ。遠回りをしないという点では、恒一よりよほど親切なのかもしれない。だが、効率的に確認されればされるほど、自分が一度失敗した案件として再審査にかけられている気がした。
一人の男と実際に会った。三十四歳、公務員。カフェで向かい合った彼は、にこやかで、言葉遣いも丁寧だった。だが、別れ際に言われた「澪さん、ちゃんとしてるから大丈夫ですよ」という一言が、何より堪えた。ちゃんとしてる。大丈夫。その二語には、彼が澪を安心させようとする上からの配慮と、まだ市場に出せる商品ですという査定が同居していた。
帰り道、澪は駅のホームで、涙が出る寸前の顔をして立っていた。泣くほどのことではない、と頭は言う。だが、泣くほどではない細かな屈辱の積み重ねこそ、人を最も静かに摩耗させる。
その頃には、まとめサイトの閲覧は習慣になっていた。自分でもやめたほうがいいと分かっていた。だが、やめられなかった。痛みがまだ流通しているかを確認しないと、自分の存在ごと消える気がした。
ある夜、新しいスレッドが立っていた。
アラサーリリース女、会社の文章みたいで草
どうやら、澪の元の投稿文の「正式版」という言い回しが、IT系の仕事をしている女っぽい、と誰かが推測したらしかった。そこから勝手な人物像が組み上げられていく。大手企業勤務、仕事できる系、プライド高そう、察してちゃん、地雷。匿名の他人が澪の人生を占う。本人より本人らしい口調で断定する。
公的な娯楽とは、たぶんこういうものだ。誰かの人生の曖昧な輪郭に、観客がそれぞれ勝手な線を引く。線を引く側は創作のつもりで楽しみ、引かれた側だけが、それが現実の皮膚を切っていると知っている。
八
リリース前日の夜、オフィスには紙コップのコーヒーとエナジードリンクの匂いが混じっていた。終電を逃した社員のために、総務がカップ麺を積んでいった。誰かが「文化祭みたいですね」と笑い、誰かが「文化祭はもっと楽しい」と返した。
澪は自席で最終版の告知文を開いていた。文言の一字一句を確認する。誤字、リンク切れ、表記ゆれ、改行位置。極限まで疲れてくると、人は大きな意味より句読点の位置にこだわり始める。それは逃避ではなく、世界がまだ制御可能だと信じるための儀式だ。
チャットには他部署からの連絡が流れてくる。
API側反映済みです。
ストア申請通りました。
FAQ更新しました。
もしものときの差し戻し手順共有します。
もしも。もしも。もしも。現代の仕事は、想定外に備える想定の積み重ねだ。だが、私生活の崩壊にロールバック手順はない。
深夜二時を回ったころ、由梨が差し入れのチョコを持ってきた。「食べな」と言う。澪は受け取ったが、開かなかった。甘いものは善意の形をしている。受け取ると、こちらにも回復する義務が生まれる気がした。
「澪、最近ほんと大丈夫?」
「今は仕事してるほうが楽」
「それは分かるけど」
「仕事は仕様が決まってるから」
由梨は少し困った顔をした。言葉が見つからないとき、人は顔で会話しようとする。だが、顔は文章ほど丁寧ではない。曖昧なまま刺さる。
「まあ、終わったら美味しいもの食べよう」
「うん」
終わったら。何が終われば、人は次へ行けるのだろう。仕事のリリースか。恋愛の後処理か。二十代そのものか。
四時前、澪は告知文の最終修正版をCMSに流し込んだ。何度も触ってきた管理画面で、手が勝手に動く。タイトル、本文、反映時刻、承認者。いつも通りだ。いつも通りのはずだった。
画面の白さがそのとき急に暴力的に見えた。余白が大きすぎた。そこに何かを書き足したくなった。埋めなければ落ち着かない広さがあった。眠気と疲労とカフェインで、脳の中の安全装置が薄くなっていた。
長らくご利用いただきありがとうございました。
その定型文の下に、澪はカーソルを置いた。指が勝手に動いた。ほんの数行だった。
私の二十代は本日をもって終了します。
なお、未回収の時間につきましては補償いたしかねます。
不具合ではなく仕様です。
ご理解のほどお願い申し上げます。
打ち終わったあと、一瞬だけ、澪は笑った。ひどく静かな笑いだった。あまりに整い過ぎた日本語が、自分の人生にだけは救済をもたらさない、そのことが可笑しかった。
もちろん、すぐに消すつもりだった。誰にも見せるつもりはなかった。自分の内部に溜まりきった言葉を、テンプレートに沿って一度だけ外へ出し、すぐ削除して元に戻す。そういう小さな私刑のようなつもりだった。
だが、そこで別の担当者からチャットが飛んだ。反映時刻、前倒しできますか。先方確認OKです。澪は反射的に了承し、承認フローを進めた。数十秒後、CMS上のステータスが「公開中」に変わった。
変わってから、気づいた。
指先が冷えた。喉の奥が一気に乾いた。澪は画面を見た。そこに、先ほどの四行が、サービスのお知らせとしてきちんと表示されていた。整ったフォントで、充分な余白を伴って、世界に向けて公開されていた。
「……あ」
声にならない音が漏れた。すぐに下書きへ戻そうとしたが、公開後の差し戻しには別権限が必要だった。手順は知っている。知っているのに、手が震えてクリックできない。誰かが澪の後ろを通り過ぎた。明るすぎる蛍光灯の下で、画面だけがやけに鮮明だった。
数分後、チャットが騒ぎ始めた。
これ何ですか?
