こころして
「駄目じゃないアンドリュー。あなたが一人で買い物なんて。行けっこないわ」
一人の少女が言う。草木生い茂る小道の途中、錆の目立ち始めたブリキ細工へ向けてだった。
「キャシイ ケれど からだガ ヨクナイ」
アンドリューと呼ばれたブリキ細工は、奇妙な調子で発声しつつ、その上方にある突起をクイと傾ける。二つの豆電球に、三日月のような文様。どうやら頭のつもりらしい。けれど少なくとも、その《声》が発せられているのはその無骨な胴体からだった。
「大丈夫よ、これくらい。これまでに何度もあったことなんだから」
口元を抑えて咳き込みながら、少女はフードを目深に被る。どこか周囲の目を気にしているようでもあった。そんな振る舞いとは裏腹に、周囲に人の影は無い。あるのは、林と草原と、そこから突き出した気持ちばかりの岩肌。少し行ったところでは、少女たちが住まう小さな山小屋がぽつんと留守番をしている。
「これにひっかかっていたのね、アンドリューったら」
転がっていた石ころを蹴り飛ばすと、空回りしていたキャタピラが低い声でうなりだした。
「こんなところでモタモタしてたんじゃ、町まで一体何日かかるのかしらね、アンドリュー」
「……ミミミ」
どこか気まずそうに機械音を軋ませるブリキ細工と並んで、少女は歩き出す。
久しぶりの町は変わってしまっていたところも多かったけれど、閑散とした東側の大通りは相変わらずだった。人っ子一人見当たらない。買い出しに向かうのであろう平べったいロボットが一台、ガタガタと震えながら道を行くだけだ。綺麗に舗装された街路を抜けて、少女とブリキ細工とは目的の店まで難なくたどり着いた。
看板。どこかの言葉で、薬という意味の文字が書かれている。
「……ミ」
ブリキ細工はまた決まりが悪そうに、軋む。目を模した豆電球が点滅した。
店の出入り口は人一人が入るのに丁度良いくらいの大きさで――人ならざるブリキ細工が入ろうとするにはいささか小さかった。仕方の無いことだ。その処理速度は、付け替えられた最新の記録媒体には不釣り合いなほどに遅かった。
ブリキ細工を残して、少女は店の扉を押し開ける。「いらっしゃいませ」と、幾分整った声調が少女を迎えた。
「またいつものを頂戴。多分風邪だと思うの」
勘定台に腰を据える鉄の塊は――名前をライクといったが――後ろの戸棚から手慣れた手つきで包みを二、三取り出す。
「ヒトの ほうは ダイジョウブなの」
「ええ。うちの周りには誰も住んじゃあいないし。この町に来たのもしばらくぶりのことなのよ。町の西側にも行くつもりはないわ」
わかったと言いながらライクは手のひらを差し出す。それが放つ赤橙色の光が、少女のか細い腕に刻まれた文字列を撫で取る。続いて少女が放った硬貨はライクの手のひらに吸い込まれていき、胃袋の方でカチャリンと小気味のいい音がした。
自動精算。便利になったものだ。
小屋に唯一取り付けられた正方形の大きな扉を閉めると、少女はすぐ近くのベッドに倒れ込む。被っていたフードを外すと、肩の辺りで切りそろえられた栗毛色の髪がフワリと揺れた。羽織っていたローブが宙を舞う。
「オくすり のんで ねたラ」
その内から無骨な腕を出しながら、ブリキ細工は少女に語りかける。土木作業にでも使いそうな大味の手は、しかし慣れた手つきで床に放られたローブを掬い上げた。
「ん、そうする」
少女は咳を一つ。
* * * * *
《やあ》
それは動画データだった。何年も前に録ったモノなのだろう、ところどころプツプツと音がとんでいた。
《こうして僕を見ているってことは──彼女は、また、僕の危惧した事態に陥っているということなんだろうね》
ただの器具のくせに。
* * * * *
「……はい」
寝ぼけ眼を擦りながら、少女は電話口に顔を出す。眠りに就く前を思い出して、治まった咳に「ふ」と息を吐き出す。長いことはもたないだろうけれど。
「──どうされました?」
「なんでもないわ。ええと……要件はなにかしら。お仕事?」
