表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/7

07 別れを告げた、その後に


 そうして、セシリアとアルフォンスは、『白い結婚』を理由にして予定通り別れた。

 田舎の領地に帰ったセシリアを責め立てる者はいなかった。彼女は、自由の身だった。



 あれから、半年が経った。


 朝起きてご飯を食べ、昼は領地の見回りをし、夜は早めに帰って寝た。代り映えもしない、田舎のルーティンだ。

 当主にならないセシリアには、難しい勉強も必要ない。


『お前はもったいないな。頭が良いのに。学校には通わないのか?』


 アルフォンスの言葉を思い出し、どきりと、セシリアの心臓が跳ねる。もしも、セシリアが勉強したいと言えば、優しい両親は許してくれるだろう。

 でも、セシリアはもう王都には戻りたくなかった。後ろ指をさされるのが怖かった。そんなこと理解していたはずなのに。


(違う。後ろ指をさされることなんてどうでもいい。私は……)


 セシリアは瞳を閉じる。

 そして、ああ、駄目だ、と思った。

 瞼の裏には、アルフォンスの顔しか浮かんでこない。


 王都に行けば、嫌でも彼の情報が耳に入る。きっと、会いたいと思ってしまう。

 せっかく綺麗にラッピングした自分の気持ちが開いてしまう。ぐしゃぐしゃになった包装紙では、もう気持ちを包むことはできない。


「元気がないわねぇ、セシリアちゃん」

「ねえね、大丈夫?」

「うん……大丈夫よ、ごめんね」


 母と妹だ。ぼーっとしているセシリアに声をかけてくれているらしい。

 もう、半年以上経つというのに、彼のことが忘れられないなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。


 たった一か月、一緒に過ごしただけだというのに。

 自分がこんなにも、恋に溺れる人間だとは知らなかった。


(私と彼とでは、住む世界が違うというのに)


『元気で……セシリア』


 その声を思い出すだけで、苦しくなる。

 もう少しの辛抱だ。きっと時間が解決してくれる。

 彼だって、相応しい人と、出会って、婚約して、それで、きっとその話もセシリアの耳に入って。それで。


「セシリア様!」


 唐突に、使用人であるメアリが慌てた様子で入ってくる。

 もう70歳近く、腰が痛いとぼやいているのにも関わらず、その足は驚くほど速かった。


「グレイブ公爵様からお手紙です」

「こ、公爵様から?」


 封蝋(ふうろう)には、確かに公爵家の家紋が刻まれている。一体、何事だろうか。

 厚紙でできた、質のいい封筒をレターカッターで切ると、中から一枚の便箋が飛び出した。


『セシリア・ウィンターズ嬢へ


 両親と兄の命日に、ビーフシチューを作ろうかと思っているのだが、上手くできない。アドバイスが欲しい。 アルフォンス・グレイブ』


 手紙はそれで終わっていた。裏面をひっくり返してみるが、本当にそれだけだった。

 まさか、そんな理由で田舎にいる伯爵令嬢を呼び出すのか、とセシリアは呆れそうになった。が、彼女の心臓はどきどきと激しく鼓動を刻んでいる。


 筆圧も、文字の癖も、すべて彼のものだ。

 また、彼に会える。嬉しい。そう言った気持ちが無いわけではない。でも、王都に出向けば、セシリアは。


(ただ、ビーフシチューを作って帰ってくるだなんて。都合のいい女も過ぎるじゃない)


 彼女は考えた。

 そうだ、彼は『アドバイスが欲しい』と言っているだけである。直接出向け、なんてどこにも書いていない。

 ただ、手紙を書いて返せばいい。ただ、それだけなのだ。


 そうして、彼と彼女の関係は、きっと本当に終わりを迎える。


(それでいい。それがいい。……そうしよう)


