三、疑惑(19)
月夜にひとつ、仄暗い影が伸びる。ヒトらしき輪郭がうっすら浮かび上がり、声を殺した笑みを宵闇に吐き出した。
不意に足を止め、振り返る。
外套で覆われた男の面差しが、淡い銀光に照らし出された。
印象はさながら刃物、或いは獣の強靭な牙。顔じゅう至るところに傷跡が刻まれ、鋭い切れ長の双眸は、かつての栄華を失ったフォーレーン王城を映し出す。
「ふん、相変わらずのお人好しが。
簡単に捕まって、俺の楽しみを減らすんじゃねぇぞ――」
そう独り言ちてから、否、と思い直す。
――あれに限って、そんなヘマはしねぇか。
眩しそうに目を細め、男――ファングは、片手で顔をおさえ、愉快げに破顔した。
しかし次には、酔いが醒めたような顔で盛大に溜め息を吐く。ファングの眼光が、忌々しげに暗闇を睨めつけた。
「けっ、それで隠れたつもりか?飯事なら他をあたれ。
俺は今、気分がいい。――逃がしてやってもいいぜ?」
場にひろがる殺気が、ぐん、と一段その濃さを増す。ファングの口元には、愉しげな表情が垣間見えた。
「何だ、命がいらねぇのか?あんなクソ野郎への忠誠に殉ずるなんて、冗談にもなりゃしねぇぜ」
そんな言葉で、『相手』が引き返すことなど、毛頭期待していない。彼にとっては、どちらも変わりないことだった。
「まぁ、いい。――来いよ」
引き抜いた大剣の切っ先は、迷いなく暗闇の中へ飛び込んでいく。
ファングを取り囲むよう、黒い外套に身を覆った男達が姿を現した。パニッシャー――だが、助太刀という様相でないのは明らかである。
「ゴルダムは相当、俺が邪魔なようだな。まあ、判らなくもねぇけどよ」
彼の表情には、憤怒も絶望もありはしない。あるのは嘲笑と侮蔑――そして、愉悦の色。くい、と右手で己を示し、ファングはこう投げかけた。
「さっさとかかってこいよ。
早く俺を始末しねぇと、フォーレーンの貴族共が煩ぇんだろ?」
取り囲んだ標的からの挑発に、男達はますます色を生す。
「――っははははは!つくづく単純な奴等だ」
ひとしきり愉しげな嘲笑を夜空に響かせると、ファングは軽く身構えた。
心臓部から頚椎といった急所は、無造作に隙だらけにしたままである。刺客の神経を逆撫でするには、充分だったろう。
しかし、次にファングが零した言葉は、戦場にはひどく不似合いなものだった。
「ん?お、金貨じゃねぇか」
足元にきらりと輝くものを見つけ、ひゅうと口笛ひとつ。路傍に転がっていた金貨を拾おうと伸ばした右手。そこに、男のひとりが飛びかかった。
振り向くことなく、紙一重で奇襲をかわすファング。そのまま大剣の柄で、男の腹部を衝く。逆手に握った剣は、怯んだ相手を難なく薙ぎ払っていた。
足で金貨を跳ね上げ、空を舞ったところを掌に収める。ファングは再び口笛を吹くと、懐に金貨を仕舞うのだった。
「こいつはラッキーだな。これも日頃の行いってやつか?くくっ」
この金貨で、酒が何杯呑めるか考えてみる。高級な酒が口に合わない――貧乏舌ともいう――彼にとって、それは一晩を呑み明かすに充分な金額だった。
そうと判れば、こんな場所で無駄な時間を過ごしている場合ではない。
「さっさと終わらせようぜ?酒が俺を待ってるんでな」
風圧がうぉん、と唸りをあげる。ゴルダムの手下達は一斉に、ファングへ襲いかかった。
そして。
ファングの言葉通り、その勝負は『さっさと終わってしまった』のだ。
「く……くそっ」
壁を背に追い詰められるかたちとなった刺客は、目の前に悠然と立ち塞がる小柄な男を忌々しげに睨んた。
「あとは、てめぇだけだな。どうする?
