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#4 隔離

 西暦二〇十七年──東京、港区。

 地上五十階建ての超高層ビル──大國ミレニアムタワー。

 その最上階にある役員室のさらに奥、選ばれたごく一部の人間しか存在を知らぬ隠しエレベーターの先に、その部屋はある。

 地下深くにあるコントロールルーム。

 壁一面を埋め尽くす数百のモニターが、青白い光を放ち続けている。

 空調の低い唸りと、サーバーの冷却音が響くだけの無機質な空間。

 そこは、一人の男が神の視点で「世界」を見下ろすための玉座であった。


「本日の定時報告を」


 部屋の中央、最高級の革張りの椅子に深く腰掛けた仙斎慶一郎が、グラスの中の赤ワインを揺らしながら呟く。

 その背後には、秘書の衣笠がタブレット端末を手に直立していた。


「はっ。本日十二時時点での損耗報告です。エリアCにて一名の生体反応消失を確認。個体番号四〇九──山賊グループの頭目として活動していた個体です」

「死因は」

「頸動脈切断による失血死。即死です」


 衣笠の淡々とした報告に、仙斎は興味なさそうにモニターの一角へ視線を流す。

 そこには、首のない男の死体がカラスに啄まれている映像が映し出されていた。

 高精細な4Kカメラが捉えるそれは、映画のワンシーンのようでありながら、紛れもない現実の死だ。

 だが、仙斎の瞳に感情の色はない。

 彼にとってそれは人間ではなく、償却された資産に過ぎないからだ。


「四〇九か。山賊の子として設定した個体だったな。まあ、賊生まれとしてはよく生きたほうだろう」

「続いて、出生報告です。エリアAの農村部にて、第一世代の個体二〇五と個体二一一の間に、女児一名が誕生。母子共に健康状態は良好。遺伝子異常も見られません」

「ほう」


 仙斎の手が止まる。

 口元に微かな笑みが浮かんだ。


「素晴らしい。純粋培養された武士の遺伝子が、こうして次世代へと継承され始めたか。あと十年、いや数年もすれば、出生率は指数関数的に跳ね上がるだろう」


 仙斎はワインを一口含む。

 芳醇な香りが鼻腔をくすぐるが、彼が味わっているのはアルコールではない。

 自身の計画が完璧に進行しているという、全能感という名の美酒であった。


「それで、四〇九を処理したのは誰だ?」

「処理したのは個体番号八〇八──通称白兵衛。先ほどの映像を再生します」

「八〇八か……ふむ」


 衣笠が端末を操作すると、中央のメインモニターに映像が呼び出される。

 白兵衛が山賊の首を刎ねた瞬間。

 その太刀筋、踏み込み、そして人を殺めた直後の揺らぎない表情全てを記録していた。


「……検体・甲種八〇八番。身体能力、反射神経、動体視力、いずれも第一世代の中ではトップクラスの数値を叩き出しています。ただ、思考パターンに多少の偏りが見られ、教育係の洗脳が完全には浸透していない箇所がございますが……」

「構わん」


 仙斎は画面の中の白兵衛を、まるで品定めするように見つめた。


「死んでも構わん実験体と割り切っているが、愛着が湧いてしまいそうだ」


 その視線は、優秀な競走馬を見る馬主のそれに近い。

 愛情など欠片も存在しなかった。

 あるのは、最高傑作になり得る素材への執着のみ。


「野生の獣か。教育係の教えよりも、本能が勝っているようだ……面白い。こいつがどこまで壊れずにいられるか見ものだな」

「経過観察を続行します」

「ああ。だが、少し退屈だな」


 仙斎は空になったグラスをサイドテーブルに置くと、手元のキーボードに指を這わせた。

 カタカタと乾いた音が響く。


「安定は停滞だ。水槽の水が淀んでは、魚も育たん。ここらで少し、水槽を揺らしてやる必要がある」

「仙斎様、それはつまり……」

「そろそろ次のフェーズへ移行しようじゃないか」


 仙斎はエンターキーを強く叩いた。

 画面上に『TRANSMISSION COMPLETE』の文字が浮かぶ。


「……始まりますか」

「ああ。親を失った子供たちが、限られた餌を巡ってどう殺し合うか。実験の第二段階だ。たっぷりと楽しませてもらおうか」


 モニターの向こうでは、何も知らぬ島民たちが、今日も作られた平和の中で眠りについている。

 その静寂が、間もなく地獄の業火に包まれることを、神を気取る男だけが知っていた。

 警視庁本部庁舎。

 その一角にある、組織犯罪対策部の分室。

 窓のない狭い部屋には、何年も積み上げられたままの段ボールと、紫煙が染み付いた書類の山が壁を作っていた。


「……ああ、もう!」


 ダンッ、と乱暴にファイルを机に叩きつける音が響く。

 声の主は、二十代後半の女性刑事、小野田美咲。

 普段は冷静なキャリア組のエリートだが、今は整った眉を柳眉に逆立てていた。

 その手には、コーヒーのシミがついた抗議文が握られている。


「また門前払い! 大國ミレニアム・バイオスフィア……あの島の運営委員会、今度は弁護士団の名前を連ねて抗議してきましたよ。警察権力の不当な介入は、学術研究への冒涜であり、居住者の人権侵害である……ですって!」


