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背徳恋愛

作者: 鈴蹴

 良い恋愛をしたと思う。


 ちょうど3カ月前のことだった。俺は、ある女の人と出会った。某大手企業に勤めるやり手の営業マンである彼氏を持ち、自宅で病気の母親の介護をしながら文房具の販売店で働く女の人だった。


 はじめは、遊びのつもりだった。

 『遊び』などというと聞こえが悪いが、過去を未だ引きずる俺にとって、誰かに必要とされることを心が求めていたのかも知れない。それは、『生』に対する本能ではなく、『個』に執着する俺の依存心が焦りを生んでいたような気がする。そんなときに出会ったのが、彼女だった。


 彼女と俺は、まるで正反対だった。性格が…と言ってしまえばそれまでなのだが、それはそんな単純なものではなく、圧倒的な正反対だったのだ。思考が、センスが、意識が、圧倒的に俺と異なっていた。腐った、ハエが飛びたかるような緑色のネズミのキャラクターを『かわいい』と言い、ゾンビが街を闊歩するような映画を好み、俺には理解しかねる類の独特なファッションセンスを持つ、おおよそ俺とは無縁の世界を生きてきた女の人だった。


 そんな中で、さりげない共通点もあった。

 それは、周囲が心配になるほど自分に自信がない、ということだった。

 今思えば、互いに『個』を見失った者同士、惹かれるものがあったのかも知れない。


 彼女は、彼氏の独善的な支配に頭を抱えていた。仕事中も、夕飯の支度の最中も、睡眠中も彼氏からの着信が止むことなく、応じなければ後々、根掘り葉掘りその時の行動を尋ねられる。友達と遊んでいるときも、定期的に連絡を入れないと浮気をしているのではないかと勘繰られる。仕事に家事に母親の看病にと追われている彼女にとって、それは時にひどく苦痛だったそうだ。


 はじめは、遊びのつもりだった。

 しかし、幾度となく彼女と会話を重ねるうちに、彼女はよく喋る人間であることに気付いた。仕事中に見かけた可笑しな看板の話、スーパーで安売りをしていた食材の話、仕事で出会った風変わりなお客の話。他愛もない世間話なのだが、彼女は自らの思考を交え、時に面白おかしく話したかと思うと、時に掘り下げた考察を披露する。その全てが俺の思惑を超えており、初めは回り続ける彼女の口に呆れたものだが、いつしか彼女の話を聞くことが、俺にとっての大切な時間へと変わっていった。


 俺の中で、彼女に対する『遊び』という感情が『好意』に変わってゆくのに、そう時間はかからなかった。そして、彼女に対する『好意』に比例して、彼女の向こう側にいる彼氏の存在を、日に日に疎ましく感じるようになっていった。


 ある日、俺は意地悪な質問を彼女にぶつけてみた。それは、今思えば彼氏に対する嫉妬からくる俺の、ささやかな自己顕示だったのかも知れない。


『いつも色々話してくれるけどさ、彼氏とはそういう話をしないの?』


 はっきり、『聞いてくれるのはあなただけだよ。』という返事を意識していた。しかし、彼女から返ってきた言葉は、それとほぼ同意だが、まったく異質のものだった。彼女は一瞬目を伏せた後、寂しげな笑顔を向ける。


