#22 武士
大國ミレニアムタワー最上階。
かつて玉座と呼ばれたその場所は、今はただの静まり返った密室だった。
景胤の亡骸は、衣笠の手配した黒服たちによって運び出され、床には赤黒い血痕だけが残されていた。
「終わりだ、仙斎」
藤堂が低い声で告げた。
彼の手には、まだあのファイルが握られている。
「この証拠は全て、俺の仲間がネット上にばら撒く。警察やマスコミが握り潰そうとしても、もう手遅れだ。アンタの築いた城は、今夜崩れ落ちる」
だが、仙斎は動じるどころか、優雅にグラスを傾けていた。
窓の外の夜景を見つめるその横顔には、敗者の悲壮感など微塵もない。
「手間が省けたよ藤堂君。私の方でも、さっき送信ボタンを押したところだ」
「……あ?」
「人身売買の記録、実験データ、そして不都合な死者たちのリスト……全て、私が管理していたサーバーからメディアへ配信した」
仙斎は悪びれもせず、事もなげに言った。
藤堂たちは絶句する。
自らの破滅を自ら招いたというのかと。
「見苦しく椅子にしがみつくのは、私の美学に反する。仙斎派の連中は大慌てだろうがね」
仙斎は立ち上がり、藤堂たちの前まで歩み寄った。
「私が撒いた種は、すでに芽吹き始めている。これ以上、私が表舞台に立つ必要はない。今回は私の負けだ。君たちの勝ちだよ」
それは敗北宣言でありながら、どこか勝利宣言のようにも響いた。
ゲームセットを告げる主催者の顔。
仙斎は衣笠を伴い、裏口のエレベーターへと向かう。
「待て! 逃げる気か!」
白兵衛が叫ぶが、仙斎は振り返らなかった。
「逃げるのではない。退場するだけさ……今は、ね」
エレベーターの扉が閉まる。
タワーの裏口から出た仙斎を待ち受けていたのは、情報を聞きつけたマスコミのフラッシュの嵐だった。
だが仙斎は一言も発さず、一度だけカメラに向かって不敵に微笑むと、迎えの車に乗り込んだ。
それが、公衆の面前に彼が姿を現した最後の瞬間だった。
翌朝──日本列島に激震が走った。
街頭ビジョン、スマホの画面、新聞の一面。
あらゆるメディアが、信じがたいニュースを報じていた。
『仙斎内閣、総辞職』
『特務侍隊、解散命令』
『大國グループへ強制捜査──十七年前の乳幼児集団誘拐に関与か』
あまりに唐突な幕切れに、通勤途中の人々は足を止め、呆然と画面を見上げるしかない。
ネット上では、流出した内部データをもとにファクトチェッカーが動き出し、瞬く間に真実が拡散されていった。
『おい、侍たちの正体って……十七年前の行方不明児らしいぞ』
『マジかよ。誘拐した子供を島に閉じ込めて、洗脳して兵士にしてたってこと?』
『現代の人身売買じゃん……胸糞悪い』
人権団体や野党は、鬼の首を取ったように糾弾を始めた。
児童虐待。殺人教唆。憲政史上最悪の犯罪。
仙斎の名は、一夜にして英雄から稀代の悪党へと墜ちたかに見えた。
だが──世界はそう単純ではなかった。
『でもさ、犯罪減ったのは事実だろ?』
『売った親が悪いんじゃね? 仙斎は捨てられた子供に居場所と力を与えただけだ』
『今の腐った政治家より、よっぽどマシだったよ』
『戻ってきてほしい……強い日本を返してくれ』
擁護する声。
英雄の帰還を望む声。
それらは批判と同じか、それ以上の熱量を持ってネットの海を埋め尽くした。
仙斎が提供した強い統治という劇薬は、国民の心に深く根を張り、容易には消えない中毒症状を引き起こしていたのだ。
騒動の渦中、タワーの裏口。
解放された白兵衛たちの前に、数台の黒塗りの車が止まった。
降りてきたのは、大國グループの残党──あるいは、仙斎が手配していた別動隊の男たちだった。
「お迎えに上がりました。鷹丸様、初梅様」
男たちは、白兵衛たちには目もくれず、忍びの二人だけを促した。
「保護、という名目ですが……我々と共に来ていただきます。あなた方の特殊技能は、表社会では生きにくいでしょう」
「おい、待てよ! どこへ連れて行く気だ!」
白兵衛が割って入ろうとするが、鷹丸がその手を掴んで止めた。
「……よせ、白兵衛」
「鷹丸?」
「あいつらの言う通りだ。俺たちは忍びだ。光の当たる場所じゃあ、息が詰まっちまう」
鷹丸は寂しげに笑った。
その隣には、景胤の死以来、魂が抜けたようになった初梅がいる。
彼女はもう、言葉を発することも、戦うことも忘れてしまったかのようだ。
「こいつの面倒も見なきゃなんねえしな……元気でな、白兵衛」
鷹丸は初梅の肩を抱き、車へと乗り込んだ。
ドアが閉まり、車列は走り去っていく。
彼らがどこへ行くのか──地方の山奥か、あるいは仙斎の新たな隠れ家か。
