#15 上陸
巨大な鉄の塊が、悲鳴のような金属音を上げて岸壁を削り取った。
師水港の夜明け前。
管制塔からの停止勧告を無視し、大國埠頭へと突っ込んだ貨物船は、コンクリートを砕き、係留ビットを飴細工のようにねじ曲げてようやく停止した。
衝撃で船内の人間が将棋倒しになる中、ブリッジに立つ山那景胤だけは、床に縫い付けられたように微動だにせず、眼下に広がる『異界』を見下ろしていた。
「……眩しいな」
景胤が目を細める。
そこに広がっていたのは、彼らが知る夜の闇ではなかった。
港湾を照らす無数のナトリウムランプと高輝度LED投光器。
それらは太陽以上に暴力的で、冷たく白い光を放ち、影という影をこの世から抹消していた。
整然と積み上げられたコンテナの山、空を裂くように聳え立つガントリークレーン。
アスファルトで舗装された地面には、雑草の一本すら生えていない。
あまりにも無機質で、あまりにも巨大な人工の風景。
「これが……外の世界かよ」
操舵輪にしがみついていた白兵衛が、呻くように声を漏らす。
彼らが暮らしていた島の、土と木の匂いがする世界とは根本的に何かが違っていた。
美しさよりも先に、圧倒的な『異質感』が肌を刺す。
「感傷に浸っている場合じゃねえぞ!」
藤堂が叫んだ。
船外から、けたたましいサイレンの音が響き渡る。
赤色の回転灯が視界を埋め尽くすように明滅し、埠頭には数百名規模の軍勢が展開していた。
紺色の出動服に身を包み、大盾とヘルメットで装備を固めた機動隊。
そして、自動小銃を構えた特殊急襲部隊の銃口が、一斉にブリッジへ向けられている。
「降りるぞ。ここで籠城しても勝ち目はねえ」
藤堂の指示に従い、一行はタラップを降りた。
先頭に景胤と初梅、続いて白兵衛、千鶴、鷹丸。
最後に藤堂、美咲、牧村が続く。
タラップを降りきり、コンクリートの地面を踏んだ瞬間、空気が張り詰めた。
「止まれ! 武器を捨てて両手を上げろ!」
装甲車の陰から、拡声器越しの警告が飛ぶ。
景胤は不快そうに眉をひそめ、腰の太刀に手をかけた。
「五月蝿い羽虫どもだ。道を開けねば斬り捨てる」
その一言と共に、景胤から放たれた殺気が物理的な圧力となって周囲を圧迫する。
機動隊員たちが一斉に身構え、盾の隙間から銃口を突き出した。
一触即発の空気──白兵衛もまた、獣のような唸り声を上げて前傾姿勢をとる。
「待て! 斬るな!」
藤堂が彼らの前に飛び出し、両手を広げて立ちはだかった。
「ここで暴れれば終わりだ! お前らはただのテロリストとして処理され、日本の全戦力を敵に回すことになる!」
「退け、藤堂。我らの覇道を阻む者は、何人たりとも──」
「いいから従え! 島のルールは通用しないんだここは!」
藤堂は景胤を睨みつけ、それから踵を返して機動隊の列へと歩み寄った。
両手を高く上げ、武器を持っていないことを示しながら。
「撃つな! 我々は投降する! 話し合いに応じる用意がある!」
藤堂は大声で叫びながら、指揮官と思しき男の元へ近づく。
藤堂は警察手帳を取り出そうと胸ポケットに手を伸ばしかけ──そして、指揮官の冷ややかな目を見て動きを止めた。
「俺は警視庁捜査一課の藤堂だ。識別番号は──」
「知っているよ」
指揮官がマスク越しに冷淡に告げる。
「藤堂彬。一年前、捜査費の横領および重要機密の持ち出しで懲戒免職になった男だ」
「……は?」
「現在、指名手配中の逃亡犯が生きていたとはな。しかもテロリストの手引きとは、どこまで落ちたものだ」
藤堂の思考が空白に染まる。
横領? 免職?
