#8 決意
叩きつけるような雨音が、朽ちかけたあばら屋の屋根を激しく打ち鳴らしていた。
森の奥深く、獣道すら途絶えた先に見つけた炭焼き小屋。
腐った板戸を蹴破るようにして転がり込むと、白兵衛はようやく背中の重荷を下ろした。
「……っ、ふぅ」
千鶴が床板に崩れ落ちる。
白装束は泥と雨で濡れそぼり、肌に張り付いて身体の線を露わにしていた。唇は紫色に震えている。
「大丈夫か。とりあえず、ここなら雨風は凌げそうだ」
白兵衛が小屋の奥を改めている間に、衣擦れの音がした。
振り返りかけた白兵衛は、ぎょっとして声を詰まらせた。
「お、おい! 何やってんだ!」
「何って……濡れた着物を着ていては凍えるでしょ」
千鶴は事もなげに言いながら、濡れた着物を脱ぎ捨てていた。
白い肌が闇の中に浮かび上がる。
この時代、湯浴みや行水で異性の目があることは珍しくない。
特に身分の高い者にとって、使用人の目など壁や柱と同じだ。
だが、白兵衛にとってはそうではなかった。
「だ、だからって……いきなり脱ぐ奴があるかよ!」
「大げさな。其方、意外と子供なのね」
「うっせえ! なんか知らねえけど恥ずかしいんだよ!」
白兵衛は真っ赤になって顔を背け、あぐらをかいた。
背後で、千鶴が濡れた髪を絞る音がする。
水滴が床に落ちる音が、雨音に混じって妙に大きく聞こえた。
「……寒い」
千鶴の震える声。
囲炉裏はあるが薪がない。
それに、火を焚けば煙で居場所がバレる危険もある。
「ちょっと借りるわ」
「え、何を──って、おぅわ!」
千鶴がためらいなく背中を預けてくる。
薄い肌着すら身につけていない素肌の感触。
ひんやりとした冷たさが、すぐに互いの熱で温まっていく。
白兵衛の背筋に、ドクンと心臓の音が響いた。
「……温かい」
千鶴が白兵衛の背中に手を回し、小さく呟く。
その吐息がうなじにかかる距離だ。
「そ、そうか……なんか小っ恥ずかしいな」
千鶴はくすりと笑った。
その笑い声には、姫としての気位の高さではなく、ただの年頃の娘のような茶目っ気が混じっていた。
背中越しに伝わる柔らかさと重み。
白兵衛は悶々とする思考を振り払うように、視線を天井に向けた。
雨音だけが、二人の沈黙を埋めている。
「……父上」
ふと、千鶴が消え入りそうな声で呟いた。
亡き父、細河元継。
その死を悼んでいるのだろうか。
「細河様ってのは……どんな人だったんだ?」
気を紛らわせるつもりで、白兵衛は尋ねた。
「……匣爾の山々のように心が広く、清流のように穏やかな人だったわ」
千鶴は夢見るように語る。だが、すぐに言葉を濁した。
「でも……不思議な父だった」
「不思議?」
「ええ。決して、母様のことを教えてくれなかった。私のことも『目に入れても痛くない』と常に口にしていたけれど……私は、幼少期のことをほとんど覚えていないの」
千鶴の言葉に、奇妙な重みが宿る。
彼女は自分の膝を抱え込み、白兵衛の背中にさらに身を寄せた。
「笑顔が絶えない父だった。でも、頭を撫でられても、褒められても……不思議と、全くと言っていいほど愛情を感じなかった。まるで、決められた台詞を言っているだけのような空虚な父……そんな風に思ってしまう自分と父上が、時々怖かった」
空虚な父。
その言葉に、白兵衛は奇妙な既視感を覚えた。
愛情がないわけではない。
ただ、何かが欠落しているような感覚だと千鶴はこぼすのであった。
「慰めになるかは知らんが……」
白兵衛はぽつりと切り出した。
「俺も母親はいねえ。親父はいたが、俺が七つの時に死んだ」
「病で?」
「ああ。村外れの川で釣りをしていた時だ。突然、頭を抱えて苦しみだして……あっという間だった」
白兵衛の脳裏に、今も焼き付いている。
父が頭をかきむしり、白目を剥いて倒れた光景が。
村の薬師は「原因不明の卒中」だと言ったが、子供心にそれはあまりに不自然に見えた。
「それ以来、俺は山に入って、傳八と二人で暮らすようになったんだ」
「……頭を抱えて、突然?」
千鶴の声色が変った。
彼女は背中を離し、思案するように黙り込む。
「どうした?」
「……私の傅役の爺も、同じ死に方をしたわ。あれは私が十の時……庭で手習いをしていたら、急に頭を押さえて」
「……偶然だな」
白兵衛は努めて明るく言った。
だが、背筋に冷たいものが走るのを止めることはできなかった。
「この島特有の流行り病だろう」
「……そうね。そうかもしれない」
千鶴は同意したが、その口調には納得していない響きがあった。
島を覆う、見えない何か。
二人はそれ以上深く考えるのを避けるように、再び背中を合わせた。
「……飯にするか」
しばらくして、白兵衛が布袋から干した木の実と干肉を取り出した。
火は使えない。
硬い肉を噛み締め、唾液でふやかすだけの粗末な食事だ。
千鶴にも分け与えると、彼女は文句も言わずにそれを口にした。
「これから、どうするの?」
咀嚼した肉を飲み込み、千鶴が問う。
その瞳は、暗闇の中で白兵衛を真っ直ぐに捉えていた。
「自分はもう、ただのか弱い娘に成り下がった。帰る城も、頼る家臣もいない」
「……この島は、山那のものになる」
白兵衛は淡々と事実を告げた。
嫡男のいない元継が討たれた今、抵抗勢力は皆無だった。
「ここに居場所はねえ。俺も、お前もな……島を出て、本土へ渡るしかねえだろう」
「本土へ?」
「ああ。海を越えれば、今川家の領地がある。そこなら、山那の手も及ばねえはずだ……お前も、嫌だろうが一緒に来るか?」
ぶっきらぼうな誘い文句。
千鶴は少しだけ目を丸くし、それからふっと小さく笑った。
「嫌だろうが、じゃないわ」
「あ?」
「私は死にたかったの。それを無理やり止めて、ここまで連れ出したのは誰?」
千鶴は身を乗り出し、白兵衛の顔を覗き込んだ。
その瞳には、泥にまみれても損なわれない強い光が宿っていた。
「責任を取りなさい」
「はあ? なんだよそれ」
「そのままの意味よ……貴方について行く。地獄の底までね」
それは、主従でも恋仲でもない。
「共犯者」としての契約だった。
白兵衛は溜息をつき、頭をガシガシとかいた。
「……勝手にしろ」
憎まれ口を叩きながらも、白兵衛は拒まなかった。
外の雨音はまだ止まない。
だが、背中に感じる確かな温もりだけが、冷たい夜における唯一の救いだった。