『話しても無駄だから。』


『ちゃんと話してみたら?もしかしたら興味を示すかも知れないし、笑うかも知れない。話す前から諦めてちゃダメだよ。』


 …自分で言っていて耳が痛かった。

 本心を押し込めて、愛想笑いばかり浮かべている自分の姿が、脳裏に情けなく映った。


『話したよ。何度も、何度も。でも、ダメなの。』


『どうしてダメだと?』


『この間ね、急に母の容体が悪化したの。あたしさ、パニックになっちゃって、病院に連れて行かなきゃって思って…。母を車に運んだところで、彼氏から電話が来たんだ。』


『それ、お母さんは大丈夫だったの?』


『うん。なんとか持ち直した。…普通は、そういう反応をするでしょ?でも、彼氏は『ふーん』で終わり。それで、自分の仕事の話を始めちゃった。』


『・・・』


『それでね、思ったの。この人はあたしの話なんてどうでもよくて、自分の話を聞いて、ある程度理解してくれる人が欲しいだけなんだって。』


『彼氏は彼氏で、たまたま忙しかったんじゃないかな?でなければ、とてもそんな反応を…』


『にこにこ笑って、はいはい聞いているだけなら、あたしじゃなくていいでしょ?でも、あたしは『会話』がしたいの。話したいこと、たくさんあって、一緒に笑ったり、一緒に悲しんだりしたいの。あたしは、ご機嫌取りの機械じゃないの。』


 穏やかに話す彼女の肩が、小さく震えているように見えた。泣いているのかと思い、彼女の顔を覗き込もうと考えたけれど、それは無粋であるような気がしたため、俺は視線を彼女の肩へと再び落とす。いたたまれない、重い空気。破ったのは、彼女の携帯電話の着信音だった。携帯電話を取り出し、ディスプレイに目を通した彼女は、俺の表情を窺うように伏せていた目をこちらへと向ける。


『出なくていいよ。』


 その着信が彼氏からのものであると、すぐに分かった。


『出なくていい。全部、俺が聞くよ。君の話は聞いていて飽きない。下らない話だろうと大変な話だろうと、思うまま話してよ。』


 彼女は携帯電話と俺を交互に眺めている。そうしているうちに、携帯電話の着信が止んだ。彼女はどこか申し訳なさそうに携帯電話をカバンへ仕舞いこむと、再び目を伏せた。


『たださ…』


『…ただ?』


 俺の言葉に呼応するかのように、彼女はおずおずと顔を上げた。


『気の利いた返事が出来るかどうかは分からないけどね。』


 俺は精一杯、笑ってみせた。何故だか分からないけれど、そうしなければいけないような気がしたからだ。 彼女は張り詰めていた心の糸が切れたのか、俺につられて微かに笑みを零した。


『あはは、別にそんなの期待してないよ。』


『なんか、それはそれで落ち込むなぁ。』


『ううん、聞いてくれるだけでいい。あたしが、あたしだってこと。』


 そう言うと、彼女は目を閉じた。そして、大きく息を吸い込むと、『ふう』と勢いよく吐き出した。再び開いた彼女の目は、まるで何かを決意したかのように光を取り戻し、俺の目を真っ直ぐに見つめていた。


 俺と彼女が深い関係になったのは、その夜だった。俺はそこで、彼女の腕から背中にかけて大きな刺青が入っているのを初めて知った。俺が今まで生きていた人生とは無縁のものであった『それ』は、恐ろしいというより、なぜかひどく艶めかしく感じられた。


『若い頃のアヤマチなんだけどね。今じゃ愛着がわいちゃってさ、今ではもう消す気にならないんだよね。』


 そう言うと、彼女は少女のように頬を赤らめ、照れ笑いを浮かべた。


『へー、こういうの間近で見るのって初めてだ。』


『あんまりマジマジ見ないでよ。恥ずかしいから。』


『いいじゃん。なんか、らしくてさ。』


 俺は刺青を縁取るように指先でなぞってみる。彼女が身体をくねらせるたびに、まるで『それ』は生きているかのように蠢いていた。神々しいというより禍々しい雰囲気をもつ『それ』は、やがて尾を俺の背中へと絡め、快楽の中に引きずり込んでいった。


 沈みゆく理性の中で、俺はアダムとイヴの話を思い出していた。神からかたく禁じられていた知恵の実を食したイヴは、それをアダムにも勧め、神の怒りを買った二人はエデンの園を追放されたという話。


 知恵の実が人間に『個』を与えたのだとしたら、この醜くも誇らしい感情もきっと知恵の実がもたらした俺の『個』なのだろう。ならば、彼女の腕に抱かれて互いの『個』を確かめ合うのもいい。きっと、アダムとイヴもエデンの園から追放されたとき、『二人である』ことにさぞ救われただろう。だって、誰かが抱きしめて形を作ってくれなきゃ、『生』を感じることはできても『個』をこれほど強く実感することはできないだろうから。


