07 別れを告げた、その後に
そうして、セシリアとアルフォンスは、『白い結婚』を理由にして予定通り別れた。
田舎の領地に帰ったセシリアを責め立てる者はいなかった。彼女は、自由の身だった。
あれから、半年が経った。
朝起きてご飯を食べ、昼は領地の見回りをし、夜は早めに帰って寝た。代り映えもしない、田舎のルーティンだ。
当主にならないセシリアには、難しい勉強も必要ない。
『お前はもったいないな。頭が良いのに。学校には通わないのか?』
アルフォンスの言葉を思い出し、どきりと、セシリアの心臓が跳ねる。もしも、セシリアが勉強したいと言えば、優しい両親は許してくれるだろう。
でも、セシリアはもう王都には戻りたくなかった。後ろ指をさされるのが怖かった。そんなこと理解していたはずなのに。
(違う。後ろ指をさされることなんてどうでもいい。私は……)
セシリアは瞳を閉じる。
そして、ああ、駄目だ、と思った。
瞼の裏には、アルフォンスの顔しか浮かんでこない。
王都に行けば、嫌でも彼の情報が耳に入る。きっと、会いたいと思ってしまう。
せっかく綺麗にラッピングした自分の気持ちが開いてしまう。ぐしゃぐしゃになった包装紙では、もう気持ちを包むことはできない。
「元気がないわねぇ、セシリアちゃん」
「ねえね、大丈夫?」
「うん……大丈夫よ、ごめんね」
母と妹だ。ぼーっとしているセシリアに声をかけてくれているらしい。
もう、半年以上経つというのに、彼のことが忘れられないなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
たった一か月、一緒に過ごしただけだというのに。
自分がこんなにも、恋に溺れる人間だとは知らなかった。
(私と彼とでは、住む世界が違うというのに)
『元気で……セシリア』
その声を思い出すだけで、苦しくなる。
もう少しの辛抱だ。きっと時間が解決してくれる。
彼だって、相応しい人と、出会って、婚約して、それで、きっとその話もセシリアの耳に入って。それで。
「セシリア様!」
唐突に、使用人であるメアリが慌てた様子で入ってくる。
もう70歳近く、腰が痛いとぼやいているのにも関わらず、その足は驚くほど速かった。
「グレイブ公爵様からお手紙です」
「こ、公爵様から?」
封蝋には、確かに公爵家の家紋が刻まれている。一体、何事だろうか。
厚紙でできた、質のいい封筒をレターカッターで切ると、中から一枚の便箋が飛び出した。
『セシリア・ウィンターズ嬢へ
両親と兄の命日に、ビーフシチューを作ろうかと思っているのだが、上手くできない。アドバイスが欲しい。 アルフォンス・グレイブ』
手紙はそれで終わっていた。裏面をひっくり返してみるが、本当にそれだけだった。
まさか、そんな理由で田舎にいる伯爵令嬢を呼び出すのか、とセシリアは呆れそうになった。が、彼女の心臓はどきどきと激しく鼓動を刻んでいる。
筆圧も、文字の癖も、すべて彼のものだ。
また、彼に会える。嬉しい。そう言った気持ちが無いわけではない。でも、王都に出向けば、セシリアは。
(ただ、ビーフシチューを作って帰ってくるだなんて。都合のいい女も過ぎるじゃない)
彼女は考えた。
そうだ、彼は『アドバイスが欲しい』と言っているだけである。直接出向け、なんてどこにも書いていない。
ただ、手紙を書いて返せばいい。ただ、それだけなのだ。
そうして、彼と彼女の関係は、きっと本当に終わりを迎える。
(それでいい。それがいい。……そうしよう)
どうせ叶わない恋なんて夢見る方が愚かなのだ。セシリアは自室に戻るため、居間を出ようとする。
「セシリア」
呼び止めたのは、母だった。
彼女は、セシリアのことを『セシリアちゃん』と呼ぶ。呼び捨てにするときは、大切なことを告げるときだけであった。
だから、セシリアは驚いて、彼女の方を見る。セシリアと同じ、薄水色の瞳がゆっくりと瞬いた。
「恋の女神様はね、意外と女の子に優しいのよ」
一言だけ、そう告げた。
セシリアの心が決まるのは、もう、それだけで、十分だった。
「あの」
「なあに、セシリアちゃん」
母はふんわりと花のように微笑む。
「お母様。馬車の手配をお願いしたいのですが」
「ふふ、セシリアちゃんのわがままを聞くなんて何年振りかしら」
彼女はそう言って、くすくすと笑う。
「行ってらっしゃいセシリアちゃん。あなたはもっと、欲深くなっていいのよ」
ああ、もう。この恋が叶うとか、叶わないとかどうでもいい。
セシリアは、ただ、アルフォンス・グレイブに会いたかった。
◇
久々に顔を合わせたアルフォンス・グレイブは、何も変わっていなかった。そして、彼に会ったセシリア自身も何も変わっていなかった。
彼に会った瞬間、泣いてしまうのではないかという心配は、ただの杞憂に終わった。
恋をしているにしては、あまりに穏やかで代り映えがしない日常の一コマのようだった。
「公爵様、できましたか」
「まあ、一応」
セシリアのアドバイスに沿って煮込んだビーフシチューは、大変美味しそうに出来上がった。一口味見してみれば、それはもう完璧と言っていいほどの出来栄えだった。
数時間前の惨事を思えば、見事な手腕に自画自賛したくなってくる。
「それでは、私の役目は終わりですかね。あんまり滞在しても、変な噂が立ってしまいますので、失礼しますね」
セシリアは一方的にそう告げて、屋敷の玄関に向かおうとする。
……これで終わりなのだ。
