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#7 逃避

 燃え盛る細河城の本丸御殿前。

 夜空を焦がす紅蓮の炎を背景に、細河元継の首が無造作に掲げられている。


「敵将、細河元継──討ち取ったり!」


 漆黒の甲冑を纏った若武者──山那景胤の声が、戦場の喧騒を切り裂いて響き渡った。

 それは絶対的な強者の勝ち鬨だった。

 白兵衛は、その光景を呆然と見上げる。

 それは悲しみや憎しみではない。

 腹の底から湧き上がってきたのは、もっとどす黒く、焼けつくような感情だった。

 嫉妬だ──そして、己の無力さへの強烈な苛立ちだった。


(ふざけるな……)


 白兵衛が握りしめた刀の柄が、手汗で滑る。

 元継は良い領主だった。だが、白兵衛が今睨みつけているのは、主君を殺した敵ではない。

 あんなにも美しく、あんなにも圧倒的に、戦場を支配している『男』を見上げていた。

 自分が夢見ていた『天下人』の姿が、そこにある。

 泥にまみれ、雑兵たちに揉まれて右往左往している自分とは、天と地ほどの差がある。

 それが許せなかった。

 ここで動かなければ、自分は一生、この男の足元にも及ばない『その他大勢』で終わる。

 そんな予感が、白兵衛の背中を蹴り飛ばした。


「うおぉぉぉぉッ!」


 白兵衛は喉が裂けんばかりの咆哮を上げ、地面を蹴った。

 周囲の雑兵たちが驚いて道を空ける。

 一直線に、黒毛の馬上の景胤へ。


「アニキ!?」


 背後で傳八の止める声が聞こえたが、もう止まれない。

 白兵衛は瓦礫を踏み越え、跳躍した。

 狙うは景胤の首ひとつ。

 無防備に見えるその横顔へ、渾身の力で太刀を振り下ろす。


「そこだァ!」


 ガギィンッ──!

