03 トマトリゾットと甘えん坊の旦那様
アルフォンスにセシリアが夜食を作り始めてから、一週間が経っただろうか。
遠征が終わった彼だが、相変わらず忙しそうである。
早朝から出ていったかと思うと、戻ってくるのは深夜。そして、一緒に居間で、夜食を食べ、彼は寝室へ。
普通の人間ならば、いつ倒れてもおかしくない生活である、とセシリアは思っていた。
そして、その日。
朝から屋敷が騒がしかった。
「どうされたんですか」
セシリアが話しかけたのは、メイドのマリーだった。彼女はセシリアと歳が近く仲が良かった。
彼女はシーツを抱えたまま、眉を下げて言った。
「公爵様が、熱を出されて……」
(アルフォンス・グレイブも熱を出すのか……)
セシリアは驚きのあまり固まってしまった。
けれども、しばしして、彼女はアルフォンスも人間であることを思い出した。ならば、当然である。
どう考えても、彼の生活は、人間のそれではない。
「食欲もないようで、コック長の料理も召し上がられなくて」
「あぁ……」
アルフォンスの雇っているコック長は、有名レストランを経営するこだわりの強い料理人である。いつでも食事を頼めば、フルコースで提供される。
高級食材を使った驚くほど美味しい料理なのだが、ふと素朴な料理が恋しくなる。
セシリアが夜な夜な料理に明け暮れる理由の一つでもあった。
「まあ、それは食べたくならないですよね」
「はい、全くです……」
マリーも同意見なのか、複雑そうな顔をした。
「あの、私、台所をお借りしても良いですか」
「コック長は外に出られてるので大丈夫だと思いますよ」
マリーはトントンとセシリアの肩を叩くとウインクした。
「いつもの、ですか、奥様」
「そう、いつものよ、マリー」
暗号を伝えるかのように視線が交わる。
夜食を作ることを知っているのも、また、マリーだけであった。
◇
「旦那様、おはようございます」
「……お前か」
驚いたことに、アルフォンスはベッドではなく、ソファに腰掛けて書類に目を通していた。顔は少し赤く、目も充血している。
こんな時まで仕事をすることはないだろう。
「お前の帳簿、見させてもらった。別に、仕事なんてしなくてもいいと言っただろう」
彼が見ていたのは、彼の不在中にセシリアが付けた屋敷の帳簿である。とはいっても、執事と家令にチェックしてもらいながら、独学で付けたのだが。
「あの、あまり、見ないでください。独学で付けたものなので……」
「は、これ、独学なのか」
驚いたように、アルフォンスが言う。
「お前はもったいないな。頭が良いのに。学校には通わないのか?」
その言葉にセシリアはぐっと詰まった。
セシリアだって、学校に通いたいと思ったことは幾度となくある。だが、自分の家のことで奔走しているうちに、すっかり大人になってしまった。
両親は、好きに生きろというけれど、そういう訳にもいかない。それが、長女だ。
(頭がいいのに、なんて……)
けれど、アルフォンスに褒められると、少しだけ嬉しい気持ちになる。心がぽかぽかとして、頬が緩んでいく。
じんわりと染みていく言葉を噛みしめていたセシリアは、ハッとした。
彼女がここに来たのは、別に彼から褒めてもらうためではない。
彼に告げる。
「もう、ベッドに横になった方がよろしいのではないですか」
「は? 別に大丈夫だこれくらい。そもそも、俺はベッドで寝たことがない」
衝撃だった。ベッド以外どこで寝るというのか。
口をあんぐりと開けたまま、セシリアは彼に問うた。
「は! 普段はどこで寝てらっしゃるんですか」
「大体は、椅子で仮眠だ。寝ないこともある」
セシリアは呆れた。公爵ともあろう人間が、自身の健康管理もできなくてどうするのか。
いつもとは違い、柔らかい素材のシャツを纏っている彼は、少しだけ幼く見える。
セシリアは彼を引っ張った。熱があるからなのか、特に抵抗されることもなく、ベッドに座らせることができた。
「いいですか。健康は十分な睡眠と食事からです。ベッドで寝ないとご飯抜きですよ」
「子ども扱いか」
「ご、は、ん、抜きですよ」
「…………」
不服そうな顔をしながらも、アルフォンスはベッドに潜り込んだ。
そして、セシリアの持っている皿をじっと見つめた。結局、食欲には勝てなかったということだろう。
「トマトの匂いがする」
「ええ、今日はトマトリゾットです。ちょっとだけチーズも入れました」
「……そうか」
アルフォンスの目は宝石のように輝いている。もっと美味しいものなんて世の中に沢山転がっているだろうに、セシリアの手料理を求めてくるのは、むず痒い。
しかし、同時に嬉しくもあるのだ。彼を見ていると、領地に残してきた下の子たちを思い出す。……なんて言ったら、怒られるだろうが。
セシリアは、リゾットをひと掬いして、ふーっと息を吹きかけた。そして、それを差し出した。
「どうぞ」
しかし、いつまで経っても、そのリゾットは食べられない。
セシリアがアルフォンスを見れば、彼は、顔を真っ赤にして、こちらのことを睨みつけていた。
「……こ、子ども扱いか」
彼がそう言った瞬間、セシリアは自分がとんでもないことをしていることに気が付いた。
彼は決して、セシリアの弟ではない。公爵家当主、アルフォンス・グレイブ様である。
「はっ、失礼いたしました……!」
「いや、いい」
彼は、サラサラと流れる金色の髪を耳に掛けた。
相変わらず、セシリアから目線は逸らしたまま。
スプーンにかぷり、と食らいつく。そして、美味しそうに目を細めた。
「お前の料理は……ほっとする」
ぐらり、と心が動く音がした。
(不法侵入したご令嬢の気持ちが100分の1くらいわかった気がする……!)
