シラクサの語られなかった決意
このお話は、「まじない師の白い指」の掌編です。大きなネタバレはしていませんので、ご安心ください。(時系列的には第一章の序盤前後です)ちなみに、本編の主人公は兄のシラクサではなく、弟のヨルバです。
摘み取った薬草の汁は、切り傷のある人差し指にぴりっとしみた。シラクサは一瞬、顔をゆがめたが、すぐにかごを持って立ち上がった。着古された薄い紺色の胴着は地味だったが、彼の深緑色の目とよく合っている。
青年の周りには草木が生い茂っていたが、きちんと種類別に整理されていた。みな夕暮れの光に照らされている。
シラクサは、踏まないように気を配りながら園を後にした。
「ソーニャさん、取ってきましたよ」
「ああ、悪かったね。帰ろうとしてるところを引き留めて」
シラクサが家の裏手にある薬草園から戻ると、薬草師ソーニャは何やら大きな箱の中を探していた。しばらくして彼女が手にしたのは、尖った耳をした猫の飾り仮面だった。
「あったあった。ちょっと汚れてるけど、まあいいでしょ」
ほこりを払いながら、彼女は言った。ソーニャは大柄な女性で、いつもあっけらかんとした笑顔を振りまく。彼女の人の良さは、親族でもないシラクサがこの場にいる理由でもある。
シラクサは摘んできた薬草を台に置くと、前掛けで手をぬぐった。白く長い指先に、今しがた摘み取った草木の汁が手についている。毒はないのだが、なかなか頑固で洗っても簡単には落ちない。シラクサに限らず、サバスの薬草師はみな緑色に染まった指先をしていた。
「シラクサさんもククラの面、そろそろ出しといたほうがいいよ。傷がついてたり、合わなかったら作り直さなくちゃならないからねえ」
「クララの面、」
「ああ、そうか。シラクサさんはまだ十七かそこらだったもんね」
彼女はほつれた黒髪を結いなおしながら、一人でうなずいた。首筋に汗が垂れていく。
「あたしも、前のサバシス任命式の祭りを見たのはいつだったか。最近じゃ、すっかり精霊様の力が弱まってるって言うじゃないか。でもまあ、これでやっと若いサバシスが一人増えるわけだからね、サバスの村も安泰でしょ」
シラクサもうなずいた。
彼らが暮らしているサバスの村には、不思議なまじないの力を持った人々が多く暮らす。ほとんどは、ソーニャのように薬草師と呼ばれる人々だったが、中には力の強い者がいて、彼らは特殊な術をほどこすことができるのだった。彼らはサバシスと呼ばれ、精霊から祝福された者として村人から敬われていた。
シラクサは薬草師のソーニャに弟子入りをしている。普通なら、親や親せきの家に通いながら教えてもらうのだが、彼にはそれができなかった。
「じゃあ、僕は帰りますね」
「はいよ、また明日ね。あ、これ持って行って。いつも頑張ってくれてるからさ」
ソーニャは瓶入りの酒を弟子に押し付けた。祝いごとを控えた村では、いつにも増して酒を飲むことが多くなっていた。弟と二人暮らしのシラクサには、そういった機会もあまりなかったので、ありがたく受け取った。
「弟さんと飲みなよ」
シラクサは苦笑いをしてごまかした。
* * *
強いまじないの力に恵まれたサバシスが、「祝福された者」として丁重に扱われるように、シラクサの弟は「祝福されなかった子」として村からは距離を置かれた。つまり、まじないの力がこれっぽっちもないのだった。
最近、シラクサは弟のことを考えると強い罪悪感にさいなまれていた。弟のヨルバは今年で十三歳になるが、未だに力は全くなく、その兆しも見えなかった。サバスの村では何から何まで、まじないによって成り立っている。ヨルバがこの村で生きていくのは、はたから見ても酷だった。
だから、森に住む変わり者の老婆と懇意にしたり、聖域指定されているご神木のあたりに忍び込んだりする弟の問題行為も、真面目に叱る気にはなれなかった。
シラクサはため息をついた。彼の小指には、赤い細紐が絡まっていた。母が、この村を出て行くときにシラクサだけにつけてくれたものだ。
今日、今日こそ謝ろう。
シラクサは、弟が時々自分の指を見つめるのをずっと前から知っていた。おそらく、母にも見放されたと彼は思いつめているのだろう。
しかし、実はそうではなかった。ヨルバは幼すぎて覚えていないだろうが、母はヨルバを一緒に連れて村を出るつもりだったのだ。土壇場になってシラクサは、彼を村に置いていくよう彼女に泣きついた。そのせいで、まじないをかける時間もなく、ヨルバはシラクサと共に村に残ることになってしまったのだ。
ヨルバがまじないの力を持たない子だと判明したのは、その後だった。もし、自分が彼を引き留めなければ、彼には違った未来があったかもしれない。
逡巡から目覚めると、すでに家は目の前だった。小さな家からは、すでに灯りが漏れている。いつも夕刻過ぎまで森に出ているヨルバだが、今日はずいぶん早い。
祝いの瓶を握りしめ、固く決心した。
「あれ、今日は早かったね」
努めて明るい調子で、シラクサは扉をあけた。