 硬質な音が、火の粉と共に弾けた。

 白兵衛の手首に、骨が軋むほどの衝撃が走る。

 刃が食い込んだ感触はない。

 景胤は手綱を持ったまま、もう片方の手で抜いた太刀を軽く掲げ、白兵衛の必殺の一撃を受け止めていた。涼しい顔で。


「……ッ、ぐうっ!」


 白兵衛は空中で体勢を崩し、無様に地面へ転がった。

 泥水を跳ね上げ、受け身をとってすぐさま構え直す。

 だが、景胤は追撃すらしなかった。

 馬上で冷ややかな視線を、白兵衛に流すだけだ。


「……良い目だ」


 景胤が低く呟く。

 それは賞賛ではなく、珍しい虫を見つけたような響きだった。


「雑兵にしては、な。だが──」


 景胤の手が微かに動く。

 次の瞬間、白兵衛の視界が歪んだ。

 見えない衝撃波のような太刀風が頬を掠め、背後の板塀が真っ二つに裂ける。

 見切るどころか、斬られたことにすら気づかせない神速。


「小石に躓いている暇はない」


 景胤は興味を失ったように視線を外し、馬首を巡らせた。

 その背中は、お前など眼中にないと雄弁に語っていた。


「ま、待て……逃げんのかよ!」

「殿! 露払いは我らにお任せを!」


 白兵衛が追いすがろうとした瞬間、山那の兵たちが黒い波となって押し寄せ、景胤と白兵衛の間を分断した。

 槍衾が迫る。

 数え切れないほどの殺意が、白兵衛一人に向けられる。


「くそっ、くそぉッ!」


 白兵衛は闇雲に刀を振るった。

 一人斬り、二人斬る。だが、敵は無限に湧いてくる。

 景胤の背中が遠ざかっていく。

 今の自分では、あの男の視界に入ることすら許されないのかと、白兵衛は歯噛みする。


「猪武者め! 死ねい!」


 敵兵の槍が、白兵衛の脇腹を狙って突き出される。

 鈍く、重い音がした。

 だが、白兵衛に痛みは来なかった。

 代わりに、目の前に見慣れた背中が割り込んでいた。


「──がっ、は……」


 白兵衛の目の前で、傳八が膝をつく。

 その胸から、槍の穂先が突き出していた。

 さらに、城壁の上から放たれた矢が、傳八の背中に二本、三本と突き刺さる。


「……で、傳八?」


 白兵衛の思考が凍りつく。

 傳八が、ゆっくりと振り返った。

 口から大量の血を吐き出しながら、いつものようにへらりと笑おうとして、顔を歪める。


「へへ……危ねえぞ、アニキ」

「お前、なんで……」

「アニキは……天下を、取るんだろ……?」


 傳八の手が、白兵衛の着物の裾を掴む。

 その手は震え、急速に力が抜けていく。


「こんなとこで……死ぬなよ……俺もアニキの天下取り、見たかったけどさ……無理みてえだ……アニキ、俺の分まで……」

「馬鹿野郎! 喋るな! 今、肩を貸すから──」

「行けっ!」


 傳八が最後の力を振り絞り、白兵衛を突き飛ばした。

 その体はすでに支えを失い、泥の中へと崩れ落ちていく。


「逃げろ、アニキ……どうか天下を……」


 瞳から光が消える。

 ただの肉塊へと変わるその瞬間まで、傳八は白兵衛の未来を信じていた。

 白兵衛は唇を噛み切り、血の味が口の中に広がるのを感じた。


「──あぁぁぁぁッ!」


 泣き叫ぶ暇などない。

 敵兵が傳八の死体を踏み越えて迫ってくる。

 白兵衛は獣のような唸り声を上げ、傳八の死体に背を向けた。

 泥を蹴り、炎の中を走る。目指すは城の裏手。

 だが、その脳裏にふと、もう一人の顔が過った。


「そうだ……千鶴!」


 白兵衛は逃走経路とは逆の、奥御殿の方角へと足を向けた。                

 奥御殿は、静寂に包まれていた。

 表の喧騒が嘘のように。

 廊下は静まり返り、ただ燃え移った火の粉が舞っている。

 白兵衛は障子を次々と蹴破り、最奥の間へと駆け込んだ。


「あ……」


 そこには、白装束に身を包んだ千鶴がいた。

 周囲には、すでに自害して果てた侍女たちの遺体が転がっている。

 血の匂いが充満する部屋の中心で、千鶴は震える手で短刀を握りしめ、切っ先を喉元に向けていた。


「……来ないで」


 乱入してきた白兵衛に気づき、千鶴がか細く呟く。

 その顔は蒼白で、瞳だけが異様に輝いていた。


「私は細河の娘。敵の辱めを受けるくらいなら、誇り高く自決する」

「誇りだァ?」


 白兵衛は肩で息をしながら、一歩ずつ近づく。

 泥と返り血で真っ黒になったその姿は、千鶴にとって死神のように見えたかもしれない。


「父上も逝かれ、城も落ちた。私が生きる意味など、もうどこにも……」

「ふざけんな!」


 白兵衛の怒号が、千鶴の言葉を遮った。

 彼は荒々しく畳を踏み鳴らし、千鶴との距離を詰める。


「誇りだの名誉だの、そんなもんで腹が膨れるか! 死んで綺麗サッパリ終わり? ふざけんじゃねえぞ!」

「な、何を……無礼な! 近寄らないで!」

「死んだらな、何にもなれねえんだよ! ただの肉になって腐るだけだ! 俺はたった今、それを見てきたんだよ!」


 白兵衛の脳裏に、泥に沈んだ傳八の顔が焼き付いている。

 生きたかったはずだ。

 天下を取る白兵衛を見たいと言っていた。

 その無念を千鶴は『誇り』という言葉で捨てようとしている──白兵衛はそれが許せなかった。


「……っ!」


 千鶴が覚悟を決め、短刀を喉に突き立てようとした。

 その瞬間、白兵衛の手が伸びた。

 素手で白刃を掴むのも厭わず、強引に千鶴の手首をねじ上げる。

 短刀が畳の上に落ちた。

 白兵衛の手のひらから血が滴り落ちる。


「……放して」

「死なせねえ。テメェは俺が連れて行く」

「下郎め。私の気も知らないで!」


 白兵衛は千鶴の胸ぐらを掴み、無理やり立たせた。

 そして乾いた音が響き、千鶴の動きが止まった。

 呆然と白兵衛を見上げる瞳から、涙が溢れ出す。


「痛えか? 惨めか? それが生きてるってことだ」


 白兵衛の瞳は、獣のようにぎらついていた。

 だが、その奥には深い悲しみと、焼けつくような生への執着があった。


「元継様は死んだ。城もねえ。お前はもう姫様じゃねえんだ。ただの女だ……だったら、泥水すすってでも生き延びろ。死んだ奴らの分まで、図太く生きやがれ!」

「……」

「立て。追手が来るぞ」


 白兵衛は千鶴の細い腕を乱暴に引き、自分の背中へと担ぎ上げた。


「しっかり捕まってろ。舌噛んでも知らねえぞ」


 白兵衛は縁側を蹴破り、闇夜へと飛び出した。

 冷たい雨が降り始めていた。

 炎上する城の熱気と、氷のような雨粒が入り混じる。


「見てろよ傳八……こっから這い上がるからな」


 二人は泥濘の中を、獣道へと逃げ込んだ。

 背後で城が崩れ落ちる音が轟く。

 白兵衛は千鶴を連れ、傳八への誓いを胸に漆黒の森へと姿を消した。


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