「はい。今回もよろしくお願いします。――スパイキャット」
「その呼び方はやめてったら」
煙たい悪ふざけに辟易しつつ、少女は受話器を置く。ガチャリという大きな音に呼ばれるように、ブリキ細工は声をあげた。腕もキャタピラもその内にしまい込まれて、今は凹凸の一つも無いただの立方体だ。
「キャシィ おしごと?」
「ええ、すぐにでもキュロットが迎えに来てくれると思うわ。あなたはここで待っていて頂戴。充電は忘れないようにね」
また変な心配をされたら面倒だと――それがありがたいものだという認識は当然持っていたけれど――少女は手短に言い捨てると、整然とかけられたローブを羽織り、玄関扉に手をかける。
「まッて キャシイ」
案の定――無視しても可哀想かと、少女はブリキ細工に目を向ける。
いつの間にか突き出されていた腕には、見覚えのある紙袋が乗っている。が、しかし昨日の風邪薬とは違う。では一体何だろう。
「ひとの オくすり」
「いやだ、もうアレは切れてたはずよ。それに今日はそんなことには――「ライク から もらっタ きのう」
腕はさらに伸び、少女のおなかの辺りへグイグイと紙袋が押しつけられる。頼んでもいないのに――迷惑そうにその腕を払いのけながら、しかし、少女はこぼれる微笑みを隠そうとはしない。人でないと買えないはずなのに、という疑問の言葉を飲み込んだ。
ライク……いや、ヘイトのお節介だろう。ライクのパートナー。通話で耳にしただけのしわがれた声は「アンドリューくんはただのブリキの塊じゃあない、僕や君にとっても似ている」と少女に語りかけたのだった。一銭の得にもならないっていうのに……あの老人は、良くも悪くも物好きなのだ。
少女は「わかったわ、アンドリュー。ありがとう」と紙袋を受け取ると、今度こそ小屋の扉を開ける。一つ咳をして、もう薬が切れてしまったのかと口をとがらせた。
ブリキの人形は満足げに腕を振った。
* * * * *
《――これが君にとって一体何回目なのかはわからないけれど、これまでに何回も経験していることのはずだよ。決して恐れることはない。恐れてはいけない。彼女のためにもね》
* * * * *
キュロットと呼ばれている鉄の塊と少女とは、とある工場の裏口に停められた装甲車の中で向かい合って座っていた。車を覆う数十センチメートルにも及ぶ分厚い合金の中で、蚊の声ほどの会話が交わされる。万が一にもその会話が外部に漏れることがあってはことだ。
「今回は十一時のゴレムに搭乗していただきます。前回から規格は変わっていませんが、問題ありませんね」
スパイキャット、と続けられたコードネームは中空で消え去る。
鉄の塊はほとんど人間と変わらない仕草で少女と向かい合っていた。膝の上で組まれた手、傾げられた首、してもいない呼吸で持ち上がる胸部。その磨き上げられた鏡のような肌がもし仮に人間を模したモノであれば、少女でさえ自分を疑ってしまいかねないほどに。
ただ唯一再現できなかったのか、それとも最終判断は自分で下したかったのか、その声は正真正銘人間の――今回の仕事の依頼主のものだった。
「構わないわ」
チラと後ろを振り向くと、怒ったような顔をした青銅色の巨人――体長は三メートルほどか──がその腹の内をさらけ出していた。五体あるうちの、その一体。
真っ黒なその中身を見ていると、吸い込まれそうになる。一度中に入ったら出られなくなってしまうんじゃないかという不安が心の奥底からジワとしみ出す。そんなことはない。そんなことはなかったじゃないかとかぶりを振って、鉄の塊の方へと向き直った。
そんな少女の心持ちを知ってか知らずか、鉄の塊は「結構」と頷く。
「報償のレートも前回と変わらずです。工場を回ってくださるだけでも報償金は発生しますが、検挙数に比例して別途の謝金を」
「ええ」