セシリアがここにきた理由は、きっと、恋を叶えるためではなかった。最後に自分の恋を終わらせるためだったのだ。
だからもう、セシリアは振り向かない。そう思っていたのに。
「セシリア」
不意に、名前を、呼ばれた。
それだけで、その決意は簡単に崩れ落ちる。
「こうして、お前を呼んだのは、ただの建前だ」
そう言って、アルフォンスは胸元から一枚の紙を取り出す。「ウィンターズ伯爵には、すでに伝えているんだが」という前置きと共に広げられたのは、『白い結婚』時に署名した離婚届だった。
それは、本来であれば教会で受理されるはずのものである。
「り、離婚していなかったのですか!」
「…………書類を、出すことができなかった。すまない」
ぽつり、とアルフォンスが言った。
決してそれは、教会が受け付けなかったとか、そういう事務処理面のことではないのだろう。
単に、アルフォンスが『出せなかった』のだ。
セシリアは、アルフォンスの言葉の続きを待った。
「俺は人を愛する、という感覚がわからない。それまで、確かに両親から受け取っていたはずなのに、家族が死んだあの日から、すっかり抜け落ちてしまったらしい。ずっと一人で生きてきたし、これからも一人で生きていけると思っていた」
苦しそうな声だった。彼が息継ぎをするたびに、肩が上下する。
「でも」とアルフォンスは言った。
「セシリアが、キッシュを差し出してくれた、あの日から。俺は変わってしまった」
血まみれでアルフォンスが帰ってきたあの日。セシリアが『食べますか?』と聞いたあの日。
全てが始まったのは、あの日からだった。
「風邪を引いた時に何も言わずに傍に居てくれたのも、市場で俺のことを大声で庇ってくれたのも、花火を見る横顔が眩しかったのも────全部、セシリアがくれたものだ」
じんわりと、言葉が心に染みこんでいく。
(……なんだ。私だって)
自分だけが、貰っていたのだと思っていた。
彼からの言葉や優しさを貰うたびに、自分は彼に何かあげることができているのか不安になっていた。でも、セシリアだって、ちゃんと彼に贈ることができていたのだ。
自分の言葉や感情が、彼にとって少しでも救いになっていたのならば、セシリアにとってこんなに嬉しいことはない。
「なあ、こんなこと知りたくなかった。会いたかった人を目の前にしても、俺は、こんなに苦しい。……その理由さえよくわからない」
そんな言葉を紡がれたら、勘違いをしてしまいそうになる。
あの一か月間で、特別な感情を抱いてしまったのは、ひょっとしたら、自分だけではないのだろうか。
アルフォンスの優しい眼差しも、心配する顔も、別れ際の泣きそうな顔も。すべて、勘違いしてしまってもいいのだろうか。
「……セシリアのいない生活は、寂しすぎる」
その言葉で、セシリアの世界は魔法にかかったように、色づいてしまった。
ああ、好きだ。
好きで、好きで仕方がない。
綺麗にラッピングされたはずの思い出たちを、セシリアは開いてしまった。
綺麗に解くのではなく、誕生日にプレゼントを貰った子どものように、びりびりと包装紙を破いた。
そうして中から出てきたのは、アルフォンスをただ『愛しい』と思う感情だった。
(私だって、風邪を引いた貴方を寝かしつけた朝も、市場であなたを庇った夕方も、一緒に花火を見上げた夜も、全て鮮明に思い出せるくらいには)
「……貴方に恋をしています、と言ったら、その腰の剣で私を殺しますか」
『貴方に恋をしてしまった時は、その腰の剣で殺してもらってもいいですよ』
それは、夜会の時にセシリアが告げた言葉だった。絶対に破ることがない冗談だったはずなのに、気持ちは抑えられない程大きくなっている。
アルフォンスは目を見開いた。ぱっちりとした二重が露わになって、瞳が切なく揺れる。そして、その瞳は、だんだんと潤みを増していく。
「そうか、俺、は」
彼の口角が上がる。右の方が少しだけ高い。
ああ。その顔が。そのしぐさが。すべて────
「俺は、セシリアのことが、好きで、堪らないみたいだ」
────好きなんだ。
困ったように笑った彼の瞳からは、一筋の涙が零れ落ちた。彼の弱ったところは見たことがあるけれど、涙を見るのは初めてだった。
アルフォンスは、目から零れ落ちたものに信じられない、という顔をした。
「……っ、なんで、俺、泣いて」
「なんででしょうね」
それはセシリアも同じだった。目頭が熱くなったかと思うと、ぼろぼろと涙が溢れだした。悲しくないのに、涙が溢れるなんて初めてかもしれない。
セシリアは昔から泣かなかった。誰の前でも涙を見せることはなかった。自分が泣けば、周囲が不安になってしまうから。自分の弱さを見せたくないから。
けれど、この人になら自分の弱さを見せてもいいと思えた。
「なあ」
アルフォンスがそう言った。セシリアを呼び掛けるときの癖だった。
「好きだ、セシリア」
「ええ、私も。アルフォンス様」
台所で二人、良い大人がぐずぐずと泣いている。なんだかそれがおかしくって、セシリアは笑った。
二人は手を取った。
きっと二人ならば、明るい未来が待っていると信じて。
◇
そうして。
アルフォンスにとって、セシリアは、遠い太陽ではなく、たった一人の愛すべき妻となった。
これにて完結です。
応援してくださった皆様、本当にありがとうございました!
また、いつも誤字報告をくれた方、この場をお借りして御礼申し上げます。
連載版でこのお話の続きを連載しています。
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