第480.5話 亜李華と危ない奴
拠点の片隅。
亜李華は悲しげに顔を伏せて項垂れていた。
その向かいには、静かに座る龍神の姿。
今、彼女が彼の悩みを聞いている――わけではない。
むしろ、自分の悩みを聞いてもらおうとしていた。
「・・・私、もうどうしたらいいか・・・」
「どうしたんだ? 一体」
かつて二人きりの会話で、亜李華は龍神の正体を知り、彼の謝罪の言葉を聞いた。
それ以来、少しずつ彼に心を開くようになっていた。
こうして悩みを打ち明けたのも、その証なのだろう。
「実は、私・・・」
――その後、話を聞いた龍神は目を見開き、驚きの声を上げた。
「・・・そりゃ、大変だな」
数十分前、亜李華は本を読みながらアーモンドを食べていた。
片手でページをめくり、もう一方の手でアーモンドを口に運ぶという、少々行儀の悪い姿勢で。
思えば、それがすべての始まりだった。
皿の中身を見ずに手を伸ばしていた彼女は、ある時アーモンドではない何かを掴んでしまった。
それをそのまま口に入れた瞬間――ガチッ、という固い感触が歯に伝わった。
驚いた拍子に、それをそのまま飲み込んでしまった。
最初は「何か混じってたのかも」程度に思っていたが、すぐ後にレナス――育ての親であるマスカーが現れ、こう尋ねてきた。
「この辺りで、ルビーを見なかったか? 指輪から外れてしまってな。たぶん、この辺にあるはずなんだが・・・」
その言葉で、亜李華はハッとする。
――さっき飲み込んだの、あれってもしかして・・・。
動揺の中、たまたま目の前に現れたのが龍神だった。
「ああ・・・どうしましょう。レナスに何て言えば・・・ううっ・・・」
顔を覆ってうめく亜李華に、龍神は澄ました顔で言った。
「それなら、俺が取ってこよう!」
「・・・え?」
なんと彼は、自らの体を魔法で縮め、亜李華の体内に入ってルビーを探すというのだ。
一瞬、生理的な嫌悪感が亜李華を襲う。だが、その気持ちはすぐに吹き飛ばされた。
龍神はこう続けたのだ。
「それが嫌なら、もう一つ方法がある。君の体を輪切りにして宝石を取り出す。そのあと、くっつけ直す。それでいいか?」
あまりに恐ろしい提案に、亜李華は思わず震えた。
けれど、彼に「他に方法はない」と言われ、ついに覚悟を決める。
「・・・お願いします」
「よし、それじゃあ行くぞ」
龍神は縮小魔法を唱え、ビー玉ほどの大きさまで小さくなった。
亜李華はそっと彼を手に取り、しばし躊躇する。
――嫌だ、やっぱり無理・・・。
そんな思いが胸をよぎるが、それでも「今やらなければ」と心を決める。
目を閉じ、彼を口に運び、飲み込んだ――。
喉を通る感覚は、思った以上にリアルだった。
亜李華の体温と湿り気に包まれながら、狭い食道をゆっくりと滑り落ちていく。
(こ、この感覚・・・っ!)
彼の顔は、一瞬で朱に染まった。
この状況、まさに「丸呑み」。
それも、なかなかに好スタイルの異性である亜李華に、自らの意思で飲み込まれるという、至高のシチュエーション。
(ああ・・・これは・・・これは・・・!)