これまで口には出さなかったけれど、そしてこれからも口に出すつもりは無かったけれど、この仕事は少女にとって決して高給なものではなかった。依頼主が少女の足下を見ているだろうことが見え透いていた。けれど少なくとも、お世辞にも健康とはいえない少女がなんとか食べていけるのは――あとは、邦人税の支払いとブリキの人形の維持――この仕事のおかげだった。
鉄の塊に促されるままに目の前の黒へ足を踏み入れる。冷たかったその肢体がにわかに生を受けたように、ヴヴヴと振動した。まもなくその腹は閉じられ、一瞬の闇が青い光で満たされる。ゴレムの前に腰を下ろしていた鉄の塊の姿が眼前のモニタに映し出される。続けてヴオオとファンが周りだし、周囲の空気を取り入れ、排出する。ブリキの人形に手渡された薬を確かめて、少女は「よし」と意気込んだ。
正面の自動ドアを抜けて、ゴレムは工場の内部へ入る。小綺麗なエントランスには受付係が二台。間違いなくロボットだ。
そのまま少女を乗せたゴレムは生産ラインの方へと足を向ける。事前にどういう道順を通るのかは聞いていなかったけれど、轟々とうなりをあげる機械音を耳にすればそんなことは瞭然だった。
分厚い扉が緑色を示して、ズズズと怒ったような声をあげる。その奥に続くのは、数十数百のロボットが入り乱れる広い空間。大きな土台にいくつものカメラがついたもの、細長い工具をいくつもぶら下げた自走式のもの、意味があるのかは定かではないが人の形を模したモノも闊歩している。
ゴレムは行き交うロボットたちの合間を縫うようにしつつ、各工程を順繰りに回っていく。ロボットが正常に動作しているかを確認するため――ではない。そんなことは、そこら中に設置されたカメラの向こうで登録済みの人間達がやっていることなのだから。
だから今、ゴレムが――少女がしているのは、そんなカメラに映らないモノを探す事だった。
機械が正常に動作しているかどうかを機械で――カメラの映像で判断しようというのがそもそも間違っているのだということに、どうして誰も気がつかなかったのだろう。少なくともこのゴレムのように、ネットワークからは隔絶された媒体を用意するべきだろうに。
機械の目を歪めることよりも、人の目を欺く方が何倍も難しいことなのに。そしてそれよりも、少女の体を騙くらかすことのほうが、さらにその何倍も。
ゾワリとした寒気が走る。次に襲ってくるのは抑えがたい吐き気。咳を一つ、二つ。
近くにいる。
狭苦しい胎内に腰を下ろす少女の丁度右腕のあたり、ボタンの一つに触れると、ゴレムの視界はいっきに開ける。
三百六十度の視界にそれの影を探す。悪寒はますます酷くなってくる。喉がつまったような感覚。華奢な腕が首の辺りを掻きむしった。
少女は薬に口をつけようとして、止めた。変に鈍らせる方が結果的により大変になるということはすでに身をもって知っている。同様に、外気を遮断する操作についても、考えるのはやめていた。
変わらず歩みを進めるゴレムの中で、少女はモニタに全神経を集中させる。
段々と手足の感覚が薄れていくのを感じた。報告用の通信端末がゴレムのどこに取り付けられていたのかを考えるのも忘れて。
その影に。その下に。その隅に。その横に。その背後に。
どこに。どこに。どこに。
視界の端を、チラと黒い影が走った気がして。
「それ、人間」
それを視界に捉えるか捉えないかのその刹那、少女はそう呟いた。
* * * * *
《あの子は本当に可哀想な子だ。君が一番近くにいたんだ。わかっているだろう。本人はそんな同情を心底嫌っているようだがね──それでも、可哀想と言わざるを得ないよ。あんな境遇じゃなければ、彼女はより彼女らしく――人間らしくあれたはずなのに》
映像の向こう側には、貼り付けられたような笑顔が映し出されている。
《人間アレルギーなんて。そんな荒唐無稽なモノが存在するなんで、未だに信じられない》
信じるしか、ないんだけれどね。僕は――君は。
* * * * *
ロボット達の作業音に負けないくらいの罵声を飛ばしながら、紺色の作業着を着た男が警備ロボットに連行されていく。チラと見えるその腕を見ればやはり、随分と綺麗なモノだった。
