06 お別れのビーフシチュー
深夜でもなければ、夜でもない。まだ、ピカピカに陽が差している午前十時。
せっせとビーフシチューを作ったセシリアは、皿に盛り、パンを付け合わせる。
コック長が休みで助かった、とセシリアは思う。
「今日は、ビーフシチューにしてみました!」
食堂で食べようかと思ったが、やっぱりいつものように居間に彼はいた。 南向きの大きな窓が付いているため、朝は優しい光が差し込んで明るい。
「ビーフシチューなら、普通に食べたことがある。他の田舎料理は無かったのか」
アルフォンスは、不満げにそう呟いた。
「田舎は異国でもなんでもないんですが……」
「朝からビーフシチューか。まあ、いいが」
「頑張って作ったんですよ!」
「はいはい、悪かった」
確かに、朝からビーフシチューは考え物だったかもしれない。セシリアは後悔したが、作ってしまったものは仕方ない。
「我が家では、お祝いの時は、ビーフシチューって決まっているんです。さあ、どうぞ」
セシリアも彼の向かいに腰掛ける。
そして、アルフォンスの一口目をじっと見つめる。スプーンが、形のいい唇の中に吸い込まれていく。
「……美味い」
ふわり、とアルフォンスは笑う。彼がこんな風に笑うなんて、1か月前の自分に言っても信じやしないだろう。
「うちの両親はビーフシチューが好きだった。兄もだ」
「じゃあ、思い出の味ですね」
「ふ、そうだな」
セシリアは、一冊のノートをアルフォンスに差し出した。
「あ、レシピはですね。ばっちり残してます」
「俺に作れると思うのか」
「料理の可能性は万人に開かれてますから!」
えっへん、と自信ありげに笑えば、アルフォンスは受け取ったノートを大切そうに撫でた。
まあ、コック長……はこだわりが強そうだから、マリーあたりに頼んで作ってもらうのがいいかもしれない。
アルフォンスが作るなら、それもそれで面白そうだが。
「そういや、さっき、『お祝い』と言ったか?」
「そうです。ビーフシチューはお祝い事の時に食べるんですよ?」
「これは、祝い事か?」
机をとん、と叩いたアルフォンスは、苦い顔をして言った。
「え、お祝いじゃないんですか。邪魔者が出ていくんですよ。祝、契約満了日!でしょう」
「なんだそれは」
呆れた、という顔である。息を絞り出すような溜息をついて、セシリアを見る。
「お前は……いや、なんでもない」
アルフォンスは何か言いかけた口を閉じた。
そして、スプーンを持ち直し、大きめに切った肉を口に入れる。そして、咀嚼する。もぐもぐ。もぐもぐ、と。
この光景を見るのも最後かと思うと、セシリアの胸がちくりと痛んだ。
(あれ、どうして)
セシリアは、自分の胸元に手を当てる。彼と一緒に花火を見た時くらいから、セシリアの心の中には、憂鬱な気持ちがインクのようにぽとぽと、と落ちていた。
「どうした。お前は食べないのか?」
「い、いえ、いただきます」
セシリアは、良く煮えたニンジンを口に入れた。
ビーフシチューは確かに美味しいけれど、セシリアには味を感じる余裕が無かった。
そんなことよりも、目の前の男の一挙一動を目に焼き付けておきたいと思ってしまった。
美しい金の髪も、エメラルドのような瞳も、本当はぱっちりとしているのに切れ長に見えるその目の形も、すらりと整った鼻も、右側だけ上げる癖のあるその唇も。
全部、覚えておこうと思った。
だって、もう、彼とは一生会うことも無いのだろうから。
◇
伯爵家の新しい馬車が止まっている。セシリアは、車輪が取れかけているボロボロの馬車しか見たことがなかったため、いたく感動していた。
これも、ひとえにアルフォンスの資金援助のおかげである。
アルフォンスは、ご丁寧に門の外まで見送りに来てくれた。
「お前と顔を合わせる機会ももう無くなるのか」