 『奪ってしまえ』と、『それ』が囁いたような気がした。

 今、ここでは誰の邪魔も入らない。俺の『個』を形作っているのが彼女で、彼女の『個』を形作っているのが俺。きっと、俺ならもっと上手に彼女の『個』を形作ることが出来る。そう思った。だから、性を覚えたばかりの少年のように何度も何度も彼女を求めた。


 その後は、しばらく何事もなかったかのように時間が過ぎて行った。互いに時間が擦れ違い、電話口で話すだけの日々が続いていた。それでも、あの日を境に彼女との距離はぐっと縮まったような気がしていた。お互い口にはしないだけで、気持ちは通いあっているものだと思っていた。


 自惚れていたのかも知れない。彼女の葛藤など知らずに。

 それは静かに、しかし確実に、すぐそばまで近づいていたというのに。


 ある日の彼女からの電話は、いつもと様子が違っていた。普段であれば夕食の献立の話だったり、変わったお客さんにおかしなことを言われたりという他愛のない会話を積み重ねてゆくのに、今日に限っては電話に応じた瞬間から、その向こうにいる彼女の周りを包む空気が重々しいことに気付いた。


『あのね、あたしね、そろそろハッキリさせなきゃいけないと思うの。』


 来るべき時が来た、そう思った。いつまでもこのままじゃいけない。それは俺にも分かっていた。

 きっと彼女は、俺を選んでくれると思っていた。しかし、ここにきて一番最初に浮かんだのは、なぜか罪悪感だった。誰に対してなのか、何に対してなのかも分からない。次にようやく、彼女を奪ってしまいたいという獣のような感情が噴き出す。二つの感情が胸の内で渦を巻き、ざわざわと体中を覆い尽くす。やがて、それは体から飛び出して、眼前で蛇のような生き物の形を作り出した。それは縦長の細い黒目を妖しく光らせ、俺の目を真っ直ぐに見つめていた。


『オマエハ、ドウシタインダ?』


 眼前の蛇のような生き物が、俺にそう問いかけているような気がした。

 はっと、俺は彼女と過ごしたあの夜を思い出す。俺はこの『生き物』を見ている。それは、彼女の腕から背中にかけて、鮮やかな緑色を湛えていたあの刺青と同じものだった。


 全てを、見透かされているような気がした。

 もっとも、自分自身も気付いていなかったことだから、このときは見透かされていることにすら気付かなかったのだが。


 『俺を選んでほしい』と、彼女に言うハズだった。だけど、眼前で二又に割れた舌をチロチロと揺らす蛇のような生き物が、その言葉を食べてしまったような気がする。本来であれば部屋の壁しか見えないはずの景色に佇むその『生き物』に気圧され、辛うじて出た言葉は、


『うん。彼氏ともよく話し合って決めるといいよ。』


 といったものだった。

 蛇のような生き物が、顔を歪めたような気がした。


 彼女からの電話を切り上げると、俺は部屋から逃げるように玄関の外へ飛び出した。朝から降っていた強い雨が、俺の頭と衣服を微かに濡らす。濡れてはかなわないと、慌てて玄関の庇の下へと飛び込み、俺は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。


 最初の一口が、とても苦く感じられた。ようやく落ち着きを取り戻した俺は、二口目の煙を吸い込みながら、彼女のこと。それから、先ほどの『生き物』について考えてみる。


 彼女と付き合うということは、どういうことだろう。

 彼女には今、彼氏がいる。仮に彼女がその彼氏を裏切って俺の腕の中へ飛び込んできたとして、俺は彼女を受け止めてやるだけの覚悟を持っていたのだろうか。


 覚悟が、あったか? 彼女を心から信じることが出来るか?


