04 ポトフと公爵夫人の矜持
誤字報告ありがとうございます……!
毎回、助かっております。
すっかり、セシリアはアルフォンスと夜食を食べることに慣れてしまった。
それが良いことなのかどうかはさておき、引きこもりがちだったセシリアが、外に出向く頻度が高くなったことは、良い変化だといえよう。
「ちょいちょい、こっちの野菜も安いよぉ!」
「……わぁ、じゃあ買っちゃおうかな!」
「セシリア様ぁ! こっちの魚も見ていっておくれ!」
「ちょっと、おばさま! 名前呼ばないで! 声が大きいです!」
白いローブを深く被ったセシリアは、毎日のように市場に通っている。そのため、市場の店主たちの間では、ちょっとした有名人である。
初めてお忍びで市場に出向いた際も、なるべく人目に付かないようにはしていた。だが、めざとい店主たちからはすぐに『グレイブ公爵夫人』であると気付かれてしまったのだ。
それからは、開き直って仲良く会話している。
もともと、ウィンターズ領は、領民との距離が近い。町の人と仲良くなるのなんて、セシリアにとっては朝飯前なのである。
「あらやだ、もう、セシリア様が来てくれるからって嬉しくって、ついねぇ」
「こんなに、可愛らしくて美人なお嬢様と婚約破棄したなんて、ユリウス様は馬鹿だよなぁ」
「……おじさま、そんなこと言っても、今日はイモとニンジンしか買いませんからね?」
「いや、本当のことなんだけどなぁ」
セシリアは手に取ったイモを、まじまじと見つめる。比較的栄養の無い土でも、イモは育つ。1年前までは、屋敷の外の寂れた畑を耕していたのになぁとセシリアは思う。
(旦那様は、絶対にイモなんて食べたことないだろうなぁ……『これはなんだ?』って聞かれるかな?)
もぐもぐと口を動かすアルフォンスの様子が頭に浮かび、セシリアはふふ、と笑いが漏れる。
外では冷酷無慈悲なんて呼ばれているけれど、田舎料理が好きで、自分より年下の、実は可愛い旦那様。
その一面は、きっと自分しか知らない。
白い結婚ではあるものの、セシリアは優越感でいっぱいだった。
「セシリア様、今日は何だかご機嫌ですね?」
「えっ」
にやり、と笑ったのは、魚屋の店主である。彼女は、にまにましながら身を乗り出してくる。
「何かいいことでも? ……公爵様と」
「そっ、そ、そんなことないですが!」
思ったよりも大きな声が出てしまったし、声が裏返った。慌ててセシリアは口元を押さえたが、遅かっただろう。
さすが、商売人というべきか、店主たちは、その一挙一動を見逃さなかった。
「おやおやぁ、セシリア様、怪しいじゃないか」
「なんだ。公爵様と上手くやってんのか!」
(あと1か月と経たずに『白い結婚』を理由に離婚します……!)
そんなこと口が裂けても言えるわけがない。
セシリアは困った顔をしながら、お金を支払う。
イモ、ニンジン、ホウレンソウにブロッコリー。魚も数匹買ってしまった。
なんだか、今日は買い過ぎてしまった気がする。店主たちは、にっこりと笑ったまま『ありがとうございました!』と手を振っている。
この商売上手が!とセシリアは心の中で賞賛と毒を吐いた。
そうして、セシリアが籠を持ち直し、市場を後にしようとした時だった。
「セシリア、久々じゃないか」
声が聞こえた。セシリアの聞き覚えのあるものだった。
少し傲慢そうな、自信に満ち溢れた声色の主は。
「ユリウス卿、お久しゅうございます」
セシリアの前に立っていたのは、元婚約者のユリウス・フォーンであった。
確か、今日は地方の男爵家の集まりがあるらしい、とマリーが言っていた気がする。それで王都に滞在しているのだろう。
ユリウスと会うのは1年ぶりくらいなのに、彼の見た目も態度も、夜会の日から何ひとつ変わっていなかった。もちろん、悪い意味で、である。
変わったことがあるとすれば、彼の横に恋人であるアリアがいないことだろう。
セシリアが、それを疑問に思っていると勘付いたのだろうか。先手を打つようにユリウスは言った。
