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#9 密航

静岡県──師水(しすい)港。

霊峰富士を背に抱くこの地は、かつては潮の香り漂う穏やかな港町であった。

だが今、その風景に往時の面影はない。


「あ、見えてきましたよ。しかしすごい景色っすね」

「都心部の港町にも勝るとも劣らない。あれが大國グループの……」


日本有数の巨大コングロマリット『大國グループ』による強引な買収と私物化。

既存の海運会社や漁協は撤退を余儀なくされ、代わりに築かれたのは、海を威圧するように鎮座する漆黒の要塞──『大國専用埠頭』である。

もちろん、当初は地元からの反発もあった。

だが、仙斎はそれを圧倒的な『金』の力でねじ伏せた。

財政難に苦しむ市に代わり、寂れていた町に巨額の資本を投じて高層ビルや煌びやかな娯楽施設を建設し、大企業を誘致したのだ。

観光収入は何十倍にも跳ね上がり、潤った住民たちは豊かさと引き換えに沈黙を選んだ。


「よし、行くぞ。今日こそ仙斎の闇を暴いてやる」


しかし、光が強ければ影もまた濃くなる。

その華やかな都市開発は、港の奥で行われる大いなる闇から大衆の目を逸らすための、巨大な隠れ蓑に過ぎなかったのだ。


「す、すごいですね……」


夜空を引き裂くような稲妻と共に、激しい雨がアスファルトを叩きつけていた。

港の一角、一般車両の進入が固く禁じられている特別高度物流実験特区──通称、大國埠頭。

そのフェンス越しに停められた覆面パトカーの中で、三人の影が息を潜めていた。


「……うわ、マジっすかアレ」


後部座席の牧村が、双眼鏡を覗きながら素っ頓狂な声を上げる。

ワイパーが必死に払いのける雨の向こう、ゲート前には異様な光景が広がっていた。


「あれ、民間警備会社ですよね? 機動隊みたいな格好してますよ」


牧村の言う通りだった。

ゲートを守る警備員たちは、紺色の出動服に防刃ベスト、顔面を覆うポリカーボネート製のヘルメット、そして腰には長尺の特殊警棒を吊り下げている。

その威圧感はテロ対策部隊のそれに近かった。


「やつの権力の象徴だな」


運転席で紫煙を燻らせながら、藤堂が苦々しく吐き捨てる。


「重要インフラ防衛を名目に、国から特例認可を受けている。銃こそ持っちゃいねえが、中身は自衛隊や機動隊のOBで固めた精鋭部隊だ。仙斎め……よほどここを見られたくないらしい」