「ええ、もう無いと思います」
来年からの夜会は、両親と18歳になる弟が出席することになる。だから、本当にこれが最後なのだ。
でも、もし、何かの間違いで会うことができたら。
(やめよう。旦那様は、私の名前すら覚えていないんだから。だって、ずっと『お前』呼びだった)
アルフォンスは、最後までセシリアの名前を呼ぶことはなかった。
彼は少しだけセシリアに心を開いてくれたけれど、それはどうせ切れる縁だったからに他ならない。結婚相手が誰だったとしても、彼にとってはどうでもいいことなのだ。
「公爵様、大変お世話になりました。ありがとうございました」
「ああ」
セシリアは、自分の旦那ではなく、グレイブ公爵に向かって優雅に一礼をする。スカートの裾を摘み上げ、右足を一歩引く。そして真っすぐと体を倒す。
しかし、彼女が顔を上げる直前だった。
セシリアの手首がぱしり、と掴まれる。
「待て」
「どうなさいましたか?」
「本当に、帰るのか」
「……忘れ物でもありました、っけ?」
セシリアが顔を上げる。そこには、グッと唇を強く噛んだアルフォンスがいた。強く噛み過ぎて、唇が切れそうだ。
セシリアは驚いて目を見開いた。
(何、その、顔……)
「ごめん」
セシリアが動揺を言葉にする前に、アルフォンスはぱっと手を離した。
「……お前には、帰る場所があるもんな」
「はい」
「そうだな、そうだ。そうだった」
アルフォンスは、一人で納得したかのように頷いた。そして、言った。
「元気でな……セシリア」
名前を。
彼はセシリアの名前を覚えていたのだ。
それは喜ばしいことなのに、セシリアは、なぜか苦しくてたまらない気持ちになった。
胸のあたりが、しくしくと切ない音を上げる。
「それでは失礼いたします。アルフォンス様」
セシリアはそう言った瞬間、礼もせず、彼に背を向けて馬車に乗り込んだ。慌てていた。
だって、彼から顔を見られてしまえば。
(……なんで、なんでなの)
セシリアの目からは、堰を切ったように涙が溢れだしていた。
細い針で何度も心臓を突き刺しているかのような痛みが、セシリアを襲う。
(どうして。別に、公爵様のことなんて)
浮かんでくるのは、アルフォンスと食卓を囲った日々だった。
キッシュを全部食べてくれたあの日からはじまったんだ。
リゾットを差し出したことも。ポトフのイモに首を傾げていたことも。そして、切なそうにビーフシチューを食べた今日のことだって。
思い出すのは、全て最後の一か月のことばかりである。
馬車が速度を上げ、公爵邸は遠のいていく。
(良かったんだ。これで)
一刻も早く別れたいと思っていたはずなのに、もう、すぐにアルフォンスに会いたくて仕方がない。今すぐ馬車を下りて駆けだしたい。でも、それは叶わない。
(あまりに、遠い人だもの)
あまりに近くて。
近すぎて、セシリアは気が付かなかった。
アルフォンスは、星だ。
近くで見ると、ただの光にしか思えないのに、離れた途端、暗闇に浮かぶ、たったひとつの一等星になる。
手を伸ばそうとしても掴めない。地上にいる彼女からは、手が届かない。届かないからこそ一層輝いて見えるのかもしれない。
(ああ、気が付きたくなかったな。私)
『君は、頭が良くて、優しい素敵な女の子だろ』
きっとその言葉を贈られた日からだ。その言葉は、セシリアにとって一生の宝物となるのだろう。
だから、セシリアはその気持ちに蓋をした。そして、丁寧にラッピングをして、可愛らしいリボンをかけた。
この一か月の日々が楽しく、美しい思い出に変わってくれることを願って。
(さようなら、アルフォンス様)
セシリアがアルフォンス・グレイブに抱いていた感情は、紛れもなく恋になるはずのものだった。
最終話は、19時頃更新予定です。
よろしくお願いします。




