第344.5話 拠点会話・猶と沙紀
「…」
拠点にて、沙紀はピアノに向かっていた。
実は、彼女は元々ピアノが好きなのだ。
ここ数年間は、まともに演奏する機会がなかったが。
観衆はいない。
弾けるとは言っても、さほど上手いわけでもないので、沙紀はこれを人に見せようとはしない。
周りに誰もいない時に、1人で弾く。それが、沙紀のやり方なのだ。
しかし、今日に限ってはそうもいかなかった。
「ありゃ、沙紀?」
音を聞いて、猶がやってきたのだ。
「…あっ」
「そっか、お前ピアノ弾けたんだっけか」
「うん…一応ね」
「ゼノスにいた時も弾いてたよな…何回か。邪魔して悪かった、続けな」
「…」
沙紀は思うところはあったが、猶の言う通り演奏を続けた。
演奏が終わると、猶はすぐに口を開いた。
「今のは…『しじまの海』か?」
「そう。よくわかるね」
「俺だってピアノは割と好きだからな」
猶は、人間だった頃からピアノとサッカーが好きなのだ。
「あれ、そうなの?」
「言ってなかったっけ?まあこの世界に来てからは、弾く機会がとんと無くなったけどな」
ゼノスの本部にもピアノはあったが、当時の猶は「仕事」に熱心であり、演奏する機会はなかった。
組織を抜けた後も、楽器に触れる機会はなかなか無かった。殺人者であり、容易に社会参加ができない身である猶は、おのずと目立つ趣味をする機会も少ないのだ。
「あ、そういやあんたは白い人だったね。…私もしばらくまともに弾けてなかったよ。そもそも家もなかったし」
「ヤサに入った時は、楽器なんかよりもっと良いもの取りたいしな」
「だね…まあスミを片付けた後で触れるくらいは出来なくもないけど、私はやったことないな。正直そんな時間ないことが多いから」
「そうか?まあ要領良くないと難しいだろうし、言うて俺もやったことないしな」
『ヤサ』『スミ』とはどちらも殺人者の言葉で、前者は家、後者は住人を指す。
2人がしているのは、他人の家を襲って金品を巻き上げる強盗、賊としての会話だ。
猶は元より、沙紀も幾度となく民家に押し入ったことがある。
だが沙紀は猶が言った通り要領があまり良くないため、捕まりそうになったり捕まったこともそれなりにある。
彼女は腐っても殺人者なので、返り討ちにあったことはまずないが。
「要領…か。それが悩みなんだよね…」
「相変わらずしくじることあるのか?」
「しくじる…ってか、上手く立ち回れないっていうか。ヤサを漁ってモノを見つけるのに時間かかるし、ずらかるルートを考えるのにもちょっと手こずるのよ」
「それで、捕まると?」
「…必ずじゃないけど。殴られたり鞭で打たれたりで済むけどね」
「なんだ、前と変わってないじゃんか。でも失敗が命取りにならないだけマシだな」
沙紀と猶がかつて所属していた組織「ゼノス」は暗殺組織。任務が失敗すれば、どのような形であれ自らが命を失うリスクが一気に高くなる。
沙紀はそこで幾度となく失敗をし、その度に猶や他の殺人者に助けられてきた。
「本当にね。…あんたには、感謝してるよ。あんただけじゃない、今はもういない他のみんなにもね」
「そりゃな。同族だし、仲間だし」
殺人者は、本当の意味で同族以外と心を通わせることが困難である一方、同族同士であれば驚くほど早く、そして深い繋がりを持てるのだ。
「みんなと離れて、よくわかったよ。私は、やっぱり1人じゃまともに生きていけない。もちろん、普通に生きてくこともできない。5回目だったかな、失敗して、指先を爪の上から釘で打たれた時に、やっと思い知ったよ。それで思った。私は、やっぱりこの世界にいちゃいけない存在なんだって」
猶の眼光が鋭くなる。
そして、それに構わず沙紀は続ける。
「頼れる人もいないし、働きもできないし。生きてる意味がわかんなくなっちゃった。意味もわかんないのに、辛い思いばっかりして生きてくくらいなら…ってね」
「…それで?」
「でも、やっぱり生きたいって思った。そもそも異人になった時、決めたんだ…何があっても、どんなことをしてでも、最後まで生きるってね」
「…いい心がけだ。どんなことがあっても、自死は許されない」
殺人者系種族の心得として、「必ず最後まで生きよ」というものがあり、これは八勇者の1人にしてジルドックの建国者である反逆者ルーシュの言葉から来ている。
これは「どんなに苦しく辛くとも、決して自死をしてはならない」という意味でもある。
それ故、殺人者にとって自ら命を断つということはまさしく禁忌なのだ。
「わかってる。言うて今はこうして、安定した暮らしができてるわけだし。それに私はまだまだ若い。当分は頑張るよ…殺されるまでね」
「…そうだな。殺してるからには、殺されて当たり前だ。だが自分を大事にできない奴に、殺人者である資格はない。生まれてきたことを悔やみながら、必死で悪人になって生きる…それが、この世のレールを踏み外した俺たちにできる最大の償いだ」
「この世のレール…か。私はとうに外れてたんだろうな。できるなら、外れたくなかったけど。でも、それはきっとあんたも一緒だよね、猶」
「…ほう?」
「正直、人が苦しい、辛いって言いながら生きてる理由は私にはわからない。でもね、道を外れた奴が好き好んでそうなったわけじゃないってのは、わかる気がする。…猶。あんたの過去に、何があったのかは知らない。でも今を生きる者である以上、今を…これからをどうやって生きていくか、が大事だと思う」
「…」
猶は黙ってそれを聞いた。
「じゃ、そろそろ行くかな。…え?」
沙紀がピアノの椅子を降りると、代わりに猶が座った。
「『孤島の涙』…知ってるか?」
「え?あ、ああ…知ってる。何かの有名な演劇で使われたやつだよね?」
「そうだ。…なんか弾きたくなってな」
「えっ…?すごい!猶の演奏聞くのなんて初めてなんだけど!」
「そんなにあがることか?…まあゼノスでもほとんど弾いたことなかったし、仕方ないか」
「いいなあ…。『孤島の涙』か。あれ、その曲って確か…」
猶は鼻をこすり、咳払いをした。
「これは…なんだろな。一時の、気の迷いだ。ちょっとばかり面白い答えを聞けたからな」
そうして奏でられた曲。
それは演劇の終盤、人知れず故郷の島に迫る危機をしのぐために奮闘し、最後は1人で島を救って亡くなった友人に経緯を示し、主人公が奏でた曲。
転じて、言葉にならぬ悲しみ、あるいは感謝と称賛を奏でる曲。
沙紀は、その本当の意味はわからなかった。
しかし、この曲がきっと、自分に対する猶からの称賛であるということは理解できた。
その時、沙紀は久しぶりに、人間だった時の心に戻れた気がした。