誤掲載?
至急下げてください
見えてます
スクショ回ってます
スクショ。回ってます。世界は早い。誤りが誤りとして訂正される前に、誤りは証拠として保存され、娯楽として複製される。
上司が血相を変えて席まで来た。「澪さん、これ、何」と訊いた。澪は何も答えられなかった。答えの形式が分からなかった。ミスです、と言えば済む範囲をとうに越えていた。精神的に不安定で、という説明はあまりに貧しい。衝動でした、と言えば、それは言葉に責任を持つ仕事をしてきた自分自身の否定になる。
結局、何も言えないまま、澪は会議室へ連れていかれた。扉が閉まる。外のチャット音だけが遠くで鳴っている。
「故意ですか」
「……分かりません」
「分からないって」
「消すつもりでした」
「入れたのは事実ですよね」
「はい」
「個人的な内容ですよね」
「はい」
問いと答えが、警察の取調べみたいに乾いていく。澪は自分のやったことの重大さを理解していた。理解しているからこそ、泣けなかった。泣けば少しは人間的に見えるのかもしれない。だが、本当に壊れているとき、人は案外泣けない。
数十分後、サービスのお知らせは訂正された。だが、もう意味はなかった。スクリーンショットは既に外部に流れ、引用され、解説され、「令和の怪文書」と名付ける者まで出ていた。アラサーリリース女、会社まで壊す。そういう見出しが次々についた。
私的な痛みが公的な娯楽へ変換されること。澪はその機構を、初めて、骨の髄まで理解した気がした。誰かの失敗が公になるとき、観客が求めているのは真相ではない。上手いタイトルと、感情を置くための分かりやすい棚だ。悲劇は分類され、タグ付けされ、回遊性を持たされる。その時点でもう本人のものではない。
九
事情聴取は朝まで続いた。社内規程、情報管理、再発防止、意図、体調、勤務状況。澪は質問に答えたが、答えながら、どれも核心には触れていないと思った。会社が知りたいのは「なぜ人が壊れたか」ではなく、「次に同じことが起きないよう、どこに柵を立てればいいか」だけだ。それは組織として正しい。正しいから、ますますやるせなかった。
朝の七時、ビルの外に出ると、空が妙に白かった。徹夜明けの光は、ものを救わない。明るいだけだ。スマートフォンには、知らない番号からの着信とメッセージが大量に入っていた。まとめサイト、ニュースアカウント、フォロワー外、大学時代の友人、母、恒一。
母のメッセージは短かった。
何があったの
それだけで、澪は初めて吐き気を覚えた。何があったの。そう説明できる単位に、すべてをまとめることがもう不可能だった。
恒一からは電話が来ていた。着信履歴が三件。かけ直さなかった。こんなときだけ関わるな、と思った。だが同時に、こんなときにしか現れないのも彼らしいと思った。彼はいつも、火が家全体に回ってから、消火器を持って戸口に立つ男だった。
会社からは自宅待機を命じられ、その一週間後には正式に退職勧奨が出た。懲戒という形にするか、自己都合にするか、そういう書類上の相談があった。言葉はいくらでも整えられる。終了の形式だけが問題になる。中身がどう死んだかは、あまり重要ではない。
由梨だけが、一度家まで来た。コンビニのプリンと、紙袋に入った生活用品を持って。澪は部屋に上げたが、まともに話せなかった。由梨は部屋の散らかりを見て、何も言わずにシンクの食器を洗った。ああいう沈黙だけは、少しありがたかった。
「ごめんね」と由梨が言った。
「何に対して」
「いろいろ。ちゃんと分かってなかった」
「私も分かってなかったから」
由梨はしばらく手を止め、それからぽつりと言った。
「でも、あれ、みんな面白がり過ぎだよ」
「面白いんだと思う」
「面白くないよ」
「当人じゃないからだよ」
澪の声は不思議なくらい落ち着いていた。怒りが行き過ぎると、かえって冷える。インターネットの向こうの群衆を憎む気力ももうなかった。彼らはいつもそういうものだ。爆発を見れば集まるし、血が出れば覗く。悪いのは観客というより、観客でいることを簡単にしてしまった構造のほうかもしれない。
数日後、母が上京してきた。部屋に入るなりカーテンを開け、冷蔵庫の中身を確認し、米を炊き始めた。親の愛情はしばしば家事の顔をしている。だが、家事には命令が混ざる。
