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「やあ、昨晩はお疲れ〜」
始業前のフロアは静かで、声が少しだけ大きく響いた。営業3課の山村は部下の小松原に右手を挙げて笑い掛けた。
「あ、おはようございます。係長こそ、お疲れさまでした」
小松原も少し照れながら笑顔を返した。
「あれからさあ、得意先を見送った後、お前と別れてからな、武田課長と2人でもう一軒行ったんだよ」
山村は掌を口元に立てて、ちょっと声を潜めた。
「えっ?そうなんですか?」
「課長がさあ、接待なんだから、1軒も2軒も同じだって連れてってくれたんだよ。最初は得意先の安藤さんとうちが3人、ちゃんと4人だったんだけどな」
「へえー、それも交際費?なんですか?」
「ま、そういうことなんだろな」
まだ始業前の早い時間で、出社している人はそれほど多くなかった。
「おはようございます」
楽しそうにひそひそ話をしているところへ、カウンターの横から声を掛けられて、2人とも少し驚いた。
「ああ、なんだあ、青木さんかあ」
山村は振り返りながら、ほっとしたような顔を向けた。
「なんか、いいことあったんですか? おふたりとも朝から嬉しそうにしてますねぇ」
青木香里は息子と同じくらいの年頃に見える2人を交互に見て微笑んだ。
「あははは、ま、ね」
山村は後頭部に手をやって、ごまかすように応えて笑った。
香里は、今年55歳になる。ハローワークで紹介された清掃会社に勤めて3年目、いまのところ大きな不自由もなく暮らしている。夫と別れてからは、家計も身の回りもすべてひとりで回すようになったが、慣れてしまえば案外どうということもなかった。あのとき、なぜ離婚したのかと訊かれれば、今でもうまく説明はできない。息子が海外に赴任し、娘が結婚することになり、家に残ったのは夫とあたしだけだった。長い間、子どもを真ん中に置いて、互いに目を逸らして生きてきたのだと、そのとき初めて気づいた。向かい合ってしまえば、もう話すことは何もなかった。別れ話は、拍子抜けするほどあっさり決まった。夫にも別の女がいたのか、それとも同じように疲れていただけなのか、今となってはわからない。ただ、後腐れのない熟年離婚だった。