 どうせ叶わない恋なんて夢見る方が愚かなのだ。セシリアは自室に戻るため、居間を出ようとする。


 「セシリア」


 呼び止めたのは、母だった。

 彼女は、セシリアのことを『セシリアちゃん』と呼ぶ。呼び捨てにするときは、大切なことを告げるときだけであった。


 だから、セシリアは驚いて、彼女の方を見る。セシリアと同じ、薄水色の瞳がゆっくりと瞬いた。


「恋の女神様はね、意外と女の子に優しいのよ」


 一言だけ、そう告げた。


 セシリアの心が決まるのは、もう、それだけで、十分だった。


「あの」

「なあに、セシリアちゃん」


 母はふんわりと花のように微笑む。


「お母様。馬車の手配をお願いしたいのですが」

「ふふ、セシリアちゃんのわがままを聞くなんて何年振りかしら」


 彼女はそう言って、くすくすと笑う。


「行ってらっしゃいセシリアちゃん。あなたはもっと、欲深くなっていいのよ」


 ああ、もう。この恋が叶うとか、叶わないとかどうでもいい。

 セシリアは、ただ、アルフォンス・グレイブに会いたかった。




 久々に顔を合わせたアルフォンス・グレイブは、何も変わっていなかった。そして、彼に会ったセシリア自身も何も変わっていなかった。

 彼に会った瞬間、泣いてしまうのではないかという心配は、ただの杞憂に終わった。

 恋をしているにしては、あまりに穏やかで代り映えがしない日常の一コマのようだった。


「公爵様、できましたか」

「まあ、一応」


 セシリアのアドバイスに沿って煮込んだビーフシチューは、大変美味しそうに出来上がった。一口味見してみれば、それはもう完璧と言っていいほどの出来栄えだった。

 数時間前の惨事を思えば、見事な手腕に自画自賛したくなってくる。


「それでは、私の役目は終わりですかね。あんまり滞在しても、変な噂が立ってしまいますので、失礼しますね」


 セシリアは一方的にそう告げて、屋敷の玄関に向かおうとする。

 ……これで終わりなのだ。


 セシリアがここにきた理由は、きっと、恋を叶えるためではなかった。最後に自分の恋を終わらせるためだったのだ。

 だからもう、セシリアは振り向かない。そう思っていたのに。


「セシリア」


 不意に、名前を、呼ばれた。

 それだけで、その決意は簡単に崩れ落ちる。


「こうして、お前を呼んだのは、ただの建前だ」


 そう言って、アルフォンスは胸元から一枚の紙を取り出す。「ウィンターズ伯爵には、すでに伝えているんだが」という前置きと共に広げられたのは、『白い結婚』時に署名した離婚届だった。

 それは、本来であれば教会で受理されるはずのものである。


「り、離婚していなかったのですか!」

「…………書類を、出すことができなかった。すまない」


 ぽつり、とアルフォンスが言った。

 決してそれは、教会が受け付けなかったとか、そういう事務処理面のことではないのだろう。

 単に、アルフォンスが『出せなかった』のだ。


 セシリアは、アルフォンスの言葉の続きを待った。


「俺は人を愛する、という感覚がわからない。それまで、確かに両親から受け取っていたはずなのに、家族が死んだあの日から、すっかり抜け落ちてしまったらしい。ずっと一人で生きてきたし、これからも一人で生きていけると思っていた」


 苦しそうな声だった。彼が息継ぎをするたびに、肩が上下する。

 「でも」とアルフォンスは言った。


「セシリアが、キッシュを差し出してくれた、あの日から。俺は変わってしまった」


 血まみれでアルフォンスが帰ってきたあの日。セシリアが『食べますか?』と聞いたあの日。

 全てが始まったのは、あの日からだった。


「風邪を引いた時に何も言わずに傍に居てくれたのも、市場で俺のことを大声で庇ってくれたのも、花火を見る横顔が眩しかったのも────全部、セシリアがくれたものだ」


 じんわりと、言葉が心に染みこんでいく。


(……なんだ。私だって)