「とにかく一回帰ってきなさい」
「帰らない」
「こんな部屋に一人でいたら余計おかしくなる」
「もう充分おかしいから大丈夫」
「そういう言い方しないの」
「どういう言い方ならいいの」
母は黙った。やがて、味噌汁の鍋をかき回しながら、小さな声で言った。
「あの人と別れたことより、仕事までなくしたことが心配なのよ」
澪はその言い方に少し救われ、少し傷ついた。母はたぶん、順序としてそう言っただけだ。だが、仕事までなくした、という「まで」の中に、恋愛の失敗はまだ許容範囲だが、社会的な失敗は痛い、という価値観が透けて見えた。
「私さ」
と澪は言った。
「別れたことが一番つらいんじゃないんだよ」
母は振り向いた。エプロンの紐が少しねじれている。
「じゃあ何が」
「私の中で起きたことより、外で起きたことのほうが大きくなったこと」
自分でも、うまく説明できているか分からなかった。だが、それが最も近かった。別れは私的だった。痛みも、本来は私的なもののはずだった。なのに、いつのまにか、それは外部に取り上げられ、ラベルを貼られ、商品棚に並べられた。誰かの正義や娯楽や商売の材料になった。そうしているうちに、澪自身だけが、その中心から取り残された。
母は長いこと何も言わなかった。それから、「ご飯、食べなさい」とだけ言った。それが母にできる限界だったのだろう。澪は黙って味噌汁を飲んだ。温かかった。味はよく分からなかった。
十
二月の終わり、澪は部屋を出ることにした。更新書類の期限が迫っていたし、何よりこの部屋には、生活の形見が多すぎた。ソファ、食器棚、カーテン、玄関マット、風呂場のラック。共同で使っていたものは、別れたあとも共同の気配だけを残す。
引っ越し業者が見積もりに来た日、担当の若い男はやたら明るかった。「お一人暮らしですね」「荷物少なめで助かります」と笑う。その無邪気さに悪意はない。悪意がないから、こちらだけが過剰に反応する自分を恥じる羽目になる。
新しい部屋は、同じ沿線の少し西にあった。駅から十分、築浅、一階、南向き。特に気に入ったわけではない。ただ、知らない匂いがすることだけが重要だった。思い出のない壁紙、思い出のない床の軋み、思い出のないコンセントの位置。記憶は家具より部屋に染みる。
荷造りをしていると、クローゼットの奥から箱根の旅行雑誌がまた出てきた。澪は捨てようとして、一度だけページをめくった。あの頃の二人は、世界が自分たちに対して未だ善意でできていると信じていた。若い恋人たちはしばしば、人生の残酷さを自分たちだけは少し免除されると思っている。そうでなければ、誰がそんなに無防備に時間を差し出せるだろう。
雑誌をゴミ袋に入れたあと、澪はスマートフォンを開いた。久しぶりに例の女のアカウントを見てしまった。雪を背景にした写真の端に、見覚えのある男物の腕が映っていた。キャプションには「たのしい休日」とある。たのしい。たった五文字で、人は過去の誰かを簡単に殺せる。
引っ越し当日、空っぽになった部屋は思ったより広かった。家具がなくなると、生活は事件の現場みたいに見える。壁の色むら、冷蔵庫の跡、ベッドの脚の圧痕。人がいた証拠は、いなくなってからのほうがよく見える。
鍵を返し、管理会社の人間が「お世話になりました」と言った。世話になったのは、どちらなのだろう。こちらが金を払い、向こうは部屋を貸した。それだけの関係に、なぜ人は礼儀の糖衣をかけるのか。社会は終了を穏便に見せる技術に長けている。
新しい部屋に入ると、窓の外では向かいの空き地でマンション工事が始まっていた。クレーンの先端が灰色の空を切っている。建設と解体はよく似た音を立てる。遠くから聞くと区別がつかない。
荷物を入れ終え、業者が帰ったあと、澪は床に座った。段ボールの山、まだカーテンのない窓、冷蔵庫の中のミネラルウォーター。何も整っていない。整っていないから、少しだけ公平だった。この部屋はまだ澪を知らない。期待も失望もしない。
その夜は、三十歳の誕生日だった。日付が変わる少し前、由梨から短いメッセージが来た。おめでとう、無理しないでね。母からも来た。生きてればいい。どちらも余計なことは書いていなかった。それがありがたかった。
