プロローグ4
半刻と待たず、勝敗は決した。
戦況が不利と判断するや傭兵を盾に逃走を図った敵将は、自分の放った炎に巻かれ、熱さにもがきながら川へ飛び込んだ。
しかしそこで、俄かに川の流れが速くなり、男はそのまま濁流へ流されてしまった。
恐らく、生きてはいないだろう。
指揮官を失った傭兵は散り散りになるのみ。最早そこに戦いはなかった。
部隊の顔触れにも、疲労の色が濃い。
一先ずは小さな森に天幕を張り、野営地としたのだった。
武器の手入れをしているのは、長い銀髪を編み込んだ剣士。
その姿を黒髪の青年――ラグナが覗き込み、微笑んだ。
「相変わらず、いい剣だな」
そんな彼にクリスはちいさく溜め息を吐き、愛剣を鞘に収める。
「こんなところで油を売っていていいのか?
先程、馬を駆っていたのは伝令兵だろう」
黒髪の青年は子供のように顔をくしゃっと歪めてみせ、
「おいおい、サボっているみたいに言わないでくれよ」
と、冗談めかして舌を出した。
城では常日頃、サボる口実を考えているじゃないか――そう内心思ったが、クリスは口を噤んだ。意味がないからだ。
「それに、お前がいればこの軍は負けやしないさ」
自信満々で『相棒』の肩をぽん、と叩くラグナ。
「僕は――ただ、守りたいだけだ。君やジーク、ウェル……それにルーイ。
皆のいる、このフォーレーンを――」
不思議な輝きを持つ麗剣を空へと掲げ、白銀の剣士は不敵な笑みを浮かべる。
「あのなぁ、仕える主君を呼び捨てか?
って、まあ……お前のは今に始まったことじゃないが」
苦笑するラグナに、クリスは鼻白む。
「ジークはジークだろ?僕は僕、ラグナはラグナだ。
子供の頃から…何も変わらない」
――十年越しの幼馴染み。
幼い王子達には大国の未来が圧し掛かり、彼女も青年も、共に国を守る騎士となった。
「このまま……なにも、変わらずにいられたらいいな。
なあ、ラグナ――」
親友を振り返ろうとした、その刹那。
「クリス!危ないッッッ!!!」
「――え………?」
クリスと呼ばれた細身の剣士は、瞬間、目を疑った。
周囲に敵兵はいない。
「……なん、で……?」
そこには身体から煙を立ち上らせ、もがく親友の姿。
そしてその背後には――同じ、遊撃隊の魔法士と、遊撃隊兵士数名の姿があった。
「馬鹿ですね。死に急ぐこともないのに……」
魔法を操るその男は、部隊でもかなりの手練だった。
そもそもフォーレーンには魔法の使い手が少ないこともあり、満足に対魔法の訓練ができていない状態でもある。
「残念ですよ、ラグナ。貴方とはもっと、ちゃんと戦いたかったのに」
淡々と、男は言葉を紡ぐ。
「何故……?何故裏切った!オルトヴィーン――!」
「裏切った?人聞きの悪いことを仰らないで下さい。
これは歴とした、殿下の御命令ですよ」
くすり、と男は笑った。背後で兵士達の嘲笑が耳障りに響く。
「馬鹿を言え!ジークがそんな命令を出すはずがないだろう!!」
激昂するクリス。例えようのない怒りに、全身が震えている。
「信じないのは自由ですよ。
ジーク王子殿下直々の御命令です。
――裏切り者のクラリス=トラスフォード、ラグナ=フレイシス両名を始末しろ、と――。
私はね、嬉しいんです。こうして……クリス様、貴女の剣を間近で見られることが!」
男の黒いローブがばさばさと揺れる。
その掌に魔力が収束し、古の言語で詠唱を始めた。
「嘘だ!!!貴様の狂気にジークやラグナを巻き込むんじゃない!
共に誓ったんだ、ずっと、ずっと三人で……」
そんなはずがない。
幼馴染みで、しかも部下――それも王国屈指の騎士――を殺そうとするなど。
そんなはずが、ない――!
「やめ、ろ……クリス、剣を抜くな……!」
地に伏したまま、這い蹲ってクリスの足を掴むラグナ。
「ラグナ!?放せ、何するんだ!」
だがラグナは血を吐きながらも、淀みない声で続けた。
「……かはっ……落ち着くんだ、クリス……。
お前がその剣を抜けば――ジークの思う壺だ……!」
ふん、と兵士のひとりが鼻を鳴らす。黒いローブの不気味な男は、さらににまりと嗤った。
「流石に隊長殿は馬鹿ではないようですね」
どういう意味だ、とクリスが吠える。今にも斬りかからんという勢いで。
「…やめろ…ッ!……いいか、クリス。
剣を抜かねば俺達は大人しく始末される。剣を抜けば謀反ってお誂えの口実ができる……。
ジークは……俺達の力を、恐れていた。最初から……こうするつもりだったん――」
そこで台詞が途切れる。
かつて味方だった弓兵が、自慢の弓でラグナの足を貫いていた。
「ぐあ……ッッ!!」
「ラグナ!!!」
自軍の兵に、人形のように始末される。
それが――王国を、その民を守る為、尽力してきた者の末路だというのだろうか?
――認めない。
守ろうとしていた者達によって、命を絶たれる――そんな最期など!
ぷつり。
クリスの中で、何かがほどける音がした。
頭の中が真っ白になる。
いま、紫紺の双眸にあるのは――絶望と、殺意。只それだけだった。
「クリス!――やめてくれ……!
俺は、そんなお前は……見たく、……」
「いいだろう。……僕の剣が見たいなら見せてやる。
一瞬だからよく眼を凝らしておくんだな――」
「やめてくれ、頼む……!」
クリス、と。
呼びかける青年の声も、想いも。今の彼女には届かない。
「止めるな、ラグナ。
こんなものを認めるくらいなら、僕は――馬鹿で構わないッ!!!」
刹那。一陣の風が通り抜ける。
そして。
次の瞬間、すべてが――混沌に帰した。
その後も数百年の間、この森には草一本生えず、やがて『死の森』ニヒツフォルスと称されることとなる――
ぎっと王都の方角を睨めつけ、クリスは早馬の手綱を握る。
「実際に、ジークに会って確かめる!」
「馬鹿!やめろクリス……!」
クリスの肩を掴もうにも身体が痺れ、手は虚しく空を掴む。
指だけではない。全身の感覚が、徐々に薄れてゆく。
元々視覚を失っていたラグナには、クリスの向かった方角を知ることも、馬に乗ることすら叶わなかった。
――届かない。
いつも、一番傍にいたのに。こんなにも――遠い。
「クリス…………!!!」
絞るように、呼びかけた声すら――もう、距離が遠すぎて彼女には届かなかった。