「あの女とは別れた! 振ってやったんだこっちから!」
「あー……」
振られたんだな、とセシリアは察した。
ユリウスは見てくれは悪くないし、婚約している時から、そこそこモテた。その分性格に圧倒的に難ありなせいで、まあ、お察しである。
だが、それを深く突っ込むほど、セシリアも野暮な人間ではない。
「たまたまそこを通りかかったら、お前の声が聞こえてな」
「そうですか」
ユリウスとは対照的に、セシリアの表情は暗い。できれば、こんな市場で目立ちたくないのである。
噂好きの王都の人間は、すぐに彼がユリウス・フォーンだと気が付くだろう。それならば、相手は一体……?と次はセシリアが注目を浴びてしまう。
セシリアは、フードを深く被りなおした。
「お前が殺されていないようで安心したよ。セシリア」
「はい?」
唐突な彼の言葉に、セシリアは首を傾げた。
「契約結婚なんだろう? だって、公爵とお前に繋がりなんてなかっただろうが」
そう言って、ユリウスは右手を差し出す。
「お前は顔が可愛いから。きっと社交界に戻ってくればさぞ映えるだろう。綺麗なドレスを買ってやる。持参金もたっぷり用意しよう」
「…………」
「公爵は、冷酷無慈悲だと聞く。離婚歴は気にしないぞ。なあ、俺のところに戻ってこないか?」
注目されていないとはいえ、公衆の面前で人妻を口説く神経が分からなかった。
きっと、ユリウスの中でセシリアは『惨めな貧乏伯爵令嬢』のまま、時が止まっているのだろう。愚かな人間だ、とセシリアは思う。
でも、そんなことよりも。
「……旦那様は、冷酷無慈悲ではありません」
自分が舐められていることよりも、ずっと。馬鹿にされることよりも、ずっと、ずっと、ずっと。
アルフォンスを悪く言われたことに腹が立った。
(私が、公爵様の何を知っているっていうの。11か月間、まともに会ったことすら無かったくせに)
たった数週間だけ。セシリアの作った料理を分け合っただけの仲である。
アルフォンスからすれば、セシリアの弁明なんて不要だろうと思う。それでも、セシリアは負けるわけにはいかない。
「盗賊を差し向けて、家族を皆殺しにした男だ。お前も殺され────」
「うるさい!」
「……!?」
甘い、と言われればそれまでかもしれない。お人好しだ、と笑われるかもしれない。何様のつもりだ、と怒られるかもしれない。
それでも、セシリアは自分の中に芽生えたこの思いを目の前の男にぶつけたかった。
「───旦那様は、とっても優しくて、とっても強い、素敵な方ですから! 貴方なんかよりもずっと!ずうっと!」
その大声とともに、フードが靡き、いつの間にかセシリアの艶やかな水色の髪が露わになる。それに伴って、周囲の人間が騒めきだす。
ああ、しまった、とセシリアは思う。
目立つつもりは無かったのに。
セシリアは、なるべく優雅に一礼をして、ユリウスの目を見つめる。強く、強く、まるでアルフォンスの瞳のように。ユリウスの瞳を射抜いた。
「ユリウス卿、先ほどはご冗談が少し過ぎたのではないでしょうか」
「……!」
ユリウスという男は、そこでやっと自分の立場に気が付いたらしい。びくり、と肩を跳ね上げ、その場で固まってしまった。
セシリアは大きく息を吸う。そして、なるべく凛とした声で言った。
「貴方は、男爵の令息。私は公爵夫人です。お忘れなきよう。それでは、失礼いたします」
アルフォンスの顔に泥を塗らないように。素敵な奥方を迎えましたね、と言ってもらえるように。
仮にそれがあと一か月間のことだとしても、彼に迷惑はかけられない。
最後に、小声でささやく。
「警告はいたしました。それでは」
手に籠を持ったまま、セシリアはその場を後にした。
市場のおばさまとおじさまは、『セシリア様、かっこいい!』と叫んでいる。周囲の人々も、セシリアを見直したかのような目で見つめてくる。
けれど。
(やめて、お願い。私、全然かっこよくなんてなかった……!)
