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第9話

 ココアの甘い香りというだけで、社長室だとすぐにわかった。秘書はベッドからむくっと起き上がり、なぜか添い寝していた変態、イチをドサッと突き落とした。


「アイタッ」

「アイタッ、じゃないわヨ。この変態野郎」


 反対側に落としてやれば、床に敷いてあった布団の上に着地できていたのだが。痛そうながらも少しだけ嬉しそうにケツをさする彼には、テレビに出演していた名プログラマーの面影の欠片もない。


「お。起きたか秘書」


 デスクで本を読んでいた社長は顔を上げると、久しぶりに目覚めた秘書は、床にうずくまるイチを少しだけ心配そうに見つめていた。視線をイチに向けて言う。


「イチ。少し2人きりにしてくれないか」

「えへぇ…僕、社長と2人きりですかぁ…ついに念願の———」

「お前とじゃない。秘書とだ」


 がっくりとうなだれるイチ。今日も立派に、変態を遂行している。

 ここで引いておけばいいものを。


「でも僕ぅ、社長にプレゼントがあるんですよぉ…もしよければなんですがぁ」


 秘書はベッドの上からうんと手を伸ばし、ゴミットのスイッチを押して、マニュアルモードに切り替えた。申し合わせたかのように、社長はデスクからコントローラを取り出す。


 何をするかと思えば、ゴミットからニョキっと生えたアームでイチの足を掴み、部屋の外へ引きずりだしたのである。社長のゴミット操縦技術は国家レベル。それでもしゃべり続けるイチは、おそらく部屋から追い出されていることにすら、気付いていないのだろう。

 何はともあれ、2人だけの空間が完成したわけだ。


 お互いに目を合わせることなく、その会話は始まった。


「秘書。あの件だが———」

「秘密にしててごめんなさい。でも会社のお金には手を触れてないの。上がったお給料分まで全部使って、それでも足りない分は余裕のある人からもらって———」

「お金の話じゃない。まず秘書は働き過ぎだ。目を覚ますまでどれくらいの時間が経ったか知ってるか」


 秘書はあの時を思い出す。

 急に意識が遠くなる感じがして、視界が暗くなり始めて。

 脳内の誰かが「24時間の修復作業に入ります! ご安全に!」ときびきびした声を出して。


「え…予定だと24時間だったはずだけど…」

「予定ってなんだ予定って…まぁよいのだ、それは。秘書よ、君は丸々4日間寝ていた」

「96時間⁉」


 思わず秘書は社長に目を向けた。

 そこで初めて、両者の目が合った。


「あ、いや…厳密には100時間12分6秒だが…つまり君は過労で倒れたのだ、立派に。僕が言いたいのは、働き過ぎだということだ」


 そう言いながら社長は椅子から立ち上がり、コーヒーメーカーの隣で湯を沸かし始めた。法外な電力のおかげで、すぐに電気ケトルが騒ぎ出す。


「働き過ぎって…まぁそうかもしれないけど」


 続いてノドまで出てきた言葉は、発せられるまでに時間がかかった。真意に近づく一言。社長の秘密に近づく一言。そして「その時」が近づいていることを実感してしまう言葉。


「だって今が頑張り時だし」




「…なぜそう思うのだ」


 長い沈黙の後。

 秘書のお気に入りのコーヒーバッグをセッティングしながら、社長は問いかけた。電気ケトルからは、すでに熱々の湯気が噴き出している。断熱カップに注がれた瞬間、湯気とともに広がる甘い香り。社長室がこれで満たされるのもまた、4日ぶりのことであった。


「…」


 何もしゃべらずに、ただうつむく秘書。

 社長は抽出したばかりのコーヒーと「カステラ味のカステラ」をトレーに乗せた。これもまたクレクレの新商品であるが、めでたく発売初日で38万個の売り上げを記録。地球から月の距離にも匹敵する数字を叩きだすほどの大人気っぷりは、気がすむまで迷走した末に、一周まわってまともになった「クレクレ製品開発部」によるものだった。


 両手で大事そうにトレーを持ち、秘書のいるベッドへ歩み寄ってくる社長。

 ベッドの横にあるテーブルに置こうとした矢先———


ガシャンッ!