「データ、出ました」


助手席でタブレットを操作していた美咲が、緊迫した声を上げる。


「港湾局の内部サーバーから弾かれたエラーログを復元しました……当たりです。今夜二時、この埠頭から記録に残らない幽霊船が出ます」

「幽霊船……ねえ」

「積荷の名目は産業廃棄物処理残土。ですが、積載量が異常です。ただの泥にしては重すぎます。恐らく、島への補給物資を、ゴミに偽装して運んでいるんだと思います」


美咲の報告に、藤堂は短くなったタバコを携帯灰皿に押し込んだ。


「よし。俺たちの狙いはその『積み込みの瞬間』だ。フェンス越しでもいい、偽装工作の証拠写真を一枚撮れれば、捜査令状を請求する足がかりになる」

「藤堂さん、まさか降りる気ですか? この雨の中」

「関係ない。行くぞ」


藤堂はドアを開け、叩きつける雨の中へと飛び出した。

美咲と牧村も、顔を見合わせて覚悟を決め、車を降りる。


三人は闇に紛れ、姿勢を低くして近づいていく。

雨音が足音を消してくれるのが、唯一の救いだった。


「……ここだ」


藤堂が目配せをする。

フェンスの死角。監視カメラの首振りが逆を向いた一瞬の隙。

本来なら完璧な警備網だが、なぜかその一角だけ、投光器の電球が切れたように薄暗くなっている場所があった。


「牧村、小野田、お前らはここで待機だ。俺が撮ってくる」

「はあ!? 何言ってんすか……!」

「三人で見つかれば一網打尽だ。俺がヘマしたら、お前らは逃げて通報しろ」


藤堂は二人の制止を聞かず、フェンスのわずかな綻びから、立ち入り禁止区域へと体を滑り込ませた。

コンテナヤードの影。

その奥に、黒塗りの大型トラックがバックで入ってくるのが見える。

ナンバープレートはない。


「ビンゴだ……」


藤堂は防水カメラを構え、シャッターチャンスを伺う。

トラックの荷台が開き、フォークリフトが木箱を降ろす。

木箱の側面には『汚染土壌・取扱注意』のステッカー。

だが、リフトのタイヤが悲鳴を上げるほどの重量感と、シートから覗く厳重に封がされたコンテナが、中身がただの土ではないことを雄弁に語っていた。

藤堂は即座に携帯端末を構え、撮影ボタンを押した。

わずかな電子音と共に、決定的な証拠が記録される。


「よし、次は──」


藤堂が更に奥へと進もうとしたその時だった。


『ウウゥゥッ……!』


背筋が凍るような唸り声。

振り返ると、コンテナの影から一頭のドーベルマンが、牙を剥き出しにして藤堂を睨んでいた。

ハンドラーはいない放し飼いの警備犬だった。


「しまっ……」

『ワンッ! ワンワンッ!』


犬の吠え声が、静寂を切り裂いた。

即座に、周囲の照明が一斉に点灯し、ヤード全体が真昼のように明るくなる。


「侵入者あり! Cブロックだ!」

「確保せよ! 逃がすな!」


怒号と、無数の軍靴の音が迫ってくる。

藤堂は舌打ちをし、フェンスへ走ろうとしたが、すでに退路には警棒を構えた警備員たちが壁を作っていた。


「藤堂さん! こっちです!」


聞き覚えのある声。

見ると、待機していたはずの美咲と牧村が、フェンスを乗り越えてヤードに入ってきていた。


「馬鹿野郎! 逃げろと言っただろうが!」

「見捨てられるわけないでしょ! あっちのコンテナの隙間が空いてます!」


美咲が指差したのは、積み込み作業中で混乱しているエリアの最奥。

そこだけ警備の手薄な袋小路だった。

戻れば捕まると悟った藤堂は、決意したように力強く頷く。

三人は脱兎のごとく走り出し、警備員の包囲網を強行突破して、コンテナの山へと逃げ込んだ。


「ハァ……ハァ……! くそ、追い詰められました!」


牧村が膝に手をついて荒い息を吐く。

前方には海。

左右と後ろはコンテナの壁。

そして入り口からは、警備犬を連れた部隊が迫ってくる。


「終わりだ……懲戒免職どころか、豚箱行きだ……」

「諦めるな! どこかに隠れる場所が……」


藤堂の視線が、一つのコンテナに吸い寄せられた。

積み込み直前なのか、扉が半開きになっている古い錆びついたコンテナ。

ラベルには『有機廃棄物』の文字。


「あの中だ!」

「えっ、ゴミの中っすか!?」

「捕まるよりマシだ! 急げ!」


選択の余地はなかった。

足音がすぐそこまで迫っている。

三人は鼻をつまみ、開いた扉の隙間から、暗いコンテナの内部へと転がり込んだ。

中は鼻が曲がるような腐臭が充満していた。

ヘドロや生ゴミが詰まった黒い袋が山積みになっている。

美咲が嗚咽を漏らしかけるが、藤堂がその口を掌で塞ぐ。


「静かにしろ……!」


三人は汚泥の袋の隙間に身を潜め、息を殺した。

外から、警備員の足音が聞こえる。

コンテナの前で止まった。


「見つかる……! もう、ダメだ……!」


牧村が目を瞑り、神に祈る。

しかし──


「……異常なし。次へ行くぞ」

「了解。おい、このコンテナのロックを忘れるな」


警備員の冷徹な声と共に、ガチャンという重い金属音が響いた。

外から閂かんぬきがかけられた音だ。


「え……?」


美咲が目を見開く。

直後、ガクンッという衝撃と共に、コンテナ全体が宙に浮いた。

クレーンで吊り上げられたのだ。


「お、おい、待て! どこへ行く!?」


藤堂が叫び、鉄の壁を叩く。

だが、その音はクレーンの駆動音と降り注ぐ雨音にかき消される。

そして衝撃が響く。

船のエンジンの重低音が、床を通して伝わってきた。


「嘘だろ……出しやがれ! おい!」


完全なる密室。

悪臭漂う鉄の棺桶に閉じ込められ、藤堂たちは成す術もなく、どこかへ運ばれていくのだった。


東京都港区。

大國ミレニアムタワー最上階。

漆黒の執務室で、仙斎慶一郎はワイングラスを傾けていた。

壁面のモニターには、赤外線サーモグラフィーの映像が映し出されている。

コンテナの中で身を寄せ合い、パニックに陥っている三つの赤い熱源。


「……ふ」


仙斎の唇が、三日月のような笑みを刻む。


「上手くいきましたな」


背後で控えていた衣笠が、恭しく頭を下げる。


「ゲートの監視カメラを一瞬切り、警備犬をけしかけて袋小路へ誘導する……見事な手綱さばきでございます」

「囲師必闕だよ、衣笠。人間は追い詰められると、必ず穴を探そうとする。後は逃げ道を用意しておけば簡単に引っかかる。心理的な盲点だ」


仙斎はモニターの中の藤堂──小さな赤い点に、指先を這わせた。


「ようこそ、私の箱庭へ。警察という名の番犬が、自ら首輪を外して飛び込んでくるとはな」


彼は手元のスイッチを押し、船への出港許可を出した。


「精々、最高の『異物』として振る舞ってくれたまえ。君たちの絶望が、私の可愛い武士たちを目覚めさせるのだから」


窓の外、港の夜景は宝石のように輝いている。

しかしその光は、洋上の闇へと消えていく三人の刑事には、もう届かない。

貨物船の汽笛が、弔鐘のように遠く響いた。

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