白兵衛は、遠ざかるテールランプを、ただ黙って見送るしかなかった。
それから、数ヶ月が過ぎた。
季節は春。
仙斎の失脚に伴い、藤堂たちに出されていた懲戒免職は白紙に戻された。
藤堂、美咲、牧村は警視庁に復帰した。
もちろん、英雄扱いではない。
組織の不祥事を知りすぎた彼らは、窓際部署へと追いやられ、出世コースからは完全に外れた。
だが、定食屋で安いランチを囲む彼らの顔は、以前よりもずっと晴れやかだった。
「ま、世の中そう簡単に白黒つかねえってこったな」
藤堂は笑いながら、カツ丼をかき込んだ。
そして──築四十年の古びたマンション。
身寄りのない白兵衛と千鶴は、藤堂が身元引受人となり、あの狭い1LDKで奇妙な共同生活を続けていた。
「こら藤堂! また脱ぎっぱなしにして! 洗濯カゴに入れろと言ったでしょう!」
「へいへい、すんません姫様……」
千鶴は現代の生活に驚くほど順応していた。
家事を完璧にこなし、だらしない藤堂の生活を完全に管理下に置いている。
一方、白兵衛は早朝から新聞配達のバイトに精を出し、夜は猛勉強に明け暮れていた。
そして四月。
桜が舞う通学路を、二人の若者が歩いていた。
慣れないブレザーの制服を着て、ネクタイに苦戦している白兵衛。
隣には、セーラー服を凛と着こなす千鶴。
「似合わねえな、俺」
「馬子にも衣装よ。背筋を伸ばしなさい」
千鶴が背中を叩く。
二人は高校生として、新たな生活を始めようとしていた。
雑踏の中、千鶴がふと足を止め、真剣な眼差しで白兵衛を見た。
「私、決めたの」
「あ?」
「いつか、自分の本当のルーツを探すわ。どんな親だったのか、なぜ私を手放したのか……真実を知ることから逃げない。過去を受け入れて、この未来の世界で生きていく」
それは、被害者としての自分との決別であり、一人の人間としての自立の宣言だった。
白兵衛は眩しそうに千鶴を見つめ、それからビルの隙間から覗く青空を見上げた。
そこにはもう、威圧的な大國タワーの影はない。
「俺も決めたぜ」
「何を?」
「天下を取る」
白兵衛はニカっと笑った。
腰に刀はない。
だが、その瞳に宿る野心は、島にいた頃よりもずっと強く、熱く燃えていた。
「刀じゃねえ。ここのやり方で……この広い世界で、必ず這い上がってやる。見てろよ、景胤、仙斎」
かつて夢見た「天下統一」とは違う。
だが、現代社会という果てしなく広く、理不尽な戦場で、彼は自分の城を築くことを誓ったのだ。
「行きましょう、白兵衛」
「ああ!」
二人は都会の雑踏の中へ、力強い足取りで踏み出した。
南洋に浮かぶプライベートアイランド。
波の音だけが響くテラスで、仙斎慶一郎は優雅にチェスの駒を動かしていた。
対面に座るのは、変わらず無表情な衣笠だ。
「報告します。島の子供たちの保護が完了しました」
衣笠がタブレットを見ながら淡々と告げる。
「政府は対応に追われています。多くの無戸籍児童を一箇所に収容すれば暴動が起きる。かといって即座に社会復帰させるには、彼らの倫理観は危険すぎる」
「ふむ。で、役人たちはどういう結論を出した?」
「『分散収容』です。全国四十七都道府県の児童養護施設、および更生保護施設へ、数十名単位でバラバラに移送。徹底した監視下で、現代社会への適応プログラムを受けさせる……表向きは『手厚い保護』ですが、実態は危険因子の希釈と隔離です」
それを聞いた仙斎は、チェックメイトの駒を置き、満足げに微笑んだ。
「愚かな。希釈ではない。拡散だよ」
仙斎は立ち上がり、広がる海を見つめた。
「アインシュタインは言った。『常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことである』と」
彼は空に手を伸ばす。
「彼らは十八歳まで武士として育った。その骨の髄まで染み込んだ闘争本能、忠義、そして死生観……それは『常識』として、現代社会の教育ごときでは決して上書きできない」
一万人の武士が日本全国の学校へ、社会へ、路地裏へと放たれたのだ。
彼らは必ず頭角を現す。
いじめられっ子を守るために暴力を振るうかもしれない。
腐った教師を論破するかもしれない。
あるいは、新たな組織を作り、現代の法では裁けぬ悪を斬るかもしれない。
「これからだよ。日本が変わるのは」
仙斎はグラスを掲げ、見えぬ子供たちへ祝杯をあげた。
「楽しみだねえ、衣笠。十年後のこの国が、どう変わっているか」
モニターには、日本地図の上に無数の光の点が散らばっていくシミュレーション映像が映し出されていた。
「全ては、計画通りだ」
プロジェクト武士──Mission Complete.




