第500話 いざエルメルへ
風が冷たい。
ラスタの拠点から少し離れた高台、誰も来ないこの場所が、最近の俺のお気に入りになっていた。
焚き火の匂い、仲間たちの談笑、剣を打つ音、誰かのいびき。全部、嫌いなわけじゃない。
むしろ、俺はあの喧騒に助けられている。
――ただ、時々一歩、距離を置かないと呼吸が浅くなる。前々からそうだ。
頭の中が熱を持ちすぎるから、こうして夜風に冷やしてやる時間がいる。
空は曇り。月の輪郭が、ぼんやりと雲の向こうに浮かんでいた。見慣れた夜空のはずなのに、今夜は少し違って見える。
「・・・やはりこちらにいらしたのですね、姜芽様」
背後から声がして、振り向かずとも誰かわかった。キョウラだ。
「火のない場所にいらっしゃると、風邪をひかれますよ」
「俺が風邪ひくと思うか?」
「・・・思いません。ですが、おひとりでいらっしゃるときのご様子は、少し・・・気がかりで」
隣に立ったキョウラは、腰を下ろさず、俺と並んで夜空を仰いだ。そういう距離感の取り方を、彼女はよく知っている。
入り込みすぎず、離れすぎず。
「明日が近いと思うと、眠れないだけだ」
「・・・私もです。今回の旅は、なんだか嫌な感じがします。国そのものが、冷たく閉ざされているような・・・」
「わかる。言葉にできないけど、妙な重さがある」
今までにも、いろいろな意味で変わった国はいくつもあった。けど、今回はそれらとも少し違う。
名前も知らぬ何かが、喉元に引っかかっているような感覚。
「・・・でも、私は行きます。姜芽様、そしてお母様と共にあるなら、どこであろうと」
「・・・キョウラ」
「はい」
「それは・・・どういう意味だ?」
「文字どおりの意味です。私の命は、姜芽様のお役に立つためにあります。・・・それは、ひとつの誓いでもありますし、私の願いでもあります」
彼女の声は静かで、それでいて決意に満ちていた。
「恋とか、愛とか・・・そのようなことを申し上げるつもりはありません。ただ・・・私は、姜芽様の刃が前を向いている限り、その背中をお守りしたいんです」
心のどこかが、じわりと温かくなるのを感じた。
俺は――今まで、誰かのために戦ったことがあったか?
誰かが俺のためにここまで言葉をくれたことが、あったか?
いや、なかった。
だからだろうか。こんなにも重くて、優しくて、苦しい。
「・・・俺も、そうなのかもな」
「・・・え?」
「俺も、誰かのために生きてみたいって思った。今、そう思ったんだ」
無意識に口を突いて出た言葉だった。でも、それが本音だった。
キョウラは少しだけ目を見開いて、それから、ゆっくりと微笑んだ。
「・・・それなら、嬉しいです」
彼女はもう何も言わなかった。
でも、その笑顔が何より雄弁に語っていた。
俺は空を見上げた。
雲が流れ、月が顔を覗かせる。
光は弱いが、確かにそこにある。
明日が、来る。
また戦いが始まる。でも、俺は一人じゃない。――隣には、信じられる仲間がいる。
朝は、いつもより静かだった。
焚き火の名残を踏みしめ、移動式の拠点――ラスタの扉を開ける。冷えた空気が中に流れ込み、誰かがくしゃみをした。
「寒いよ、姜芽」
リアンナの声だ。寝ぼけた口調で目を擦りながらも、目だけは鋭い。
反射的に謝りそうになったが、やめた。
「そろそろ動かす。エルメルまで、今日明日で入る」
輝の短いお告げを聞き、扉を閉める。
拠点の床下、振動を伝える魔導機構の音が微かに響いていた。
こいつは生きてる。まるでそう言っているみたいだった。
俺たちの拠点ことラスタは、いわば動く家だ。車輪のない馬車、あるいは巨大な装甲箱。
ステルス化する透明魔法と浮遊魔法がかかっているので、どこへでも移動できるし、どこでも姿を消せる。
輝が設計し、俺たちみんなで組み立てたものだ。
でも、こいつに命を与えているのは、俺たちの旅そのもの。だから、止まることはできない。
さて、今日向かうのは、ラーディーの西。エルメルとの国境沿いだ。
国境線は今のところ静かだが、空気には張りつめたものがある。エルメル――この名を聞くたびに、妙な胸騒ぎがするのはなぜだろう。
キョウラが昨日言っていたことが、ふと頭をよぎる。
「国そのものが、冷たく閉ざされているような・・・」
今までに見てきたどんな国とも、確かに違う。
俺は目を伏せて、ラスタの外壁に手を置いた。金属の冷たさが、まだ熱の残る手のひらに伝わってくる。
――冷たい。でも、前に進むしかない。
祈祷師の国、エルメル。
そこには、俺たちの進む理由がある。
そして、たぶん。
まだ名も知らぬ「何か」が、俺たちを待っている。




