#3 大名
「細河様の娘ぇ?」
白兵衛と傳八は同時に声を上げる。
二人は顔を見合わせ、千鶴と名乗る少女を眺める。
「細河様の娘って……」
「あ、噂で聞いたことあるぜアニキ。器量のいい齢十七の姫がいるって」
「しかし、なんでそんな高貴な姫が外に? ていうか本当に──」
千鶴は扇を仰ぎつつ、小さく鼻を鳴らす。
指の所作が優雅に艶を語る。
二人は千鶴の一挙一動に目を離せないでいた。
白兵衛は救出の礼を聞いておらず、傳八も本当に姫なのかと怪訝な顔を浮かべていたが、彼女の所作と服装で本物の姫君だと合点する。
「城の書物だけでは知り得ないこともあるのよ。外へ出て見聞を広げる必要があった。それだけのこと」
「……それで死んだらどうするんだよ。今だって危なかっただろ」
「己が身惜しさに臆して、何が武家の娘か。それにこうして無事だったのだからいいでしょう。今は死ぬときではなかったというだけよ」
自省せず、助かったのは天運だと言う千鶴。
そんな厚顔無恥な態度をとる彼女に、白兵衛はため息を吐く。
「はあ、お前さんのことはよく分かった。城の連中も心配してるだろ。もう帰れよ」
追い払うように、しっしと手を払う白兵衛。
だが千鶴はキョトンとした顔で小首を傾げる。
「何を言っているの? 城まで私一人で帰れと?」
「はあ? 送ってけってのか。何の義理でそんな──」
「助けたのなら、最後まで護衛するのが武士の務めではないの?」
苦言を漏らした白兵衛だったが、千鶴の『武士』という言葉に耳をぴくりと動かし、口元に笑みを浮かべる。
「武士、武士か……そうだな。確かに細河の姫さんなら、領地にいる俺達が守るのが筋ってもんだ。いいだろう。城まで護衛してやるよ。武士として」
「アニキ……」
木陰から覗く城を指差し、鼻息荒く先導する白兵衛。
傳八と千鶴は、足早に白兵衛についていく。
「雑兵は扱いやすいわ」
「ん? なんか言ったか?」
「いえ、別に」
森を抜け、城のある山を登る一行。
白兵衛と傳八に挟まれながら歩く千鶴は、逐一に辺りを睥睨する。
「そんなに不安か? 誰か来たら音で分かるだろ」
白兵衛は前を向いたまま、千鶴に声をかける。
野生が息吹く山で育った白兵衛は、極限まで感覚が研ぎ澄まされている。
息遣い、足音、布の擦れる微かな音だけで、千鶴が今どんな仕草をしているか、目で見ずとも確認できる。
「……あなたたち、妙なことを聞くようだけど、誰かに見られていると思ったことない?」
「そりゃあるだろ。鹿や猪なんてしょっちゅう見るし」
「そうじゃない。もっと漠然としたものよ。得体のしれないものから、常に観察されているような感覚って言ったらいいのか……」
千鶴の言葉に、白兵衛と傳八を顔を見合わせる。
「知らないな。妖怪でもいるってか?」
「うへぇ、やめてくだせえよ姫様。もののけの話っすか?」
「そういうことではないのだけど……まあ、分からないのならいいわ」
千鶴はふと足を止め、頭上を覆う木々の隙間から空を見上げた。
抜けるような蒼天──だが、彼女の瞳にはその青さがどこか作り物めいた、薄い膜のように映っていた。
時折、遥か高みで何かがきらりと光る気がする。
鳥ではない。雲でもない。
神の目か、あるいは悪魔の覗き窓か。
幼い頃から感じる、肌にまとわりつくような視線の正体を、彼女はずっと探っていた。
「行くぞ。遅れると怒られるのは俺たちなんだから」
白兵衛の声に、千鶴は思考の海から引き戻される。
パチンと扇子を閉じ、再び歩き出した。
「お、見えてきたぞ」
山道を抜け、開けた視界の先に巨大な建造物が現れる。
黒塗りの板壁に覆われた要塞──細河城。
石垣は高く積み上げられ、狭間からは常に数名の門番が外を監視している。
「でっけぇ……いつ見ても圧巻だぜ。なあアニキ」
「こんなトコに住んでんのかよ。厠行くのも一苦労だな」
白兵衛と傳八が口を開けて見上げていると、大手門を守る武士たちが血相を変えて駆け寄ってきた。
「ひ、姫様!? 千鶴姫様ではありませんか!」
「なんと、これほど遅くまでお戻りにならぬとは……城内は大騒ぎになっておりますぞ!」
槍を持った兵たちが、わらわらと千鶴を取り囲む。
その剣幕に傳八は「ひえっ」と縮こまり、白兵衛の後ろに隠れる。
だが、千鶴は動じることなく、涼しい顔で彼らを見据えた。
「騒々しいわね。少し散策をしていて道に迷っただけよ」
「し、しかし護衛もつけずに……万が一のことがあれば我らの首が飛びます!」
「万が一なら起きたわ。山賊に囲まれたもの」
「なっ!?」
武士たちの顔色がさっと青ざめる。
千鶴は扇子で白兵衛たちを指し示した。
「けど、そこの者たちが救ってくれたの。彼らがいなければ、私は今頃山賊の慰み者になっていたでしょうね」
「なんと……」
武士たちの視線が一斉に白兵衛に向けられる。
鋭い眼光。値踏みするような視線。
普通の百姓なら竦み上がるところだが、白兵衛は胸を張り、不敵な笑みで返した。
「ま、そういうこった。姫さんは無事送り届けたぜ。じゃあな」
「待ちなさい」