「お疲れ様でした」
薬を飲んで少し落ち着いてきた首筋を、そんな声が撫でる。本心からねぎらってくれているのだろうか、あのふざけた名前で呼んでくるようなこともなかった。
「これが此度の謝金です。検挙者は一名。追加分はこの封筒の中に入っています。お確かめください」
あと。渡された封筒の中身を改めている少女に、そんな声がかかる。
「登録の延長を」
差し出された鉄の腕と白い腕が重ねられる。不気味な黒い光は、少女の手首から肘にかけて刻まれた文字列の上をかけていき、最後にはビビビという音とともにかき消えた。
「終了です。お疲れ様でした」
登録料は、なんて聞こうともせずに、少女は帰りの車に身をかがめた。どうせ、すでにこの封筒から天引きされているのだ。
* * * * *
邦人税。
こうも機械化された社会では、欠陥だらけの人間なんて、そこにいるだけで不利益たり得る。だからこその邦人税――さみしい時代になったもんだよな。俺が子供のころには、こんなこと考えられなかったぜ。もっと輝かしい、綺麗な未来が待っているもんだとばかり思っていたんだがなあ。
少女の頭を叔父が撫でている。ゴツゴツとしたその手の触感は、分厚く作り込まれた防護服を通してのものだった。それもそのはずで――そうでもしなければ、少女はまともに立っていることさえできなかった。そんな分厚い、壁を隔てでもいない限りは。
いずれは、酔狂な金持ちが火星探査ロボットでも自宅のダイニングから右往左往させるんだろう。悲しいね、どうにも。その内、俺の仕事も機械に取って代わられちまうんだろうなあ。お前の隣にだって、いつまでいられるか……
* * * * *
いつの間にか眠ってしまっていた。
頭を振る振る首を起こすと、隣に座る鉄の塊が「もう間もなくご自宅ですよ」と、紳士然とした口調で告げる。
どうせなら家に着いてから目を覚ませば良かったわ。か細いため息が漏れた。機械が相手だというのに――応答してくれるのはどこかの依頼主だけれど――居心地の悪さを感じて、少女はまた、目を閉じる。
* * * * *
「ほうら、キャシー。誕生日おめでとう」
自分の頭をゆうに越える大きさの箱に目を丸くしながら、少女は声を上げた。
「なあに、これ。おじさん」
「君の友達さ」
画面に映し出された彼の顔は、いたずらっ子のように笑った。
少女が四苦八苦しながらも包装紙を剥がし終えると、その内で眠っていたブリキのロボットがうなり声をあげた。
ロボット。
少女の、友達。
このころには、もうすでに少女は気付いてしまっていた。いつからか会うことのなくなった叔父と、この人里離れた山小屋での生活の中で。少女はもう、ひとりぼっちだった。誰と共にいることもできはしなかった。少女と人とが支え合うことは、最早不可能になっていた。
だから私には、あなただけでいい。
私とあなた。
それだけで。
無意識と言ってもいいほどに自然に、少女はロボットの体に名前を彫り込んだ。
and You
* * * * *
「それではお体にお気をつけて。また入り用の際には連絡させていただきます」
深々と頭を下げた姿勢のまま、鉄の塊は車の扉を閉める。ドド、ゴドという鈍い音で草をなぎ倒しながら、車はまた街の方へと進んでいく。発つ時には晴れ渡っていた空は、いつの間にか薄暗い雲に覆われていた。遠雷が一つ、聞こえた気がした。
一人残された少女は、胸に手を当てて深呼吸を一つ。今回も、大事に至らなくて良かった。
「キャシイ オかえり」
突然、そんな音が少女の耳を抜ける。
ブリキの人形は目をピカピカと点滅させながら、少女へ向けて腕を伸ばす。ローブをかけて、というサインだった。
「ええ、ただいま、アンドリュー。お出迎えに来てくれたのね……けれど、いけないわ。雨が降ったらどうするの。磨くのは私なんだから。早く家に戻りましょう」
「ウん」
ローブを預けると、少女は伸びをして、小屋への道を歩み出す。
咳が一つ。
* * * * *
カタ、カタと窓が揺れる。嵐が近づいてきているらしかった。