零時を回る直前、スマートフォンの通知がまた少し増えた。誕生日をSNSに紐づけているため、自動的にメッセージが届く。知らない人からの祝福。知らない人からの未読の親切。画面の中では、人生はイベントとして均等に並ぶ。誕生日も炎上も、通知という形式の上では大差ない。
澪はそれらを開かなかった。代わりに、電気もつけないまま窓辺に立った。向かいの工事現場は止まっている。夜のクレーンは巨大な骨のように見えた。
三十歳になったからといって、何かが劇的に変わるわけではない。子宮がその瞬間に縮むわけでも、肌の水分量が一気に抜けるわけでもない。ただ、社会がこちらを見る目のピントが少し変わる。まだ、ではなく、もう、の領域に足を踏み入れる。それだけだ。それだけのことが、人には重い。
澪は考えた。自分は何を失ったのだろう。恋人か。仕事か。信用か。二十代か。たぶん全部だ。だが、もっと厄介なのは、痛みを私物として持ち続ける権利を失ったことだった。自分の悲しみが、自分だけの言葉で管理できなくなった。誰かが先回りして名前をつけ、意味を配り、笑いどころや怒りどころを指定してしまう。
私的な痛みが公的な娯楽へ変換されること。それはたぶん、現代の最も静かな暴力の一つだ。殴られない。血も出ない。けれど、本人より先に本人の物語が編集され、配信され、消費される。人間は、傷ついたあとにさらに、自分の傷の見え方まで他人に支配される。
窓の外で、始発にはまだ早い線路の方角から、金属が軋むような音がした。遠くで何かが準備されている。動き出す前の都市は、息を潜めた巨大な機械みたいだった。
澪は床に置いたスマートフォンを手に取った。画面の上には、未読の通知がいくつも重なっている。祝福、同情、野次馬、営業、取材依頼。全部同じ四角い箱に入っている。彼女は一つも開かず、そのまま電源を切った。
部屋はすぐに静かになった。静けさは救いではない。ただ、やっと他人の反応から切り離された空気だった。
明日から何をするのか、まだ決まっていない。仕事を探すのか、少し休むのか、実家に帰るのか、誰かと新しく会うのか。何一つ決まっていなかった。三十歳の女としては、不安要素しかない状態だ。履歴書に書ける成果も、胸を張れる私生活もない。計画表は白いままだ。
それでも、白紙であることだけは、たしかに自分のものだった。まだ誰にも編集されていない余白。そこに何が書かれるかは分からない。分からないまま生きるのは、安心ではなく、むしろ不快に近い。だが少なくとも、その不快さは今、誰の娯楽にもなっていない。
三十歳になった午前零時を少し過ぎて、隣の線路を通った始発電車が白い息を吐いた。澪はそれを、祝福ではなく、ただの排気だと思った。けれど排気であっても、機械は前へ進むためにそれを吐くのだ、と次の瞬間に思い直した。救いではない。意味づけですらない。ただ、動くものには音と熱が出る。それだけのことだ。
澪はカーテンのない窓を閉め、冷たいフローリングの上に横になった。天井は新しく、何の記憶も染みていなかった。目を閉じると、世界はやっと、誰にも見られていない暗さに戻った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この作品では、明確な悪人を一人だけ立てることを避けました。もちろん、主人公に対して行われたことは残酷です。ただ、現実の破綻は、悪意だけで起きるとは限りません。先送り、曖昧さ、善意の顔をした無責任、そして観客として他人の痛みを消費してしまう私たち自身の鈍さ。そういうものが少しずつ積み重なって、人を壊すのだと思います。
タイトルにも置いた「私的な痛みが公的な娯楽へ変換されること」は、今のネット社会におけるかなり普遍的な現象です。誰かの失敗や破綻は、本人が整理するより先に、外側で命名され、解説され、笑いどころまで付与されて拡散される。本作は、そこに対する違和感から書きました。
また、「リリース」「終了」「仕様変更」といった仕事の文法が、そのまま人生の破綻に接続してしまう気味の悪さも、意識して織り込んでいます。便利な言葉ほど、人間を丁寧に傷つけることがある。そこも含めて読んでいただけていたら嬉しいです。
刺さったなら成功です。気分が悪かったなら、たぶんそれも正しい読後感です。