踵を返そうとした白兵衛を、千鶴の声が引き止める。
「命の恩人を門前払いしては、細河の名折れになります。中へ入りなさい。父上にも紹介するわ」
「え、いいのかよ? 城の中なんて入ったことねえぞ」
「早く来なさいよ」
門番たちは困惑したように顔を見合わせるが、千鶴の一睨みで道を開けた。
城内は、外の荒々しさとは裏腹に、静謐な空気に包まれていた。
手入れの行き届いた庭園。白砂が敷き詰められた道。
だが、白兵衛の目は花鳥風月よりも、別のものに向いていた。
「松の木がやけに多いな。籠城用か?」
城内の至る所に植えられた松の木を見て、白兵衛が呟く。
千鶴は感心したように頷いた。
「へえ、それくらいは知ってるのね」
「え? なんか役に立つんすか?」
「松の皮は非常時には食糧になるの。餅に混ぜて飢えを凌ぐ。藁は燃料に、脂は松明になる。この城のものはすべて、戦うために存在しているのよ」
千鶴の言葉に傳八の顔が引きつる。
「松の皮ぁ? そんなもん食うのかよ……」
「生きるか死ぬかの瀬戸際に、味など二の次よ。私たちは常に死と隣り合わせ。この華やかな着物も、城も、いつ灰になるか分からない」
千鶴は自身の艶やかな着物の袖を摘み、自嘲気味に笑う。
「私も同じ。いつか政略の道具として、今川家か、あるいは別のどこかへ送られる身。戦国の世に女の幸せなどありはしないわ」
その横顔には、十七の少女には似つかわしくない、諦観の色が滲んでいた。
白兵衛は何も言わず、ただ黙って松の木を見上げた。
一国一城の主。それはただふんぞり返っているだけの存在ではない。
民を、城を、己の命を削ってでも守り抜く覚悟が必要なのだと、この城の空気か教えているようだった。
「父上、入りますよ」
通されたのは、城の奥まった場所にある縁側だった。
そこでは一人の男が、散り始めた桜を眺めながら茶を啜っていた。
「おお、千鶴か。無事に戻ったか」
細河遠江守元継。
この匣爾国の南半分を治める大名である。
四十半ばほどの、穏やかな顔つきの男だった。
猛将というよりは、どこか知的な雰囲気を纏っている。
「ご心配をおかけしました、父上。山賊に襲われましたが、こちらの者たちに助けられました」
千鶴に促され、白兵衛と傳八はぎこちなく平伏する。
元継は茶碗を置き、ゆっくりと二人の前に歩み寄った。
「面を上げよ」
言われるがままに顔を上げる。
元継の瞳は、深く、静かな湖のようだった。
威圧感はない。だが、底知れぬ深みを感じさせる。
「娘を救ってくれたこと、大儀である。礼を言おう」
「い、いえ! 俺たちは通りがかっただけで……なあ、アニキ」
「ああ。武士を目指す者として、当然のことをしたまでだ」
白兵衛は畏まることなく、堂々と言い放つ。
元継は愉しげに目を細めた。
「ほう、武士を目指すと。どこの家の者か?」
「家なんてねえよ。俺は牢人の子だ。今は百姓の真似事をしてるが、いつか必ず我が野望を果たします」
「野望、とは?」
「天下統一です」
一瞬の静寂の後、控えていた家臣たちが次々と笑い声をあげる。
だが、白兵衛は真っ直ぐに元継を見据えていた。
「この島を出て、本土へ渡る。武功を上げて大名になり、日の本全てを俺の庭にする。それが俺の夢です」
元継はほう、と息を吐き、再び庭の桜に視線を移した。
「天下、か……若者らしい良い夢だ。だがな、若いの」
「え?」
「天下を統一したとして、その先に何がある? 戦で得た土地は戦でしか守れぬ。血で購った平和はまた新たな血を呼ぶだけだ」
元継の声は静かだが、確かな重みがあった。
「わしはな、この小さな島で十分なのだ。民が飢えず、今日を平穏に暮らせる。それ以上の望みなどない。領土を広げれば、それだけ守らねばならぬ民が増え、死ぬ者も増える。わしは、手の届く範囲の幸せを守りたいのだ」
白兵衛は眉をひそめる。
それは、彼が思い描いていた「大名」の姿とはあまりにかけ離れていた。
もっと貪欲で、覇気に満ちたものを想像していた。
だが目の前の男は、あまりに枯れていると──
「……細河様、それでいいんですか? 隣の山那だって、この領地を狙ってるんですぜ?」
「だからこそ耐えるのだ。こちらから戦を仕掛ければ泥沼になる。耐えて、守って、民を死なせない。それがわしの戦だ」
元継は白兵衛の方へ向き直る。
その目には、先ほどまでの穏やかさとは違う鋭い光が宿っていた。
一人の為政者としての強固な意志の光が。
白兵衛は息を呑む。
覇気がないのではない。
この男は、誰よりも重いものを背負っているのだと、本能が理解した。
「……でも、俺の夢は変わりません」
「そうか」
元継はゆっくりと白兵衛の体躯を見回した。
山野を駆け回り鍛え上げられた筋肉、そして大名を前にしても揺らがぬ度胸に、元継は惹かれつつあった。
「若者よ、名はなんという」
「……白兵衛だ」
「良い名だ。白兵衛。お主、ただの牢人で終わるには惜しい器よ」
元継はニヤリと笑った。
それは初めて見せる、武人としての顔だった。
「どうだ、儂に仕えぬか?」