 自分だけが、貰っていたのだと思っていた。

 彼からの言葉や優しさを貰うたびに、自分は彼に何かあげることができているのか不安になっていた。でも、セシリアだって、ちゃんと彼に贈ることができていたのだ。

 自分の言葉や感情が、彼にとって少しでも救いになっていたのならば、セシリアにとってこんなに嬉しいことはない。


「なあ、こんなこと知りたくなかった。会いたかった人を目の前にしても、俺は、こんなに苦しい。……その理由さえよくわからない」


 そんな言葉を紡がれたら、勘違いをしてしまいそうになる。

 あの一か月間で、特別な感情を抱いてしまったのは、ひょっとしたら、自分だけではないのだろうか。

 アルフォンスの優しい眼差しも、心配する顔も、別れ際の泣きそうな顔も。すべて、勘違いしてしまってもいいのだろうか。



「……セシリアのいない生活は、寂しすぎる」



 その言葉で、セシリアの世界は魔法にかかったように、色づいてしまった。


 ああ、好きだ。

 好きで、好きで仕方がない。


 綺麗にラッピングされたはずの思い出たちを、セシリアは開いてしまった。

 綺麗に解くのではなく、誕生日にプレゼントを貰った子どものように、びりびりと包装紙を破いた。

 そうして中から出てきたのは、アルフォンスをただ『愛しい』と思う感情だった。


(私だって、風邪を引いた貴方を寝かしつけた朝も、市場であなたを庇った夕方も、一緒に花火を見上げた夜も、全て鮮明に思い出せるくらいには)




「……貴方に恋をしています、と言ったら、その腰の剣で私を殺しますか」



 

 『貴方に恋をしてしまった時は、その腰の剣で殺してもらってもいいですよ』

 それは、夜会の時にセシリアが告げた言葉だった。絶対に破ることがない冗談だったはずなのに、気持ちは抑えられない程大きくなっている。

 


 アルフォンスは目を見開いた。ぱっちりとした二重が露わになって、瞳が切なく揺れる。そして、その瞳は、だんだんと潤みを増していく。


「そうか、俺、は」


 彼の口角が上がる。右の方が少しだけ高い。

 ああ。その顔が。そのしぐさが。すべて────



「俺は、セシリアのことが、好きで、堪らないみたいだ」



 ────好きなんだ。

 困ったように笑った彼の瞳からは、一筋の涙が零れ落ちた。彼の弱ったところは見たことがあるけれど、涙を見るのは初めてだった。


 アルフォンスは、目から零れ落ちたものに信じられない、という顔をした。


「……っ、なんで、俺、泣いて」

「なんででしょうね」


 それはセシリアも同じだった。目頭が熱くなったかと思うと、ぼろぼろと涙が溢れだした。悲しくないのに、涙が溢れるなんて初めてかもしれない。


 セシリアは昔から泣かなかった。誰の前でも涙を見せることはなかった。自分が泣けば、周囲が不安になってしまうから。自分の弱さを見せたくないから。

 けれど、この人になら自分の弱さを見せてもいいと思えた。


「なあ」


 アルフォンスがそう言った。セシリアを呼び掛けるときの癖だった。


「好きだ、セシリア」

「ええ、私も。アルフォンス様」


 台所で二人、良い大人がぐずぐずと泣いている。なんだかそれがおかしくって、セシリアは笑った。


 

 二人は手を取った。

 きっと二人ならば、明るい未来が待っていると信じて。





 そうして。

 アルフォンスにとって、セシリアは、遠い太陽ではなく、たった一人の愛すべき妻となった。



これにて完結です。

応援してくださった皆様、本当にありがとうございました!

また、いつも誤字報告をくれた方、この場をお借りして御礼申し上げます。


連載版でこのお話の続きを連載しています。

ぜひ読みたいよ!という方は、感想下のリンクからお願いします。(2024/9/21 追記)


もしよろしければ、感想、評価等お待ちしております。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 最後がとてもいいですね…! 星でも太陽でもなく隣にいるあなた。 二人とも、相手がちゃんと人間になるまで見つめていられてよかったですね…!! [一言] 二人がさらっと屋根からバルコニーに降…
[一言] セシリア、いい子…!報われて良かった。 不誠実な男に袖にされ、実家安堵叶わずの絶望にもかかわらず、その後の恋愛要素無視の鬼婚姻申入れにもポジティブにくらいつく、家思いのガッツある令嬢。正直、…
[気になる点] 持参金→嫁ぐ娘に親が持たせる金品。嫁にいく女性個人の資産となるが、嫁いだ家に取り上げられることも多かった。花嫁行列で持参していくものを周囲に見せるのは、「これとこれとアレ…は女性の物で…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