#20 毒杯
川沿いに建つマンション。
藤堂の隠れ家であるその一室は、重苦しい沈黙とタバコの紫煙に包まれていた。
窓には厚手の目張りがされ、外からの光と視線を完全に遮断している。
「……本物だな」
ちゃぶ台の上に広げられた一冊のファイルと、古びた桐箱。
それを食い入るように見つめていた男──警視庁捜査一課長、合田が呻くように言った。
深夜、尾行を撒いて合流した彼の顔色は、この数日の心労を物語るように土気色だったが、その眼光だけは鋭く光っていた。
「筆跡鑑定をするまでもない。この帳簿のサイン、そして裏金の出納記録……紛れもなく大國グループの裏帳簿だ。それに、このへその緒……DNA鑑定にかければ、白兵衛と仙斎の親子関係は九九・九パーセント証明されるだろう」
合田は震える手で眼鏡の位置を直した。
藤堂たちが廃墟の地下から持ち帰ったこの証拠は、まさに日本を揺るがす核爆弾だった。
「これがあれば勝てますよね? 仙斎を逮捕できるんですよね?」
牧村が縋るように身を乗り出す。
だが、合田は苦渋に満ちた顔で、ゆっくりと首を横に振った。
「……無理だ」
「はあ? なんでだよ! こんな決定的なもんがあるのに!」
白兵衛が吠える。
合田は顔をしかめ、天井を仰いだ。
「どこに出すつもりだ? 警察か? 検察か? それともマスコミか?」
「そりゃあ……全部だよ! ばら撒けば誰かが食いつくだろうが!」
「甘いな。今の日本は、お前らが思っている以上に腐りきっている」
合田は一本のタバコを取り出し、火もつけずに指で弄んだ。
「検事総長は仙斎の大学時代の先輩で、週末にはゴルフを楽しむ仲だ。主要メディアの株主リストを見れば、大國グループの関連企業がずらりと並んでいる。警察上層部に至っては、『特務侍隊』の華々しい成果に酔いしれ、仙斎に尻尾を振っている状態だ」
合田の言葉は、冷酷な現実を突きつける。
「正規のルートで告発状を出してみろ。受理される前に握り潰され、証拠品は『紛失』扱い。そしてお前たちは、テロリストの残党として秘密裏に始末されるのがオチだ。今のこの国に、この爆弾を受け止められる正義の受け皿は……どこにもない」
その場にいる全員が言葉を失った。
命がけで敵の喉元に突きつける刃を手に入れたはずが、その刃を振り下ろす場所さえ奪われている。
白兵衛は行き場のない怒りをぶつけるように、壁をドゴォッと殴りつけた。
「じゃあどうすりゃいいんだよ! このまま指くわえて見てろってのか!」
白兵衛の絶叫が狭い部屋に響く。
美咲も牧村も、ただ俯くことしかできない。
完全なる八方塞がり。
その重苦しい空気を破ったのは、部屋の隅で膝を抱えていた千鶴だった。
「あの男は」
静かな、しかし凛とした声。
千鶴は白兵衛の怒りにも、合田の絶望にも染まらず、ただ一点を見つめていた。
「仙斎慶一郎という男は、保身のために城を固めるような小者には見えなかったわ」
千鶴は、あのタワーの最上階での対面を回想していた。
自分たちの正体を明かし、絶望を与えた時のあの愉悦に歪んだ笑みを。
「彼は言ったわ。『私が倒れるか、日本が変わるか』と。あの目は、国を治める為政者の目ではない。退屈を持て余し、自ら火を放ってその炎の色を楽しむ“傾奇者”の目よ」
千鶴は、戦国の世を見てきた姫としての直感で語る。
「彼は、自分が作り上げた完璧な箱庭が、自分自身の手で壊されるスリルすら、心のどこかで望んでいるのでは?」
その言葉に、藤堂の中で何かが繋がった。
藤堂は顔を上げ、合田を見た。
「……そうか。俺たちがここまでたどり着くのを待っていたのかもしれねえな」
廃墟の地下に証拠が残されていたこと。
警備が厳重なはずの港にあえて穴があったこと。