背後にいた美咲と牧村も、息を呑んで立ち尽くしている。
「なんですって? 確かに勝手な行動はしたけど、いくらなんでも横暴すぎでは?」
「黙れ。確保しろ。抵抗するなら射殺しても構わん」
指揮官の手が振り下ろされる。
弁明の機会すらない。
藤堂は悟った──自分たちはこの一年間で、社会的に抹殺されていたのだ。
仙斎の手によって、帰るべき場所も、正義の味方という肩書きも、全て奪われていた。
「くそがっ……!」
数人の隊員が警棒を構えて殺到する。
藤堂が奥歯を噛み締め、無力感に打ちひしがれたその時──キィィィィィッ!
鋭いブレーキ音と共に、黒塗りの高級セダンの車列が、強引に規制線を突破して滑り込んできた。
パトカーの列を割り、藤堂たちと機動隊の間に割って入る。
機動隊員たちが動揺して足を止める中、後部座席のドアが開き、一人の男が降り立った。
仕立ての良いスーツに、銀縁の眼鏡。
仙斎の側近──衣笠だった。
「ご苦労。そこまでだ」
衣笠は戦場の真ん中とは思えぬ優雅な足取りで進み出る。
「な、なんだ貴様らは! 公務執行妨害で……」
「内閣総理大臣官邸より命令が出た」
衣笠は懐から一枚の書類を取り出し、指揮官の目の前に突きつけた。
そこには総理大臣の印と『超法規的措置命令書』の文字。
さらに『内閣情報調査室・特別班』を名乗る黒スーツの男たちが、無言の圧力で機動隊員たちを押し退けていく。
「彼らの身柄は我々が引き取る。県警の本部長にはすでに話を通してある……下がれ」
衣笠の静かな、しかし絶対的な命令口調。
指揮官は書類と衣笠の顔を交互に見比べ、理解したように「撤収!」と叫ぶ。
波が引くように包囲が解かれていく。
助かった──だが、それは最悪の形での救済だった。
「お久しぶりです。藤堂元刑事」
衣笠は藤堂に向き直り、薄く笑った。
その目は、這いつくばる虫を見るように冷ややかだ。
「随分とやつれましたな。野良犬のような臭いがする」
「……仙斎の差し金か」
「感謝していただきたいものです。我々が来なければ、あなた方はここでハチの巣にされていた」
藤堂は拳を握りしめ、血が滲むほどに爪を食い込ませた。
自分たちを陥れ、社会的に殺した張本人に命を救われる。
これ以上の屈辱があるだろうか。
だが、白兵衛たちを守るためには、この毒杯を飲み干す以外の選択肢は残されていない。
「……何の用だ」
「仙斎様がお待ちです。東京へご案内しますよ。新しい日本の主役たちを歓迎したいと」
衣笠の視線が、景胤へと向けられる。
景胤は血のついた刀を鞘に納め、不敵に鼻を鳴らした。
「よかろう。刀を交えるかは会って判断してやろうぞ。敵将が茶を点てて待っているのだ。行って喉を潤してやろうではないか」
景胤の号令と共に、一行は用意された大型リムジンバスへと乗り込んだ。
窓は外から見えないマジックミラー仕様。
革張りのシートに、空調の効いた快適な空間。
だがそこに自由などないことは、誰もが理解していた。
バスは滑るように走り出し、東名高速道路へと入った。
車内には、見たこともない料理が運ばれてきた。
包み紙に包まれたハンバーガーと、黒い炭酸飲料。
「なんだ? この珍妙なものは。食べ物か?」
「うう、腹減った……すんません! いただきます!」
「おい牧村!」
警戒する白兵衛たちを他所に、空腹の限界だった牧村が包み紙を破り、ハンバーガーにかぶりつく。
肉汁とソースが溢れ、牧村は涙を流しながらコーラを流し込んだ。
毒はない。
それを見て、鷹丸がおそるおそるコーラを口にする。
「ぐえっ! な、なんだこれ! 舌が痺れるぞ!」
「……甘い。それに、妙な味がする」
千鶴も一口だけ飲み、複雑な表情でグラスを置いた。