セシリアの瞳からは、うっかりすれば涙が零れてしまいそうだった。
悔しかった。
自分がアルフォンスのことを知らないばかりに、ろくな反論もできなかったことが。
もっと、ユリウスに言い返したかった。アルフォンスの素敵なところをひとつずつ挙げて、納得させたかった。周囲に知らしめたかった。
(旦那様は、こんなにすごい人なんだって)
セシリアはフードを被り直して、早足で立ち去る。護衛もつけずに、一人で抜け出してきたのだ。昼間だし、王都は治安も良いとはいえ、あまりに目立ち過ぎた。
早めに帰るに越したことはない。
と、ほぼ走るような恰好のセシリアの目の前に、黒いものが立ちふさがる。
「う……わ、失礼いたしました……?」
ぶつかりそうになって慌てて立ち止まる。よく見れば、それは黒い軍服だった。
そう。いつも見ている騎士団のものである。なんだか嫌な予感がセシリアの頭をよぎった。
(そうよ。そうそう。こんなちょうどいいタイミングで旦那様が現れるわけないじゃない!)
だが、事実は小説よりも奇なりとは、このことだろう。
セシリアが見上げれば────それはもう、凄い顔をしたアルフォンスがいた。
「……おま、え」
羞恥と、嬉しさ、困惑をごちゃ混ぜにしたような不思議な表情だった。その表情にセシリアは見覚えがあった。
弟の剣術大会にてセシリアが大声で応援した時、あるいは、妹のくれたプレゼントを領民に自慢して回った時、その時の彼らの表情といったら。
「だ、旦那様……」
「お、ま、え、はっ!」
肩を掴まれる。そして、目線を合わせるために彼は少しかがみ、ぐっと顔を近づける。
彼の赤く染まった頬が、さらに赤くなる。
「お、俺のために、ああいう危険な真似をする必要はない!」
怒られている、のだろうか。
心配されている、のだろうか。
なんで、そんな表情をするのだろうか。
セシリアも困惑して、言葉を紡ぐことができない。二人の間に沈黙が落ちた。
行き交う人々の騒めきだけが、二人の空間を満たす。
「い、言い方が……悪かった」
先に口を開いたのは、アルフォンスだった。そう言って、彼は息を吐く。
そして、何か重大なことを言うみたいに、口をもごもごとさせながら、アルフォンスは言葉を紡ぐ。
「……ありがとう。君が、庇ってくれて、嬉しかった」
その言葉に驚いたのは、セシリアだけではない。周囲の行き交う人々もだった。
『あのアルフォンス・グレイブが礼を言っている。しかも、お飾りだと噂の妻に』と。
セシリアは、これ以上目立つのは御免こうむりたかった。
「旦那様、もうお仕事は終わりなのですか」
「まあ、このまま直帰しても問題はないが」
放っておくと勝手に仕事をする彼のことだ。一旦、騎士団本部になんて戻らせるわけにはいかない。……というのは、セシリアの言い訳かもしれない。
「じゃあ、帰りましょうか。家に」
セシリアとアルフォンスは、並んで歩いた。今更隠しても仕方がないから、もう、フードは取った。
だから、視界の斜め上には、アルフォンスの金髪がちらちらと映る。
(どうして?)
セシリアは、街ゆく人を見ながら考える。
どうして、この人は優しくするのだろう。
どうして、自分は彼のことを庇いたくなってしまうのだろう。
家に着くまで、ついぞ、その答えは出なかった。
◇
「……これはなんだ」
「これは、野菜で作ったポトフですね」
「こっちは、ニンジンだろう? この野菜は?」
「イモです」
「イモ」
彼は、外国語を発音するかのようにぎこちなくそう言った。
(ほら、やっぱり知らなかった!)
