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#5 血戦

「よかったのかよ? アニキ」

「何がだよ」

「あんな大層な殿様から誘われたのに」


 城からの帰り道。

 傾きかけた陽が、山道を黄金色に染めていた。

 隣を歩く傳八が、どこか勿体なさそうに白兵衛の顔を覗き込む。


「飯は食いっぱぐれねえし、着物だって新品がもらえるかもしれねえ。俺なら二つ返事で『へへーっ』て頭擦りつけてるとこだぜ」

「バカ言え。俺は、一生あそこで飼い殺しにされるつもりはねえよ」


 白兵衛は道端の小石を蹴り飛ばした。

 石は放物線を描き、眼下の森へと吸い込まれていく。


「細河様は立派な人だ。それは認める。民を想い、無駄な血を流さない。理想的な領主様だろうさ」

「だったら尚更──」

「だからこそ、ダメなんだよ」


 白兵衛は足を止め、振り返って城を見上げた。

 夕日に照らされた城は、美しくもどこか儚げに佇んでいる。


「守ってばかりで、隣と小競り合いを繰り返す。勝ったり負けたり、取ったり取られたり……そんなことをどこの国も百年続けてるから、いつまで経っても戦の世が終わらねえんだ」

「そ、そういうもんか?」

「ああ。誰かが泥をかぶってでも、全てを飲み込まなきゃならねえ。圧倒的な力でねじ伏せて、一つの国にしちまうんだ。そうしなきゃ、俺たちみたいな雑兵はいつまでも畑の肥やしにされるだけだ」


 白兵衛の目には、野心が爛々と燃えていた。

 この小さな島のさらに小さな領地で、一生を終える気などなかった。


「海を越え、日の本全土を掴み取る。その野望の前では、細河様が言った安寧なんて、退屈な檻でしかなかい」

「へえ……やっぱアニキはすげえこと考えてんだな。俺にゃよく分からねえけどよ」

「ま、今はただの夢物語だ。とりあえず帰って飯にすんぞ」


 笑い飛ばし、再び歩き出す。

 だがその夢物語が、唐突な現実の悪夢によって砕かれることを、彼らはまだ知らなかった。


「ん、なんだ?」


 麓の村に差し掛かった時。

 普段なら野良仕事を終えた村人たちが談笑している時間だが、今日は様子が違っていた。

 村の中央にある広場に、大人たちが集まり、ざわざわと異様な熱気を帯びている。


「おい、なんかあったのか?」


 白兵衛が人垣をかき分けると、中心には村長が息を切らして座り込んでいた。

 その顔面は蒼白で、脂汗がびっしりと浮いている。


「た、大変だ……えらいこっちゃ……」

「何があった。ハッキリ言えよ村長」

「い、今川様が……今川義元公が、討たれたとよ!」


 瞬間、その場にいた全員が息を呑んだ。

 虫の声だけが、やけにうるさく響く。


「桶狭間というところで、尾張の織田に首を取られたらしい! 港はその話で持ちきりじゃった!」

「まさか……あの海道一の弓取りが? 嘘だろ、あの大軍が負けるわけねえ。天下に一番近い男だったんじゃないのかよ!」


 村人たちが口々に騒ぎ立てる中、白兵衛の背筋には冷たい戦慄が走っていた。

 今川義元──この島に直接の影響力を持つわけではないが、周辺諸国にとっての巨大な「重石」だった存在だ。


「……マズい」


 白兵衛は即座に理解した。

 隣国の山那家が大人しくしていたのは、バックにいる今川の介入を恐れていたからだ。

 細河と山那の均衡は、今川という巨大な天秤の上で辛うじて保たれていたに過ぎない。

 そのタガが外れれば、どうなるか──白兵衛は容易に想像できていた。


「来るぞ……山那が!」


 白兵衛が叫んだその時だった。

 カン、カン、カン、カン、カン──!

 耳をつんざくような鐘の音が、山の上から響き渡った。

 敵襲を知らせる早鐘だ。

 その音は、まるで葬送の旋律のように村へと降り注ぐ。


「お、戦だ! 戦が始まるぞ!」

「よっしゃあ! 久しぶりの陣触れだ!」


 ところが、村人たちの反応は白兵衛の予想とは真逆だった。

 彼らは恐怖するどころか、どこか浮き足立ったように声を上げ始めたのだ。


「今回も勝ち戦だといいのう」

「久々に白い米が食えるぞ!」

「また敵の死体から鎧を剥いで売っぱらってやらぁ」


 鍬を放り投げ、納屋から錆びついた槍を引っ張り出してくる男たち。

 彼らにとって戦とは、退屈な日常を打破する祭りであり、臨時収入の機会でしかなかった。

 これまでの戦が、元継の手腕によってなあなあの小競り合いで済んでいた弊害だ。


「……バカ共が」


 白兵衛はギリっと奥歯を噛み締めた。

「アニキ、俺たちも行くか? 腹減ったし米食いたいぜ」

「この阿呆!」


 能天気に笑う傳八の胸ぐらを、白兵衛は乱暴に掴み上げた。


「いいか、よく聞け! 今回は今までとは違う! 遊びじゃねえんだ!」

「え、えっ?」

「今川の当主がいなくなったんだぞ? 山那の奴らは隙をついて、本気で細河を滅ぼしに来る」

「で、でも……山那は一応、同じ今川家に仕えてる仲間なんじゃ」


 傳八は飲み込めていないのか、困惑するばかり。

 白兵衛はそんな傳八の顔を覗き込み、青筋を浮かべて詰め寄る。


「そんな理屈だけがまかり通るほど、戦国の世は甘くねえんだよ……奴らは必ず来る! 土地も、女も、俺たちの命も、根こそぎ奪うつもりで来るんだ! 負けたら終わりなんだよ!」