普段は冷徹な彼は、今ばかりは完全に己の性癖に呑まれていた。
実は、龍神は異性の体そのものには興味がなく、代わりに「丸呑み」「消化」「吸収」されることに興奮する、という特殊な性癖を持っているのだ。
ぬるり、ぐぐっと動く喉の内壁。
包み込まれる圧迫感。
ごくん、ごくんという音。
生き物としての鼓動、体内の音が響く。
(最高か・・・最高なのか、これは・・・)
だが、彼がただの変態で終わらないのは、こうした状況でも本来の目的を忘れていないことだった。
胃の中に到達すると、龍神はすぐに感知の術を展開した。
――ルビーは、そこにあった。
小さな光を放つ宝石が、胃液の中でわずかに輝いている。
「よし・・・任務開始っと」
まるでテーマパークのアトラクションのように、この異様な状況を楽しみながらも、彼は真面目に仕事に取りかかる。
これは、あくまでも任務なのだ。特殊性癖を大いに満たされるとはいえ、目標回収の義務がある。
(・・・とはいえ、長居は禁物か。あんまりいろいろ見てたら、色々バレる・・・)
彼とて、自身の特殊な性癖を人に暴露しても平気なほど、図太くはない。
その一方で、亜李華の方はといえば――
「・・・ぅぅ・・・変な感じ・・・」
口にしたものが生きている、という事実は想像以上に気持ち悪く、胃の中を動く微かな感覚に背筋がゾワッとした。
「だ、大丈夫なのよね・・・?本当に・・・?」
彼女が、心配と嫌悪の板挟みで苦悩しているとはつゆ知らず、龍神はルビーを無事回収し、魔法の力でゆっくりと浮上を始めた。
(・・・さて、出る前にこの温もりを味わっておこうか)
周囲に満ちる液体に肩まで浸り、その温かさと香りをたっぷり味わう。
それはまるで、温泉に入っているかのように。
(ああ・・・これが亜李華の、女の子の温もりか。このまま、奥まで流れていけたらなあ・・・)
幼い頃より憧れてきた状況が、ついに実現した。
その喜びに、彼は思わず震えた。
だが、そんな内心の悦びが声ににじんでしまったのは、完全な失敗だった。
「亜李華・・・すげえあったかかい・・・」
「・・・えっ?」
彼女は一瞬で察した。
声の調子、含み、間・・・。
腹に手を当て、彼に語りかける。
「ちょっとあなた・・・まさか、変な意味で喜んでないでしょうね!?」
「え?い、いや違う!別にそういうわけでは・・・」
「・・・っ」
「・・・ん?亜李華?ん、くはっ!?ぐはっ!」
亜李華は急いで水を飲み、咳き込みながら彼を吐き出した。
ゴボッと出てきた小さな龍神は、びしょ濡れのまま、地面に転がった。
「・・・!?な、なんで・・・」
彼女は彼を睨みつけ、目を見開いて叫んだ。
「このおっ・・・変態っ!!」
容赦ない罵声が、拠点の片隅に響き渡った。
――そして、次の瞬間。
亜李華は無言でルビーをひったくるように受け取り、怒りを湛えたまま踵を返す。
龍神はというと、地面に転がりながら、小さな声で呟いた。
「・・・はあ。でもまあ、なかなかいい思い出だった・・・何だったら、いっそあのまま・・・」
彼の持つ特殊な性癖は、おそらく理解されることはそうないだろう。
もっとも、実はそれは彼に限ったことではなく、大半の殺人者に当てはまることなのだが。
――だが、それでも龍神は、笑った。
「ま、これも人生ってやつか・・・」
縮小魔法を解いて元の大きさに戻ると、彼は衣服を乾かしながら静かに呟く。
体はまだぬめっていたが、心の奥は奇妙な満足感で満たされていた。
一方、亜李華は怒りに満ちた顔で拠点の廊下を歩いていた。
(な、なんなのよあの人・・・っ!)
ルビーを握りしめる指に力がこもる。口の中にあの感触が残っている気がして、吐き気すら覚える。だが、それ以上に自分の“鈍さ”に腹が立っていた。
(まさか、あんな性癖があったなんて・・・少しでも気を許したのがバカみたい)
怒りと羞恥、そしてほんのわずかな罪悪感――「協力してくれたのに、怒鳴りすぎたかもしれない」という思いが胸の奥に沈んでいた。
(・・・でも、もう知らない。絶対距離置く)
だが、その決意は、夜になってあっけなく崩れる。
彼女が部屋に戻ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
『今日はありがとう。ルビーも無事でよかった。怒らせたのは悪かった。でも、君の中は本当に、あたたかかったよ。
P.S. もう一回くらい、入れてくれないか?今度は冗談抜きで、ちゃんと無害にするから』
あまりにふざけた内容に、亜李華は無言で紙を丸め、ごみ箱に放り込んだ。
(・・・やっぱり絶対距離置く)
そう強く思いながらも、頬が微かに赤くなっていることに、本人は気づいていなかった。
夜風が吹く静かな拠点の外。 龍神は一人、星空を見上げていた。
「・・・ま、拒絶されても、また頼られる日が来るさ」
彼は自分の性癖が異常であることを、誰よりも理解していた。だからこそ、それを笑い飛ばし、秘密にしながらも、今日の“出来事”を心の宝箱にしまっていたのだ。
そして、ぼそりとつぶやく。
「・・・次は、もっと気持ちよくしてあげたいな・・・いや、目的的な意味でな?」
空に浮かぶ星の一つが流れ、夜が更けていった。