 事件が起こった。

 足元の布団に足を引っかけ、トレーごと放ってしまったのである。

 良かったことは「カステラ味のカステラ」がきれいな放物線を描いて、そのまま秘書の口に飛び込んだことと、布団がコーヒーの奥深い香りに包まれたこと。

 良くなかったことは、その布団を洗濯しなければならないこと。

 数でいえば良かったことのほうが多いので、社長はコーヒーをこぼして良かったのかもしれない。


「す、すまない。火傷してないか?」

「う、うん。社長も大丈夫?」

「ああ。問題ない」


 自分のために、わざわざ淹れてくれた社長。社長はコーヒーを飲まないのに。

 秘書は責めるつもりなど微塵もない。それより、ひとつ気になることがある。


「この布団って、もしかして…社長」

「大したことじゃない。僕がたたみ忘れていただけだ」


 自分からは言わないが、4日間ずっと秘書のそばにいた社長。

 いつ起きてもいいように、ベッドを譲り、自分は床に布団を敷いて寝る。

 6歳男児社長はそういう人間である。


 社長は布団に手をついて立ち上がり、布巾を取りにいった。少しずつ遠ざかっていく、小さいのに頼りになるその背中。ほとんどの同年代の子たちは、体の大きさに合わないランドセルを背負っているはずなのに。社長室の大きな革製の椅子の感触など、知らないはずなのに。秘書にとってあっという間だった7年弱の月日。社長はどう感じていたのだろう。


「…どうした秘書。それは涙か?」


 社長は尋ねた。その手には、控えめな握力のせいで充分に絞りきれなかった、濡れた布巾がつままれている。


「こ、これはコーヒーだわ。知らないうちに目に入ってたみたい」


 秘書は慌てて、掛布団で液体を拭った。拭っても拭っても溢れ出てくる様子を見るあたり、目に入ったのレベルではない。社長も当然のように、その違和感に気付いていた。


「いや…それはコーヒーではないだろう。透明だ」

「うるさいバカ!」


 瞬く間に秘書はベッドにもぐりこんだ。真っ白の掛布団にはコーヒーがにじみ、そういうデザインになっている。うまく日本列島の形になっているものの、北海道だけが少しいびつな形をしていた。社長は手作業で完成させたい衝動にかられたが、やめた。

 秘書の涙がそれを補完したからである。


「知っているのだな。僕の秘密を」


 うん、と秘書はうなずいた。

 というより、掛布団がうなずいたように見えた。そして、モゴモゴと掛布団がしゃべり始めた。


「だから決めてたの。大好きな宇宙で最期を過ごさせてあげたいって」

「…そうだったのか」


 秘書が社長の病気を知ったのは5年前。

 「患者様からは話さないように言われまして」と一点張りだった担当医にピストルを突き付け、無理やり口を割らせたことが最初であった。それだけでなく、今度は「私にしゃべったことを社長に話さないように」と脅迫。今でこそ比較的常識のある彼女も、昔は「裏社会のデン」だったのである。


「僕自身、まだそこに希望はあると思っていた。主治医からは精神のリブートにより治療が可能であると聞かされていたからだ」


 社長は再び立ち上がり、新たにコーヒーを入れ直すことにした。

 秘書はまだ毛布にくるまれている。


「主治医は亡くなった。世界でただ一人、その医療技術を持つ人物だった」


 社長は少しだけ表情を崩し、ケトルに水を入れるところからやり直した。そしてスイッチを入れ、昔の記憶を思い出すかのように、窓の外を眺めた。


 その一報を最初に聞いたのは社長であった。主治医は他にも高度な医療技術を要する患者を担当しており、その移動中に亡くなったそうだ。当時の患者が同じく早送り症候群に罹患していたかは不明だが、やはり難病だったと聞いている。

 そして秘書は、まだ毛布にくるまれている。


「そもそも高確率で成功するような治療ではない。1パーセントすら切るほどの、元々なかったといえる程度のものだ」


 社長はかすかに涙をにじませた。

 普段は何事にも動じない彼が、人前で涙を流すことなど今まで一度も———

 いや、幾度となくあった。特に3年ほど前。精神の年齢が40代に突入したころである。

 母熊に育てられた子熊が独り立ちする絵本で泣き。

 自動販売機に売られていた大好きなココアが目の前で売り切れ、さらにその人物が「7777」を引き当てたのを目にして泣き。

 お気に入りだった従業員を、秘書が勝手にクビにしてしまったときに泣き(その従業員とはずばり、ウラ109であり、優秀な彼を工場で働かせたかったため「カジカジでの彼をクビにした」のであるが)。