 白兵衛の剣幕に、傳八は青ざめてコクコクと頷く。

 白兵衛は傳八を突き放すと、自分の小屋へ走った。

 筵の下に隠しておいた一振りの刀を掴み、腰に差す。


「行くぞ傳八。城へ戻る!」

「お、おう!」


 浮かれる村人たちを尻目に、二人は山道を駆け上がった。

 背後で鳴り響く鐘の音は、もはや希望の鐘などではなく、滅びへのカウントダウンにしか聞こえなかった。

 城へ辿り着いた頃には、すでに戦端は開かれており、それは戦と呼べるような生易しいものではなかっく──まごうことなき虐殺だった。


「ひえぇぇっ!」

「下がるな! 槍衾を作れぇ!」


 怒号と悲鳴が交錯する。

 大手門はすでに破られ、黒い津波のような軍勢が城内へと雪崩れ込んでいた。

 山那軍──その勢いは、白兵衛がこれまで見たどの戦とも違っていた。

 兵の一人一人が、殺意の塊となって襲いかかってくる。


「くそっ、もう籠城戦に……どけェ!」


 白兵衛は刀を抜き放ち、目の前の敵兵を斬り伏せる。

 鮮血が視界を染めるが、拭う暇もない。

 傳八も震える手で槍を構え、必死に白兵衛の背中を守っていた。


「アニキ、強すぎるよこいつら! まるで鬼だ!」

「泣き言言ってんじゃねえ! 死にたくなかったら槍を振れ!」


 細河の兵たちは、元継の温情に甘え、平和ボケしていた。

 対する山那の兵は、飢えた獣のように獰猛だ。

 その差は歴然だった。

 庭園の自慢だった松の木が、火矢を受けて次々と燃え上がっていく。

 千鶴が言っていた籠城の備えとしての役割を果たす前に、全てが灰に変わろうとしていた。


「──通るぞ」


 ふと、戦場の喧騒を切り裂くように、凛とした声が響いた。

 それは決して大声ではなかったが、不思議と戦場の隅々まで届く、冷徹な響きを持っていた。

 燃え盛る炎の向こうから、一騎の武者が現れる。

 漆黒の甲冑に身を包み、巨大な黒毛の駿馬を駆る若武者。

 その姿を見た瞬間、白兵衛は動けなくなった。


「ああ……っ」


 美しい、と思ってしまった。

 地獄のような戦場にあって、その男だけがまるで切り取られた絵画のように美しかった。

 銀色に輝く髪を靡かせ、口元を歪める眉目秀麗の青年。

 周囲の兵たちが泥にまみれて殺し合う中、彼だけが静謐な空気を纏っている。


「我が名は山那市之丞(いちのじょう)景胤(かげたね)。山那景隆の嫡男にして、この戦の総大将である!」


 景胤が軽く手綱を引くと、黒馬が嘶き、前脚で細河の兵を踏み潰した。

 槍を突き出そうとした武者たちが、景胤が一太刀振るうだけで、枯れ木のように宙を舞う。


「義元公の死から時を置かずして、我が土地を簒奪せしめんとする不遜なる賊軍どもよ! 父上に代わり征伐してくれるわ!」


 白兵衛は、景胤が言い放つ偽りの大義名分など耳にしていなかった。

 その動きに目を奪われていた。

 動きに一切の無駄がなく、流れる水のように人を斬っている。


「化け物かよ……」


 白兵衛は本能的な恐怖に足をすくませる。

 自分が目指していた天下を取る武将の姿が、そこにあった。

 泥水をすすって生きる自分と、天を駆ける彼。

 そのあまりの格差に、嫉妬すら通り越していた。

 景胤は白兵衛たち雑兵には目もくれず、一直線に本陣へと馬を進める。

 その先には、馬廻りが壊滅し、守る者がいなくなった総大将──細河元継の姿があった。


「細河遠江守殿とお見受けする」


 景胤は馬上で優雅に一礼した。

 礼節を重んじているのではない。

 獲物に対する、最低限の作法だった。


「……山那の小倅か。見事な采配だ。どうやらここまでのようだな……頼む。わしの首一つで、民の命は助けてもらえぬだろうか」

「取引はせぬ。これは威を示す殲滅戦よ。その御首、頂戴致す。我が覇道の糧となるがいい」


 景胤の声は氷のように冷たかった。

 元継は静かに立ち上がり、槍を構える。

 平和を愛し、民を守ろうとした老将の最後の意地。


「ならば、参る!」


 元継が裂帛の気合と共に突きを放つ。

 だが。

 ヒュンッ──風が鳴った瞬間、勝負は決していた。

 景胤の太刀が、銀色の軌跡を描いて一閃する。

 元継の槍が半ばから断ち切られ、そのまま刃が首筋を走り抜けた。


「──ッ」


 桜の花びらのように、紅が空中に散った。

 元継の体がゆっくりと崩れ落ちる。

 あまりにもあっけない時代の終焉。

 景胤は馬から降りることなく、宙を舞った元継の首を、左手で無造作に掴み取った。

 そして燃え盛る城と、呆然と立ち尽くす兵たちに向けて、その首を高々と掲げる。


「敵将、細河元継──討ち取ったり!」


 その声は朗々たる勝利の宣言であり、同時にこの島における旧時代の終わりを告げる弔鐘でもあった。

 白兵衛は、ただ震える手で刀を握りしめ、その光景を焼き付けることしかできなかった。

 悔しさも、怒りも、全てをねじ伏せる圧倒的な「個」の力が、そこにあった。

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