セシリアは自分の予想が当たっていた、と得意げに笑った。
「ポテト、と言えばわかりますか」
「ああ、付け合わせで食べたことがあるな。マッシュポテトは」
「ずいぶんお上品なもの召し上がりますね」
マッシュポテトなんて、大家族は作っていられない。作るにしても、フォークで雑に潰した『なんちゃってポテトサラダ』くらいである。それでも面倒なのに。
「それでは、いただきます!」
いつものように日付が変わる頃、アルフォンスとセシリアは居間に集合する。夕食は別々に摂るくせに、夜食だけ一緒に食べるなんて変な関係だな、とつくづくセシリアは思う。
「ポトフなんて、初めて食べるんだが。見た目は……ただ煮ただけだな」
今回つくったのは、ポトフである。魚は使いきれそうになかったため、コック長に献上しておいた。大変喜ばれた。
「なあ、この材料で、一人で外出する必要があったのか」
アルフォンスは、少し呆れたように言った。
ポトフの中身は、イモ、ニンジン、タマネギと、夕食で余ったソーセージである。
「本来はわざわざ食材を外に買いに行くような料理でもないんですが、市場に向かうのが楽しくてつい……すみません」
彼が怒るのは、当然のことである。
公爵夫人ともあろう人間が、こっそり屋敷を抜け出すなんてとんでもない。護衛とは言わないが、せめて、一人は付き添いの者を付ける必要があるだろう。
「別に怒ってない。王都は治安も良い。昼間であれば、一人歩きも問題ない。そのために、騎士団が巡回をしているんだからな」
「はい……」
「まあ、けど、なんだ。今度からは一応、俺に言うように」
「すみません……」
セシリアが申し訳なさそうな顔をすれば、アルフォンスは少々考えるような素振りを見せる。
しばらくして、お前は、と彼は言った。
「……ずっと思っていたが、俺に対して、普通に話しかけてくるな」
「……!」
セシリアは背筋を伸ばした。確かに、セシリアの口調は親しい間柄のそれである。
なんで今まで気が付かなかったのだろう。『白い結婚』であるからこそ、上下関係はきちんと示しておかないといけないのに。
「数々の無礼、大変失礼いたしました!」
「いや、そういうことじゃなく……!」
どうやら違うらしい。セシリアは肩の力を抜いた。
アルフォンスはカトラリーを置いて、話し出す。
「先ほどの件だ。元婚約者に言われたのだろう。『家族を殺した男の妻になるなんて』と」
「……えっ」
その言葉は聞こえるはずもない。だって、周囲は騒がしかったし、ユリウスの声もセシリアに聞こえる程度であった。
近くにアルフォンスもいなかったはずだ。
「元婚約者の言いそうなことは分かる。ただの推測だ」
「なるほど、その通りです」
セシリアは納得したように頷く。
「それを聞いてもなお……というか、噂だから、そもそも知っていたかもしれないが。お前は俺を庇うし、俺に普通に話しかけてくる。なんでだ」
「ごめんなさい。旦那様のことを分かったように……」
セシリアは、やはり責められているのだろうかと思った。たった数週間で自分のことを知った気になるな、という気持ちは、本当にその通りだと思う。
「ああもう、だから違う! お前は、俺が怖くないのか、と聞いているんだ。……家族を殺したと言われている男とこうやって食事を食べて、会話することが」
彼の意図が読めない。でも、悪意は感じられない。
それならば、取り繕わずに素直に答えるのが礼儀だろう。
「……怖いですよ。遠征も終わったというのに、なぜかいっつも血で汚れていますし」
今日の軍服の襟元にも誰かの血が付着していた。
だが、それももう慣れた。
「……家族を殺したって知っているんだろ」
「それ、噂でしょう?」
セシリアは笑った。
「私は、私の料理を美味しそうに食べてくれる人は、絶対いい人だって信じてるんです。多分、貴方は、無意味に他人を殺す人ではないから」
思い出されるのは、熱で浮かされた時の彼の言葉たちだ。
アルフォンスが覚えているかは分からないが、あの表情は嘘をついている人間の顔ではなかった。
これでも、アルフォンスよりも二歳長く生きている、伯爵家の苦労人長女である。相手に悪意があるかないかくらいは、わかるつもりだ。
それに、とセシリアは続ける。
「……私は、自分が直接見たものしか信じないって決めてるんです」
「そうか」
表情を変えないまま、アルフォンスはイモを口に入れる。無言のまま咀嚼し、そして、また次の食材を口に入れる。
皿の中を空にしたアルフォンスは、ごちそうさまの代わりにこう言った。
「お前と結婚する人間は、幸せだろうな」
それがどういう意味も持つのか、セシリアは尋ねることができなかった。ただ、なぜか少しだけ、胸がざわざわと嫌な音を立てた。
「ポトフ、美味かった」
彼は立ち上がり、美味しかったと言う。それはいつものことのはずなのに。
彼がセシリアに向ける目線は、いつもよりずっと優しい気がした。
「おやすみなさい。旦那様、良い夢を」
彼がぐっすり眠れることを願ってそう言えば、エメラルドの瞳が少しだけ動揺したように揺れた。
みんなは知らない彼の顔を知っていることが、やっぱり少しだけ嬉しかった。