普通の悪党なら証拠を消そうとするが、仙斎はあえて残し、泳がせている。
これは彼なりの「ゲーム」なのだ。
「握り潰される警察やマスコミに渡す必要はねえ。この『最強のカード』を切るべき相手は一人しかいねえんだ」
藤堂の目に、狂気にも似た光が宿る。
彼はちゃぶ台の上のファイルを掴み取った。
「仙斎本人だ。この証拠を奴の目の前に突きつけ、直接対決を挑む」
「なっ……正気か藤堂!?」
合田が身を乗り出す。
「敵の本丸に飛び込むつもりか! 殺されるぞ!」
「殺すならとっくに殺してるさ。奴は待ってるんだよ。自分を脅かす『狼』が牙を剥くのをな」
藤堂はニヤリと笑い、白兵衛を見た。
「どうだ白兵衛。コソコソ隠れるのは性に合わねえだろ? 正面玄関から堂々と乗り込んで、親父殿に引導を渡してやろうじゃねえか」
白兵衛は一瞬きょとんとしたが、すぐにその顔に獰猛な笑みが戻った。
「へっ、上等だ。最初からそうすりゃよかったんだよ。小細工なしの喧嘩なら、負ける気はしねえ」
同時刻──東京都港区、大國ミレニアムタワー最上階。
地上二百メートルの『天守閣』は、青白いモニターの光に満たされていた。
仙斎慶一郎は、最高級の革張り椅子に深く身を沈め、眼前に広がる情報の海を眺めていた。
モニターに映し出されているのは、SNSのタイムライン、ニュース番組、そして街頭の監視カメラ映像。
そこには特務侍隊を称賛する言葉が溢れ返っていた。
『今日も侍がやってくれた』
『犯罪者は斬られて当然』
『強い日本最高! 仙斎総理に一生ついていく!』
熱狂。崇拝。思考停止。
仙斎はグラスの中の水を揺らし、傍らに控える衣笠に語りかけた。
「見ろ、衣笠。民衆は『自由』よりも『強い首輪』を求めている。彼らは思考することを放棄し、ただ強い力に寄りかかりたがっている」
仙斎の声には、民衆への軽蔑と、それを利用する者の傲慢さが滲んでいた。
「私が提供したのは暴力だ。だが、彼らはそれを『正義』と呼んで歓迎した。この国の倫理観など、薄氷のようなものだ」
モニターの一角には、新たな任務へ向かう景胤の姿が映っている。
返り血を浴びても表情一つ変えぬ、美しき殺人人形。
「景胤もよくやっている。だが、少し退屈そうだな……そろそろ『役者』が揃う頃か?」
その時だった。
仙斎の手元にある、専用回線の端末が震えた。
この番号を知る者は、世界に数人しかいない。
表示は非通知。
仙斎の唇が、三日月のように吊り上がった。
「……もしもし」
受話器を取る。
ノイズの向こうから、聞き覚えのあるしわがれた声が響いた。
『俺だ。藤堂だ』
仙斎は、まるで旧友からの電話を受けたかのように声を弾ませた。
「待っていたよ、藤堂君。野良犬生活は板についたかな?」
『ああ、お陰様でな。泥の味にも慣れたよ』
藤堂の声に怯えはない。
あるのは、腹を括った男だけが持つ静かな殺気。
『答え合わせの時間だ、仙斎。アンタが欲しがってた最高のエンディング……見せてやるよ。会ってくれるな?』
単刀直入な宣戦布告。
仙斎は、体の奥底から湧き上がる歓喜に打ち震えた。
やはり彼らは来たと。
常識という壁を越え、絶望を飼い慣らし、自分という絶対者に牙を剥くために。
「勿論だ。正面玄関を開けておこう」
仙斎は愉悦に満ちた声で答えた。
「最高のショーを期待しているよ」
通話が切れる。
仙斎は立ち上がり、窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。
眼下の街は何も知らずに眠り、あるいは狂騒に耽っている。
仙斎はグラスを掲げ、闇に向かって乾杯した。
「さあ、始めようか。私の愛した子供たちよ」




