1猫
アクトレス教官の強烈な横からのパンチ、フックを浴びて、誠は砂のようにマットに崩れた。
今日、3度目のダウンだった。
透過しても良い、落とせれば落としても良い、影の手を使っても良い、という条件で5分ももたずに床に這いつくばったのだ。
アクトレス教官は、体にぴったりとフィットしたノースリーブのVネックシャツを着て、Dカップと噂される巨乳を惜しげもなく見せていた。
とはいえ、今の誠はそんなものに目をやる余裕は全くなかった。
ブラックドック。
黒い犬という通称だが、これはただの犬ではなく、イギリスの怪談に出てくる死を運ぶ妖精犬、いや、いっそ妖怪と言った方がしっくりくる怪物の通称だった。
たった一人で要塞を落とし、戦場を駆け抜けたアクトレスと言う狂気の影繰りに与えられた二つ名だった。
その恐ろしさは、誠が一番知っていた。
この女に追われて、夜の東京を一晩、逃げ回ったからだ。
それが、何を気に入られたのか今は誠の教官になっていた。
それでもつい、さっきまでは普通の教官だと思い、慕ってもいたのだが、この戦場の女優アクトレスはいきなり、牙をむいた。
「坊や、あんたもそろそろ半年になる。
だから、試験をしてやるよ…、生き残れたら合格だ…」
1回KOされるごとに誠は運ばれ、丁寧に治療され、マッサージも受けて、回復すると、またリングで対戦する。
その戦いは、ヘッドギアやスパーリング用のグローブは付けてはいるが、まさにリアルファイトだった。
頭に影の目も開いて、360度を見てはいるが、それは悪夢のように、見えているけど逃げられない恐怖を増すことにしか役立っていなかった。
アクトレス教官は、息も荒げずに崩れ落ちた誠を拾い上げ、リングから降ろし、長椅子に寝かせた上でヘッドギアと靴を脱がせて、氷袋を誠の顔にズシリと乗せた。
「半年…。
まぁズブの素人がここまでよくやった、とは思うけどね…。
あんた、名前がでかくなり過ぎてるんだよ…」
「…名前が独り歩きしている…、ってことですか…。
本人よりも、ずっとすごい奴だと思われている…」
「まぁ近いが、実際にはちょっと違う。
あんたは強いんだよ…、本当にね。
だけど、本当の力は、まだ発揮できていないんだ。
美鳥は蝶だけだから、それを必死に活用しようとしている。
レディは振り子に全てをかけている。
そういうのに比べると、あんたは落としたり、透過で避けたり、影の手を使ったり、目も見えるようにしたり、色々とできる反面、落とすだけに集中していれば到達できるところに未だ至っていないんだ」
「不合格ですか…」
「誰が終わって良いなんて言ったんだい」
言うと、アクトレスは汗だらけの誠のTシャツをバチャン、とめくり、誠の体を揉みしごき始めた。
「まぁ、筋肉は良い感じに育っちゃいるよ…」
「…ですが他の人に比べると…」
「お前を筋肉ダルマになんてする気はないよ。
そんなのはハリウッドでしか生き残れやしないんだ。
細くていいんだよ…。
しなやかに、俊敏に…、ゴリラじゃなくて猫にならなきゃいけないんだ…、判るかい…」
べらり、とスパッツも脱がされるが、誠は抵抗も出来ない。
「ただし…、スタミナはつけなけりゃあ、ね…。
これが痛いかい…」
と誠の太ももを持ち上げ、捻った。
「…いえ…、それほど…」
リングと長椅子があるだけの密室だった。
そこに砂のように動けない裸の誠と、狂気の黒犬アクトレスがいる。
「いいよ。
思った通り、柔らかさは天賦の才があるんだよ、あんたには…。
こーゆーのをなくしちゃあ、いけないんだ。
アホボディビルダーの言うような6パックとか、そんなものは頭から捨てるんだ。
必要な筋肉を、必要なだけ持っていれば、余計なものはみんな飾りなんだよ…」
第三者が見ていれば、プロレス技でもかけられているとしか思えないような逆さ吊りの姿勢で、誠は空中に浮かんでいた。
骨盤を動かされ、背骨を捩られて、肩の関節を極限まで伸ばされていく。
「猫さ、知ってるだろう?
あいつら、頭さえ入る隙間さえあれば、どこへだって潜り込める。
あたしゃ、だから子供を鍛えたかったんだ…。
身体から作らなけりゃあ、本当の戦士にはならないって、知っているんだよ…」
胸を揉まれ、腹も揉まれ、下腹を揉まれ、太ももを揉まれて、砂はいつしか、スライムのような粘着質の物質に変質していく。
「さぁ、立てるかい」
え、と思うと、誠は軽々と立っていることに驚いた。
「あれ…、立てています…」
「じゃあ金玉を潰さないように服を着な」
アクトレスは最初からそのつもりだったようで、何枚もの着替えを買ってきていた。
スパッツを履いて、グローブを付ける。
「じゃあ、もう1度だよ」
誠は軽々とリングに登っていた。




