渇きと幻影の村
蝉の声すら聞こえない、異常な夏だった。山間の小さな村、水上村は、何年も続く干ばつに見舞われ、その名の通り水とは無縁の地と化していた。かつて清らかな水を湛えていたはずの小川は干上がり、田んぼはひび割れ、井戸からは泥水すら出ない。村人たちの顔には、疲労と絶望、そして、乾ききった唇と同じ色の、不気味なひび割れが浮かんでいた。
主人公の亮太は、都会から逃げるようにこの村に戻ってきたばかりだった。だが、故郷は、彼が知る穏やかな場所ではなかった。人々は互いに疑心暗鬼になり、わずかな水を巡って
い争いが絶えない。夜になると、村中からうめき声のような幻影の囁きが聞こえてくる。
「水よ……冷たい水よ……」
それは、潤いを求める村人たちの切なる願いのようでもあり、同時に、底知れぬ恐怖を煽る呪詛のようでもあった。亮太自身も、幻覚を見るようになっていた。目の前を流れるはずのない、黒く濁った水。その水底からは、いくつもの白い手が伸び、彼を誘っている。
ある日、村の老人、源蔵が姿を消した。源蔵は、村の歴史に詳しい唯一の人物で、干ばつの原因について、何か不吉な言い伝えを知っているようだった。亮太は、源蔵を探すため、禁じられている村の奥の枯れた水源地へと向かった。
水源地は、かつて小さな湖だった場所だ。だが今は、底まで見渡せるほどの巨大な窪地が広がっている。その中央には、黒ずんだ、朽ちた鳥居が一本立っていた。村の言い伝えでは、この鳥居の奥に**「水神様の怒り」**が封じられているという。
亮太が窪地の底に降り立つと、地面から微かに湿った風が吹き上げてきた。そして、その風に乗って、源蔵の声が聞こえた。
「亮太か……来るな、ここへは……」
声のする方へ向かうと、そこには泥にまみれた源蔵が倒れていた。彼の指先は、硬い地面を必死で掻いていた。源蔵は、濁った目で亮太を見上げ、震える声で言った。
「ここに、いるんだ……水が、枯れたから……」
源蔵が指さす先には、地面のひび割れから染み出すように、黒い水が滲んでいた。その水は、ゆっくりと広がり、やがて窪地の底を覆い始めた。そして、その水面が、鏡のように村の空を映し出した時、亮太は戦慄した。
水面に映るのは、彼自身の顔ではなかった。無数の、水に溺れた者たちの顔が、亮太の顔の奥で蠢いている。そして、その顔の一つが、源蔵の顔と重なった。
「これは……かつて、村が水に沈んだ時の……」
源蔵の言葉が、脳裏に響く。この村は、かつて洪水によって一度滅びかけていたのだ。そして、その時、水底に封じられたはずの怨念が、干ばつによって再び顕現しようとしているのだ。
黒い水は、瞬く間に増え続け、亮太の足元まで迫る。水面からは、あの白い手が無数に伸び、彼の足を掴もうと蠢いている。亮太は必死で逃げようとしたが、足が泥に絡め取られ、身動きが取れない。
源蔵は、その様子を呆然と見つめていた。彼の顔には、諦めと、どこか安堵したような表情が浮かんでいた。
「もう、逃げられない……水神様は、怒っている……」
黒い水が、亮太の膝まで来た時、彼は遠くから、村人たちの叫び声を聞いた。彼らもまた、同じ幻影に囚われ、水に引き寄せられているのだ。亮太は、この村に巣食う水の呪いから、逃れることはできないと悟った。
冷たい水が、ゆっくりと体を包み込む。意識が遠のく中、亮太は、水底から響く無数の声を聞いた。
「我らは、渇きを癒す……永遠の安らぎを……」
そして、彼の視界は、漆黒の闇に覆われた。水上村に、再び水が戻ることはなかった。ただ、地中深くで、無数の魂が、永遠に渇きを癒されているという噂だけが、風に乗って囁かれ続けている。