No納豆 No Life
1番好きな食べ物はなにか? と聞かれたらならば迷わず納豆と言うだろう。
人生最後の晩餐は何を食べたいか? と聞かれたらならば、こちらも迷わず納豆と言うだろう。
しかし、最後の晩餐となると納豆ご飯にキムチをトッピングしたハーフ&ハーフにして欲しいとわがままを言うと思う。
昨日の朝は何を食べたか? と聞かれたらならば、勿論納豆だと言うし、明日の朝は何を食べるのか? と聞かれたらならば、納豆以外に何があるのか? と逆に素朴な質問さえしたくなる。
要するに私は納豆が好きな訳だけど、なんでもいいという訳でもない。ひきわり納豆に限る。
ひきわり納豆は邪道だとか別の納豆フリークからはチラチラと雑音も聞こえるが、ほっといて欲しいのだ。
私がひきわり納豆を食す事に別の納豆フリークにはなんの迷惑もかけてはいないはずなのだから。
しかし、スーパーの納豆売り場には沢山の種類の納豆がこれでもか!と言わんばかりに陳列しているにも関わらず、ひきわり納豆に関してはどこのスーパーでも一種類しか置いていない。
この事実が、ひきわり納豆の不人気を表しているのかも知れない。
しかし、だからこそ私のようなひきわり人間が立ち上がり、ひきわり納豆の需要を底上げする必要がある訳で、私のような人間がいなくなると言う事はスーパーからひきわり納豆が無くなってしまう事を意味する。
重大な責任感を背負いつつ、日々納豆lifeにいそしんでいる。
これは、売れないインディーズバンドを応援するようなもので、売れて欲しい半面、売れてどこか遠くに行ってしまった寂しさや新たなファンにどこか嫉妬してしまう気持ちとよく似ている。
古参のファンは往年のファンであり、つい最近知った新参のファンを軽く見下しもするが、やはり寂しさで一杯になる。
ひきわり納豆とは私の中ではそんな存在だ。
売れて欲しい半面、ひきわり納豆を語りだす新参者には「君はひきわり納豆の何を知って、我が物顔で語っているんだ?」 と質問責めにしてやりたくなる。
そういう私は、ひきわり納豆の事を詳しくは知らない。
納豆というキーワードでよく挙がる逸話に「魯山人式納豆」なるものがある。
424回かき混ぜるのが魯山人式らしいが、異論を唱えたい。
そもそも、なぜ424回なのか?
420回や、425回や、430回では何故だめなのか?
かき混ぜる強さによっても、醤油を入れる量によっても毎回異なるはずなのに、なぜ424回なのか。
それと、そんなに混ぜすぎてしまっては納豆の粘りけがなくなりフワフワとした食間になり納豆本来の良さを殺してしまっている。
私が思うにあえてキリの良くない回数にした上にそんな回数を混ぜるとしたのは、そうすることにより一層食通感が増すからではないかと考える。
一種のブランディングだ。
では君は何回混ぜるのか?と聞かれると20〜25回だと答える。
この申し訳ない程度の回転数が、醤油や芥子をうまく混ぜ合わせながらも納豆本来の粘りけを生かせると信じているから他ならない。
それに、茶碗に米を盛ったならば直ちに真ん中に窪みを作り納豆ポケットとしてそこに納豆を流し入れる。
そうする事により、茶碗が汚れないばかりか、納豆の粘りけを一滴足らず無駄にせずに胃袋に流し込めるメリットまである。
……そんな話しをしていたら無性に納豆が食いたくなってきたので、ここで筆を置くとする。
長々とネチネチと糸引く納豆のような納豆談義にお付きあいして下さりありがとうございました。