セシリアは同じようにして、アルフォンスにスプーンを向けた。
二口目、三口目、四口目。彼は、ぱくぱくと食べ進めていく。
マリーの『食欲がない』と言った言葉が嘘かのようにトマトリゾットはあっという間に彼の口に吸い込まれていく。
「ああ、美味しかった」
お腹いっぱいになったからだろう。彼は横になって、目を閉じた。
ふさふさとしたまつ毛である。セシリアは、最近抜け始めている自分のまつ毛を思い、心の中で舌打ちをしておいた。
食べ終わったスプーンをリゾットの入っていた皿の中に入れる。彼も寝たことだし、食器を洗って自室で読書でもするか、とベッドサイドの椅子から立ち上がった。
すると、セシリアの手首がそっと掴まれた。
「……少しだけでいい、ここにいてくれ」
そんな言葉がセシリアに投げかけられた。とても、騎士団長から投げかけられたとは思わない、ずいぶんと、か細くて泣きそうな声だった。
(風邪の時って、無性に心細くなるものよね)
だから、セシリアは再び椅子に座った。
「何かお話しましょうか」
「俺は子どもじゃない!」
彼は咳き込んだ。そして、その後に、困ったような顔をして笑う。
「……寝るのが怖いんだ」
ぽつり、と彼はそう零した。
「笑えるだろう」
熱があるからなのだろうか。
彼の表情はどこか、寂し気な子どものように見える。
セシリアは、アルフォンスに少しだけ近寄って、その前髪を撫でた。
アルフォンスは、瞳をぱっちりと開いた後、いつもの悪い目つきに戻る。
「……子ども扱いか?」
「違います。旦那様扱い、でしょうか」
そう言うと、納得したのか彼は目を閉じた。
セシリアが撫で続けていると、彼はうわ言のように言った。
「……俺が寝ている間に、大切な人たちは死んだ」
「……!」
その言葉に、セシリアは息を飲んだ。
彼が言ったのは、貴族の間ではまことしやかにささやかれている、三年前の事件の話だろう、と思う。
彼が若くして当主になったのには、理由があった。
グレイブ家は、別荘に宿泊した際に強盗に押し入られた。
アルフォンス以外の家族────父、母、長男と使用人が全員殺された、という凄惨な事件は、田舎住まいのセシリアの耳にも入ってきていた。もちろん、『黒幕はアルフォンスである』という情報付きで。
その事件の後、彼は14歳で当主になった。
アルフォンスは、そこで押し黙ってしまった。
大切な人とは、家族のことだ、というわけでもなく。やったのは自分じゃないと弁明するわけでもなく。
ただ、悪夢に苦しんだ際の寝言を零すかのように、そう言っただけだ。
彼ならば演技の一つくらいできそうだが、その可能性は切り捨てた。
(だって、『白い結婚』の私に嘘を吐く必要なんてないもの)
セシリアには、彼の良い噂を広めるための人脈も、人を従わせる権力も無い。だからこそ、彼は心のうちを少しだけ吐露してくれたのかもしれないが。
「大丈夫です。貴方がもし目覚めたら、また何か作って持ってきます。だから、今は……ゆっくりとおやすみください」
彼は、何も言わずにセシリアの手を取った。そして、それを自身の頬に摺り寄せた。アルフォンスは、気持ちよさそうに目を瞑る。
(えっ、えっ、これは……)
セシリアは驚きのあまり声が出なかった。子ども、というよりもはや猫だった。人肌を確かめるようなその行動に、セシリアは何とも言えない気持ちになった。
同情するわけではない。それでも、彼の手を振り払うことはできなかった。
それから、しばらく経ってだろうか。
(え、寝てる……!)
すうすうと、寝息を立てて。
いつもは不機嫌そうな彼が、気持ちよさそうに寝始めた。
17歳なのに、セシリアよりもずっと大人に見える彼は、もしかすると『大人にならざるを得なかった』だけのかもしれない。
「ずっと苦しかったんですね。もう少しだけ、貴方のことを早く知りたかったです。旦那様」
そう言って、彼の前髪をゆっくりと撫でる。
本人が起きている時には、口が裂けても言えないその言葉は、アルフォンスの寝室に吸い込まれていった。