 あの、蛇のような生き物が言っていた言葉を、俺は急速に理解してゆく。覚悟はある、信頼している、そのつもりでいた。だが、決断を迫られるこの状況になったとき、俺はきっと、心のどこかで逃げようとしていたんじゃないか?なぜか浮かんだあの罪悪感は、彼氏から彼女を奪うことに対する罪悪感ではなく、俺と彼氏、二人の間で悩む彼女の姿を、俺は『不誠実』であると頭の片隅で蔑んでいたことに対する罪悪感だったのではないか?自らの行為も思惑も、棚に上げて。


 あの蛇のような生き物は、俺の覚悟のなさを見透していたのだ。


 …いや、見透かしていたのはあの『生き物』じゃない。あれはきっと、彼女の不安だったり、迷いだったり、そういったものが見せた幻だったんじゃないか?


 俺は、彼女の畏れから逃げたんだ。そう思うと、不意にやりきれなくなった。ばちばちと音を立てて玄関の庇に降り注ぐ雨がひどく鬱陶しかった。叫び出したいような、自らの心臓を握り潰してやりたいような気持ちを抑え込むように、俺は灰皿に煙草をぐいぐいと押しつけた。


 3日後。

 再び彼女からの電話に応じた俺は、既に腹を決めていた。

 不安とか、迷いとか、損得だとか、快楽だとか、そういったものに左右されっ放しの自分に、ほとほと嫌気が差していたんだ。難しく考えることはなかった。内に湧きあがるこの醜くも誇らしい感情を、ただ彼女にぶつければいいだけだったんだ。


『あのさ、俺と付き合って欲しい。』


 もう、蛇は見えない。


『あ、ありがとう…。』


 そう言うと、彼女は電話口の向こうで小さな嗚咽を漏らし始めた。俺は、彼女が落ち着きを取り戻し、次の言葉を紡ぐまで待った。それは、5分にも満たない時間だったのだが、俺には1時間にも、2時間にも感じられるほどの長い沈黙だった。心臓が爆発してしまいそうな緊張感の中、彼女がようやく口を開く。


『嬉しい、けど…ごめんね。』


『…うん。』


『あたしね、一人になろうと思うの。彼氏の所へはもう戻れないし、だからといってあなたに甘えているわけにもいかない。』


『…うん。』


『あなたは、優しい人だから、きっとあたしを受け入れてくれると思う。でもね、そう思えば思うほど怖いの。この間、ハッキリさせたいって言ったとき…なんかね、拒絶みたいなものをあなたから感じて、怖くなって…。』


『ごめん。』


 言葉が胸に突き刺さる。俺は確かに一度、拒絶するような態度を示した。それはもう、深い深い溝となって二人の間に横たわっているのが、目に見えるように感じられていた。


『あたしのほうこそ、ごめんね。』


 しばしの間、通話を切るのを惜しむような沈黙が流れた。

 やがて、互いにサヨナラを交わし合い、どちらからともなく通話を終えた。通話を終えた後、俺はしばらく茫然自失のまま部屋の壁をただただ眺めていた。


 電話を切って数時間後、彼女から最後のメールが届いた。

 そう長くない文面の中に『ありがとう』という言葉が7回も使われていた。


 熱くなる目頭の奥、脳裏にまた、アダムとイヴの話がよぎった。蛇は、イヴに知恵の実を食すことを勧めた悪魔の化身と言われている。蛇の誘惑の中、イヴはきっと迷っただろう。神にかたく禁じられている知恵の実を食すことを。それは、聖書の中で神に対する最も大きな背徳の行為とされているけれど、もしもイヴが知恵の実を食すことがなかったら、俺と彼女は裏切りと迷いの中で、手探りで愛し合うことも出来なかったのではないだろうか。だったら、神様には悪いけど、俺はちょっとだけ蛇に感謝しなくちゃならない。


 それに、蛇だってきっと、好きで悪魔の化身に選ばれたわけじゃない。

 そう思えば、蛇だってそんなに悪いものじゃないような気がしてきた。彼女が聞いたら、『罰当たりだね』なんて言いながら、大きな声で笑うだろう。でも、それでいいのだと思う。


 今度さ、外で蛇を見かけたら、言ってやるんだ。

 『俺も頑張るから、お前も頑張れよ』ってさ。


 俺も、頑張るから。



 久々の投稿です。

 もしよろしければご感想やご批判など、気軽に置いて行って下さい。

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