ここで死ぬか、それともゴルダムんとこへ逃げ帰るか。――好きな方を選んでいいぜ?」
十数名はいたはずの刺客は、今このひとりを残して、半刻と保たずファングに斬り捨てられていた。
圧倒的な力の差に、男の顔は絶望で満たされる。しかし、男は意を決したよう、懐に手を伸ばした。
「どちらにしろ、俺が迎える結末は同じ――ならば、貴様も道連れにするまでだッッ!!!」
目を見開くファング。男が懐から取り出した包みの正体には、直ぐに見当がついた。というのも、反対の手に握られていたのが発火剤だったからである。
――爆弾。
自爆とは、巫山戯た真似をしてくれる――そう内心毒吐くと、ファングは発火剤が握られた手を目がけ、得物を振るった。しかし。
「これで貴様も終わりだ、ファング!」
(くそ、――間に合わねぇ……!!)
そう、思われた瞬間。
銀色の放物線がふたつ宙を舞い、男の両手を弾く。発火剤と爆弾が転がった傍に、ナイフがふたつ、転がっていた。
そこを見逃すファングではない。すかさず大剣の軌道を変え、男を一刀両断した。
「…………誰だ?」
ナイフの来し方を、鋭い双眸が見据える。倒れた刺客達を相手にしたときとは段違いに、ファングは警戒を強め、得物を構え直していた。
徐々に近づいてきたのは、軽い足音。
現れたのは、蒼穹の色を長い髪に宿した、若い暗殺者。クリスをパニッシャーへと導いた人物だった。
「……………………」
「てめぇは……ちょっと前に入ってきた新人だったな。
これは、何の真似だ?」
訝しむファング。アサシンは眉ひとつ動かさず、端的に答える。
「ディック様が心配していました」
「ほう?てめぇはディックの命令で来たと?……まぁいい。ゴルダムの部下なら、俺を助ける必要はねぇしな」
それならば、共倒れになる瞬間を狙い自分を狙えばいいだけのこと――そう心で嘯き、ファングは青い髪の暗殺者へ歩み寄る。
「アジトに戻るぞ。これから面白ぇ祭りが始まるんだからよ」
くくく、と楽しそうに笑みを浮かべながら、二人のシルエットが擦れ違ったとき――暗殺者が、動いた。
「ぐ、ッッ……!?」
ファングの脇腹を、ナイフが深々と貫いていた。
「四天ファング……貴方は、危険だ」
はっとして振り向くファング。落ちた呟きは、先程彼の耳に届いたそれとは、別人の声音に思えた。
叩きつけようとした拳は、いとも簡単に避けられてしまう。
「てめぇ……何者だ……?」
ファングは信じられないといった顔で、目を見開く。この若者から、殺気は微塵も感じられなかったのだ。
完全に殺気を消していた――となれば、辺りに倒れているような三下の芸当ではない。目の前に佇む人物こそ、一流の暗殺者に違いなかった。
「次は、外さない」
問いかけの答えはなかった。ち、とファングから舌打ちが漏れる。
斬りかかろうと構えを正すファング。しかし――その視界がぐらり、歪む。
「ッ……なん、だ……?…………!まさか、」
「最初の攻撃を受けた時点で、勝負は決まっていた。迂闊でしたね」
解答に行き着いたファングを、ただ静謐を保ったまま、眺める青い髪の人物。
「ナイフに毒、たぁ……定石通りなことを」
一歩、後退るファング。しかし、毒が感覚を蝕み、痺れが全身を奔った。
がらん、と鈍い音。続いて、男の身体が崩れる。その体重で、路傍の花々がぷちんと潰れた。
「くっ……これまでか……」
自分を知る者が見れば、大笑いするかも知れない。相棒のラゼルとパニッシャー首領バラックを除き、『刀牙』ファングを敗北せしめる者など、これまでただのひとりもなかったのだから。
「……わりぃな、王子さん、イルク……。
酒の約束は、……果たせそうに、ねぇみてぇだ……」
血の気が失せていく顔には自嘲の色を称え、微か、呟く。
そして。
目前に、青い髪が迫ったところで――ファングの意識は、途絶えた。