強烈な甘みと、鼻に抜ける人工的な香り。
自然の恵みだけで生きてきた彼らの味覚には、その「豊かさ」はあまりにも刺激的で、暴力的ですらあった。
『口に合わんか? それが現代の味だ』
不意に、車内前方の大型モニターが点灯し、仙斎の姿が映し出された。
「仙斎……!」
「ほう、あれが」
執務室の椅子に深々と腰掛け、グラスを傾けるその姿は、まるでこの世界の王のようだ。
『ようこそ、私の国へ。これから君たちを未来へ案内しよう』
仙斎の言葉に合わせて、バスは首都高速道路へと入っていく。
窓の外の景色が一変した。
闇を切り裂く無数の街灯。
天を突く摩天楼。
巨大な東京タワーが赤く輝き、ビルの谷間を縫うように光の川が流れている。
「な……」
白兵衛が窓ガラスに張り付き、絶句した。
想像を絶する光景だった。
彼らが夢見ていた天下とは、これほどまでに巨大で、煌びやかなものだったのか。
「これが、日の本か? まるで竜宮城じゃねえか……」
「……」
景胤もまた、無言で外を見つめている。
だが、その瞳に宿っているのは感嘆ではない。冷徹な観察眼だ。
『美しいだろう? だが、よく見てみろ。そこを歩く人間たちを』
仙斎の声が誘導する。
バスは速度を落とし、深夜の繁華街──六本木の交差点付近を通過する。
そこには、まだ多くの若者やサラリーマンが行き交っていた。
「……誰も、前を見ていねえな」
鷹丸がポツリと漏らす。
歩く人々は皆、掌の中にある小さな板──スマートフォン──に吸い込まれるように視線を落とし、周囲のことなど気にも留めていない。
信号待ちをする集団は、まるで電池の切れた人形のように俯き、その目には生気がなかった。
満員電車に揺られる人々の顔は、疲労と諦めで灰色に塗りつぶされている。
『彼らは戦わない。怒らない。ただ与えられた餌を食い、死ぬのを待っている家畜だ。君たちがいた島は貧しかったかもしれない。だが、君たちの目は、彼らより遥かに生き生きとしていたとは思わないか?』
仙斎の言葉が、呪いのように彼らの心に染み込んでいく。
圧倒的な文明の光。
その影にある、精神の空虚さ。
白兵衛は、自分の胸の中にあった「天下統一」という夢が、少しずつ形を変えていくのを感じていた。
こんな「死んだ国」を手に入れて、何になるというのか。
「……ふん。魂の抜けた人形の列か。見るに堪えんな」
景胤が吐き捨てるように言い、カーテンを閉めた。
その拒絶こそが、仙斎の狙い通りであるとも知らずに。
「さあ、着いたぞ。長旅で疲れたろう。まずは風呂と、温かい食事を用意してある」
バスは滑らかに減速し、六本木に聳え立つ巨大な要塞──大國ミレニアムタワーの地下駐車場へと滑り込んだ。
重厚なシャッターが降り、外界との繋がりが断たれる。
プシューという音と共にドアが開いた。
待ち受けていたのは、数十名の黒服の男たちと、恭しく頭を下げる衣笠だった。
「ようこそ、大國ミレニアムタワーへ。最上階にて、主がお待ちです」
藤堂は席を立ち、白兵衛の肩を強く掴んだ。
「いいか、騙されるな」
小声で、しかし強く言い聞かせる。
「あいつが見せたのは、この国の『悪い側面』だけだ。外にはもっとマシなもんもある。だが今は、大人しく従え。生き残るためにな」
「……ああ。分かってるよ」
白兵衛は短く頷き、バスを降りた。
刀は取り上げられていない。
だが、この巨大なビルの重圧の前では、一本の刀など爪楊枝にも等しく感じられた。
一行を乗せたエレベーターは、重力に逆らうように上昇を始める。
地上二百メートル。
雲の上にある『天守閣』へ。
そこには彼らの運命を弄び、この国を根底から作り変えようとする『王』が、極上の笑みを浮かべて待ち構えているはずだった。