 美咲は憤懣やるかたない様子で、パイプ椅子にドカッと座り込んだ。

 その向かいのデスクで、一人の男が気だるげにタバコの煙を吐き出していた。

 藤堂彬。四十二歳。

 無精髭に、ヨレヨレのシャツ。

 刑事というよりは、疲れた探偵のような風貌だが、その眼光だけはナイフのように鋭い。


「喚くな小野田。予想通りだろうが」

「予想通りって……藤堂さん、悔しくないんですか!? あそこは明らかに真っ黒ですよ!」

「黒かろうが白かろうが、俺たちには手が出せねえ。そういう仕組みになってんだよ、あの島は」


 藤堂は灰皿にタバコを押し付け、新しい一本を取り出す。

 そして、壁に貼られた日本地図──その東海沖に記された、赤いバツ印を指差した。


「国家戦略特区・環境文化保全実証実験区。それが奴らの着ている最強の鎧だ」


 藤堂は忌々しそうに吐き捨てる。

 仙斎慶一郎が主導するそのプロジェクトは、表向きには輝かしい美名で飾られている。

 地球環境の悪化に備え、電力も化学物質も一切使用しない、江戸時代レベルの循環型社会が現代でも成立するかを検証する。

 その崇高な実験のために、現代文明を拒否したボランティアたちが住んでいる──と。


「『外部からの化学物質やウイルスの持ち込みは、実験データを汚染するバイオハザードに等しい』……だそうだ。だから警察だろうが何だろうが、事前の検疫と許可なき立ち入りは一切禁止。事実上の治外法権だ」

「そんな屁理屈、通るわけないじゃないですか!」

「通るんだよ。国がバックについてりゃな」


 藤堂はデスクの引き出しを蹴飛ばすように開け、一冊の分厚いファイルを取り出した。

 そこには『産業廃棄物広域処理計画』という古いラベルが貼られている。


「小野田、お前あの島の土台が何でできてるか知ってるか?」

「土台……ですか? 確か、埋め立て地だと」

「ああ。ただの土砂じゃねえ。二〇〇〇年前後、日本中が行き場を失って溢れ返っていた『産業廃棄物』と『建設残土』だ」


 藤堂の言葉に、美咲が息を呑む。


「当時、国はゴミの処分場不足でパンク寸前だった。そこに救世主のように現れたのが仙斎だ。『私が責任を持って処分し、さらにそこを緑あふれる実験場に変えてみせる』とな。奴は国の汚れ仕事を一手に引き受け、海を埋め立ててあの島を作った」

「じゃあ、あの美しい島の下には……」

「日本中のゴミが眠ってるのさ。国としちゃあ、頭の上がらねえ大恩人だ。だから特区申請なんていう無茶な要求も、飲まざるを得なかった。ゴミの上に建つ楽園……それが大國ミレニアム・バイオスフィアの正体だ」


 美咲は言葉を失う。

 エコ、環境保護、スローライフ。

 そんな綺麗な言葉の裏に、国家ぐるみの産廃処理という暗部が隠されていたとは、と。


「警察上層部にも、仙斎の息がかかった天下りがうじゃうじゃいる。俺たちが動こうとすれば、上から圧力がかかり、横からは弁護士が人権を盾に殴ってくる。鉄壁の要塞だよ」

「……じゃあ、諦めるんですか?」


 美咲が悔しそうに唇を噛む。

 藤堂は火のついたタバコを指で弄びながら、ニヤリと笑った。


「諦める? バカ言え。俺はな、へそ曲がりなんだよ」

「え?」

「完璧すぎるんだよ。ゴミの島なのに、腐臭の一つも漏れてこねえ。データも、法律も、綺麗すぎて反吐が出る」


 藤堂はもう一冊、別のファイルを机の上に放り投げた。

 年季の入ったそのファイルには、『二〇〇〇年度・広域乳幼児連続失踪事案』と記されている。


「十七年前。俺がまだ新米だった頃、不可解な事件が起きた。全国各地で、身寄りのない赤ん坊や、貧困家庭の乳児が次々と消えた。誘拐か、人身売買か……一番不気味なのは、家族が黙秘か音信不通ってとこだったな。結局、尻尾は掴めず迷宮入りした。もう誰も知らねえ」

「まさか、それが……」

「証拠はねえ。だが、どの件もたどれば大國グループが絡んでいた。俺の鼻が言ってるんだ。あの厚いコンクリートと法律の壁の向こうで……何かとんでもない『悪臭』が発酵してやがるってな」


 藤堂は立ち上がり、窓のない壁を睨みつける。

 その視線の先には、見えない孤島があるはずだった。


「経済事犯だの環境法だの、そんなチャチな容疑じゃねえ。奴らはもっと深い闇の中で、とんでもない化け物を育ててやがる気がするんだ」


 藤堂の勘は、確信に近い警鐘を鳴らしていた。

 十七年前、闇に消えた赤子たち。

 ゴミの上に築かれた、偽りの楽園。

 その二つが繋がった時、日本を揺るがす災厄が幕を開けることを、歴戦の刑事だけが予感していた。


「行くぞ小野田。正面突破が無理なら、搦手から攻める。ゴミの島だ……必ずどこかに汚水が漏れ出してる穴があるはずだからな」

「は、はいっ!」


 美咲が慌ててファイルを抱え直す。

 紫煙の向こうで、藤堂の瞳が獲物を狙う獣のように光った。

 現代社会の闇に守られた実験場。

 その強固な殻に、小さな亀裂が入ろうとしていた。

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