四、三叉路(28)
秀麗な彫刻が施された木の扉が、かちゃりと開く。
「お食事をお持ち致しました。……お加減は如何ですかな?」
廊下から入ってきたのは、顎にちょろりと髭を生やした男。その後ろでは若い給仕の青年が控えていた。
「ええ、お陰様で」
静かに答えた声は女性のそれ。意匠を凝らした調度品が飾られた部屋――フォーレーン国王テセウスの寝室には、ベッドに臥したままの主以外にもうひとり、漆黒のロングドレスを纏った女性の姿があった。
長い蜂蜜色の巻き毛に碧玉の双眸、白磁の肌。朱を薄く差した唇は気品を漂わせる。背筋はぴんと伸び、聡明そうな印象を湛えた貴婦人がテセウス王の側に佇んでいた。先程の返事は、彼女が発したものである。
「これはこれはレイチェル様、本日もお美しくていらっしゃる」
下卑た笑いを浮かべる男に、レイチェルは何も言わずちらと食事にひと目くれると、テセウス王のベッドの横に腰掛ける。そして、
「ランゴルト伯爵。
陛下はお疲れです。御用がお済みならお引取りください」
気品に溢れた、しかし厳しい口調でそう告げた。
「は、これはこれは――手厳しい。
イザベラ様亡きいま、すっかり王妃気取りという訳ですかな。しかし残念なこと、陛下の容態は未だ回復せず、ご子息ウェルティクス殿下は再び王宮から姿を消されてしまった。
いやはや、くく……お気の毒でしたなぁ?王国参謀殿」
ランゴルトの嘲笑が室内に響けば、レイチェルは静かに顔を上げ、僅か唇を開く。
「お耳が遠くなられまして?
御用がお済みならお引取りください。陛下が重篤な容態にあるとご存知の上で大声を上げるなど、常軌を逸した行為です」
声量の割に、真っ直ぐに届く声音。ランゴルトの挑発に乗る様子はない。
そんな彼女の態度にふと、金髪の王子が脳裏を過ぎり――ランゴルトはますます不機嫌な態度を露骨にした。
「ははは、ほんとうにウェルティクス殿下は貴女によく似ていらっしゃる。その澄ました態度も、慇懃無礼な物言いも瓜二つだ」
「あら。敬意を払うに値する相手であれば、勿論返礼を惜しみませんわ」
ランゴルトのたるんだ頬がみるみる赤くなっている様を、金髪の女性は静かに眺めている。その対比が余計に伯爵たる男を苛立たせたのか、更に鼻息は荒く。
「この……女と思って優しくしていればつけあがりおって、女狐が!
今の貴女は陛下のお后でもなんでもない、妾に過ぎぬのですぞ?あまり思い上がらぬことですな。
巧いこと国王陛下を手篭めにしたようですが、頼みの綱の王子には既に反逆の容疑がかけられた。
貴女もこれまでですな――は、は……ははははははッッ!!!」
高笑いと共に、男は扉の向こうへ去っていく。部屋にはテセウスとレイチェル、そして料理だけが残された。
「ウェルは……貴方達などに負けたりしませんわ。私の子ですもの」
首をふるふると横に振れば、巻き毛がふわんと肩で揺らめく。絨毯の上を往く靴音は、料理の前で止まった。
レイチェルはおもむろに取り皿へスープを移すと、静かにスプーンでほんの少しだけを掬い、口に含む。
「……………………」
毒見、という表現が相応しいだろう。数種類あるスープ料理を全てそうして調べ、彼女はそのうちのひとつだけを手に取る。それからその一部だけ、別の取り皿に分けた。
「陛下。……テセウス陛下。お食事ですわ」
枕元まで歩いていき、スプーンに掬ったスープを自分の口中へ運ぶ。そっとベッドへ身を乗り出すと、赤みを失った頬に掌を添え、口移しでそれを与えた。
「――、ぅ……レイチェル…………」
え、と。目を見開き振り向くレイチェル。
しかし変わらず臥したままのテセウスを見れば、は、と息を落とした。うなされる彼の額を静かに拭いながら、きゅ、と唇を噛み締める。
薬学や錬金術にも詳しい彼女、常備していた解毒剤も幾らかあったものの、とうに使い果たしてしまった。
残されたものは、自らの身ひとつ。
それでも。
「陛下。必ず、お守り致しますわ。――私の総てにかけて」
強い意志の光を、その碧たる双眸に宿らせ。レイチェルは密かに、そう誓うのだった。