0卒業
仰げば尊し、の歌声が体育館に響いていた。
卒業ソングをどうするのか、という話は、毎年生徒から学校側へ意見が出されているらしいのだが、誠の通う公立中学校は21世紀の現代でも、頑なにこの曲を守っていた。
ある意味、現代の誠は、この曲が嫌だ、と言う感覚は無い。
ほとんど聞かない曲だし、歌いやすいという意味では、他校と違っても別にいいんじゃないか、と思うのだが、生徒会をやるような人はそう思ってはいないらしい。
ぼんやりと歌いながら、誠はそんなことを考えてた。
ずらりと並んだ体育館のパイプ椅子の上には、花束が添えられた椅子がある。
松崎颯太の席だ。
ヤンキーの兄の庇護の元、虐めや強請りを繰り返していた嫌な奴ではあったが、しかし自分、小田切誠が人生で初めて殺した人間が、この松崎颯太だった。
その席を見ると、誠の心は痛んだが、まさか涙まで出てくるとは思わなかった。
歌いながら誠の目には涙があふれ、赤くなっていった。
卒業式が終わり、生徒たちは体育館を出て行ったが、誠はトイレで顔を洗い、一人遅れて外に出た。
早咲きの桜がポツポツと数輪づつ、花を咲かせ始めていた。
真っ青な空にささやかな桜の花が、なぜかとても美しく感じらえた。
しみじみと春の風を受けながら体育館の階段を降りて行った誠だが、突然、十人近い集団に取り囲まれた。
「え、なに?」
皆、女の子だった。
驚く誠に、後輩らしい見知らぬ女子が熱烈な眼差しを向けている。
「先輩、ずっと好きでした。
ボタンを下さい!」
「ええっ!」
誠は驚愕した。
そういう風習があるのは知っていた。
ただそれは、運動部で活躍した人とか、部活でリーダー的な輝きを放っていた人間などに限られるものと思っていた。
部活もやっていない自分の身に、そんな事が起ころうとは夢にも思っていなかった。
「ま、待って、君たち!
人違いでしょう?
僕は小田切誠だよ?」
「間違っていません、先輩ボタンを!」
ああ、とパニックに陥っているうちに、女子の集団にもみくちゃにされて、気が付くと全てのボタンを失った誠が、呆然と立っていた。
「な、なんで僕なんかが…」
絶句している誠に、クスクスと笑いながら霧峰静香が近づいてきた。
「あ、静香ちゃん、見ていたの?」
静香は、桜の木の陰で誠を見ていたようだった。
「誠君の顔ったら、本当に目を白黒させる、なんてあるのね」
誠自身も、それがどんな顔なのかは判らない。
「だって、見も知らない女の子たちが、急にあんな事を言うからさ…」
「最近、結構噂になっていたのよ、誠君」
「え、噂?」
「ほら、秋ごろから誠君、ジムに通ってるでしょ。
それから逞しくなったとか、背が伸びたとか」
ははは、とちょっと誠は照れた。
そこだけは自分でも本当に喜んでいたのだ。
「背が伸びたって、前が小さかったから、やっと170センチに届いたくらいだよ。
恰好が良い、っていう程じゃないのに…」
「ほら、いつか2年の喧嘩を止めたでしょ」
「えっ、喧嘩?
ああ校門のところでふざけているから、みんなに迷惑だよって」
「あの子たち、結構有名な喧嘩の強い子たちだったのよ。
それを誠君が片手であしらって、そんなパンチじゃ拳を痛めるぞ、なんて言ったから、彼らは誠君には敵わないって言いだして」
「へー、でも、そんな悪い奴らじゃ無さそうだったけど?
毎日、挨拶してくるし」
誠達は、話しながら校門をくぐった。
「おい小田切!」
ふと見ると、同級の高島敦也が立っていた。
「どうしたの?
高島君?」
「今日こそ決着をつけるぜ!」
高島がパンチを撃ってきたので、誠は片手で受け止め、そのまま懐に入って、高島の頬に人差し指を突っ込んだ。
「はい、カウンター」
言って誠は、静香を追いかける。
「誠君って、本当に強いのね」
「ええっ、全然強くないよ。
ジムでは負けてばっかりだよ。
素人は、まぁ、あしらえるけど…」
誠は、去年の11月に影能力に目覚めた。
内閣調査室に影繰りとして採用され、今は訓練生として、日々、厳しい訓練を受けていた。
そのせいか、中学生の喧嘩などは遊んでいるようにしか見えない。
そのため喧嘩の仲裁などを無意識にこなし、いつの間にやら学校では有名人になっていたことに、本人は全く気が付いていなかった。
「なんか、体育の時に、男子が誠君の腹筋が凄かった、って言っていたよ」
「ああ。
やっと最近、腹筋の筋が入って来たんだ。
ジムの人は、皆当たり前だったんで、嬉しいんだよ」
霧峰静香が、ちょっと黙っている。
「どうしたの、静香ちゃん?」
静香は、スレンダーに垂らした前髪の間から誠を見上げて、
「ちょっと、見て見たいな、って」
「え、腹筋?
そのくらい、別にいいけど…」
誠達は、近所の公園に入った。
ベンチがあって、数本木が生えているだけの公園だ。
その木陰で、誠はボタンを失ってだらりと下がっていたブレザーをまくり、Yシャツを持ち上げた。
冬場に内調の屋内施設で訓練をしているので、色は白かったが、臍を中心に、縦に一本、腹筋の筋が入っていた。
「今日もジムに行くの?」
「うん。
卒業式は午前で終わるから、今日はみっちりシゴクって教官が言っていた」
静香はクスっと笑って、
「でも志望校を落として、11月からジムに通うなんて、誠君も変わっているよね」
誠にすれば、今は内調の1等陸士になったところなので、別に必要な事をしているだけだったが、確かに受験生としては変わっているかもしれなかった」
「そうだねぇ…」
「おかげで、高校も誠君と通えて、私は嬉しいけど」
「うん。僕もあんまり友達の多い方じゃないし、静香ちゃんと一緒で嬉しいよ」
高円寺の駅に着き、誠と静香は判れた。
「…まだ、友達なのかしら…」
人知れず、静香の心を痛めたことなど、誠には知る由もなかった。