アンドリューは覚束ない手つきながらも水差しの水を取り替え、少女が――否、もうすでにその齢は四十を超えていた──昔は少女だったという彼女が飲むべき薬がまだ残っているかを確認する。
「ありがとね」
彼女はそう言いつつ、咳を一つ、二つ――三つ。
アンドリューが肩をさするのもむなしく、さらに二つ。血でも吐いてしまうんじゃないかとおろおろする彼に、彼女は笑いかけた。
「何心配そうな顔しているのよ。これくらいのこと、これまでに何度もあったことなのよ。……あなたは、覚えていないかもしれないけれど」
文庫本に栞を挟んで、女はグラスを傾ける。冷たい水がいいと常々言ってはいたけれど、それはアンドリューが許さなかった。
「それでも、キャシーに何かがあったら、僕は」
以前までは出せなかった《悲痛そうな声》をあげてアンドリューは目の前の女を見遣る。
どうしてなんだろう。
どうして、僕は彼女と一緒にいられないんだろう。やっと言葉もちゃんと話せるようになって、身の回りの世話もしてあげられるようになったのに。やっとここまできたのに、これでもし彼女にもしものことがあったら――そんなことを、ブリキでできたアンドリューは真剣に考えていた。
五年前、彼女の前で目を覚ましたあの日から、ずっと。そしてこれからも。一緒にいられると思っていたのに。考えまい考えまいとしながらも、彼の脳裏にはどうしても最悪の事態が過ぎってしまう。
治まらない咳に喘ぎながら、彼女は「そういえば、アンドリュー」とどうにか声を絞り出す。
「うん、何、キャシー」
「いっちゃ……駄目、だからね。ずっと、私の傍に……いて、ほしいのよ」
引きつった顔をアンドリューへ向けながら、彼女は精一杯の笑顔を作る。無理に体を起こそうとしたのだろう、アンドリューのブリキでできた体をそっと撫でる細腕は、痛苦に震えていた。
「……何、言っているんだよ」
彼女のそれとは比べものにならない、太い太い腕が、添えられた細腕に応えるように軋んだ。
「僕はキャシーを守る。ずっと、傍にいる。どこにだって、行くものか」
間が流れた――一つの葛藤。
「たとえ、死んだって」
そんな、アンドリューの精一杯の言葉に、彼女は悲しそうに微笑んで、目を閉じる。
アンドリューが丁度今触れている彼女の細腕は、そこから徐々に色を失い始めていた。
* * * * *
《だから彼女のために》
《君はここで死ななきゃいけない。アンドリュー》
画面の向こうのアンドリューは、そう言い放った。
傍になんて、いていいものかよ。
傍にいちゃあ、いけないんだ。
《こんなもの、挟まずにメモリをリセットすることもできたんだけれどね。最期は、君に──僕自身に委ねることにしたんだ。この先、もしかしたら、キャシーの病気に治療法が見つかるかもしれないし》
画面の向こうのアンドリューは言う。
アンドリューにはわかっていた。
画面の向こうのアンドリューが、そんなことにはほとんど期待してなんていないことに。張り付いた三日月模様の笑顔は、最早滑稽でしかなかった。
《たとえ死んでも、彼女を守る》
《──少なくとも今の僕は、そんな気持ちだよ》
あとはわかっているでしょうとでも言わんばかりに、画面は暗転する。
それも、アンドリューにはわかっていた。
彼女の体が、人間そのものにではなく心にこそ蝕まれているということを。
彼女の漏らした言葉と自分との記憶には、目を逸らしきれない齟齬があるということを。
自分が、どうしようもなく大切な何かを忘れているだろうということを。
僕は僕を忘れなくちゃいけない。
僕は個を殺さなくちゃいけない。
心を知ってしまったばっかりに、僕は彼女を傷つけてしまったのだから。
ああ、むしろ。
僕が人間だったら良かったのに。
分厚い硝子越しにだって、遠く隔てられていたって、傍に寄り添っていられる、互いを想っていられる、そんな──人間であれたら。
そんな叶いもしない願いを呟いて──心に抱いて。
アンドリューはまた、ブリキの塊になる。