 社長と主治医は、お互いを「男児」「主爺」と呼ぶほどの仲であった。プライベートで食事に出かけたり、ボウリングで手や足を痛めたり。そのたびに2人は「祖父と孫」と間違われ、バカ店員に「坊や、おじいちゃんを困らせちゃダメだよ」と言われたこともあった。それも今では良い思い出である。


 社長が流した涙の理由は、盟友を失った悲しみか、あるいは自身の決定された運命を案じてか。もしかすると、その両方かもしれない。

 そして秘書はまだ、毛布にくるまれていた。


ポッ


 電気ケトルから湯気が噴き出す。

 コーヒーを抽出する社長の背中に、毛布は話しかけた。


「やっていいんだよね、宇宙葬」


 …わかってはいたが、こうも秘書は死を確定してくるか!

 しかし社長は、そんな彼女が大好きである。湯を注ぎ、間もなくカップがパリンッと逝ったが、社長はそれを隠したまま言った。


「あぁ、よろしく頼む」


 話はさかのぼるが、当時の「裏社会のデン」は秘書である。では「裏社会のドン」は誰か。

 現在のロケット工場の従業員であり秘書の元カレ、ウラ001であった。

 裏社会のデンとは、ドンに次ぐ者という意味を持つ。五十音順でいえばドの前にデが来るからである。加えて英単語の「den」には隠れ家や秘密基地のような意味があることから、ウラ001を裏から支えていた秘書にぴったりな呼称とされている。こう見えても、秘書は当時、裏社会の実力者としてその呼称をとどろかせていた。


「そうと決まりゃぁ、オレたちもやるっきゃねぇな!」


 社長室の扉がバタンと開き、興奮して鼻の穴をおっ広げたロクが言った。今日のモヒカンは緑一色。麻雀なら役満である。

 そして同じく、こっそり部屋の外で話を聞いていたナナも———


「おいどんにも、力添えさせてもろてよかでごわすか!」 


 薩摩焼酎の空き瓶を持って入ってきた。

 発した言葉が少しでも違っていたら、彼らはこの瞬間にクビになっていたはずだ。


「社長、ユキどん、そいにおいどん。三人寄りゃんせば、文殊の知恵じゃっど!」

「っておい、オレどこだよ」

「モヒカンは…この瓶ん中にでも入っちょれ」

「なんでだよ。お前が入れよ」


 社長はまた、1滴の涙をこぼした。

 きっと今夜もまた、1人で布団を濡らすのだろう。


「そいじゃ、さっそく始めもんそ! ユキどんとおいどんのハネムーン計画!」


 目的があっという間にすり替わった眼帯。

 一昔前までは、爽やかで人想いで、おもしろかった。

 でも、眼帯はいつの間にか左目から右目になってるし、語尾というか言葉全体が薩摩だし。そういえば「見たら死」系とか言ってなかったか? しっかり左目解放しているではないか。あのときの面影がどこにも見当たらないほど、変わり果ててしまった。


 しかし、なぜか元気をもらえるような彼の様子を見て、秘書は思い出した。

 人間の根本は変わらない、ということを。


 お互いの秘密が公になった今、秘書と社長に怖いものはなかった。


「社長、トンカチ借りるね」

「社長さん、納豆借りるっすわ…いやそこナットやろって! …すんません」

「社長どん、壁の100ダラー札、テイクフリーでごわすか? 差し入れ用の飲みもんのお使い頼まれもしたんで、30枚ほどもろていくでごわす!」


 ロケットが完成する頃には、コーヒーメーカーだけになるのではないかと心配するほど、社長室からはハイペースで物品がなくなっていった。しかしそれに比例するように、地下8階では着々と開発ペースを上げていた。


 やがて、社長が返事をしなくても勝手に持っていくようになったので、社長はやるべきことに専念していた。それは、ワクワクしながらクレヨンを握って自分の似顔絵を描くことである。

 人間かミジンコかでいえば、ミジンコ。

 社長か秘書かでいえば、ギリギリ社長。

 お絵かきスキルだけは、立派に6歳男児のものであった。

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