#11 霹靂
2人の鼻を突くのは、雨上がりの湿った空気とむせ返るような鉄錆の臭いだった。
焼け落ちた商家のような建物の影で、美咲と牧村は息を殺していた。
「ひッ……」
牧村が喉の奥で悲鳴を噛み殺す。
瓦礫の隙間から見える大通りでは、地獄のような光景が繰り広げられていた。
「な、なんだよあれ……時代劇かと思ったら、マジで人殺してるじゃん……み、美咲ちゃん。俺たちヤバいカルト宗教の現場に来たみたいだよ」
「宗教とはまた違うような気もしますが……」
逃げ惑う足軽や農民たち。
それを追い詰める、統一された装備の兵士たち。
一人の男が背中を斬られ、泥の中に倒れ伏す。
鮮血が黒い地面に飛沫を上げた。
それは映画の特殊効果でも、訓練用のペンキでもない──紛れもない、本物の殺人だった。
「嘘だろ……なんで、なんで殺し合いなんか……」
牧村は必死に目の前の出来事を受け止めようとしているが、理解が及ばず震えが止まらない。
美咲もまた、自身の心臓が早鐘を打つのを感じていた。刑事として死体を見たことはある。
だが、目の前で行われているのは殺人事件ではない──戦争であり虐殺だった。
「あれ……逮捕しなきゃダメ?」
「見過ごすわけにはいきませんよ。でも、2人だけでは危険でしょう」
その惨劇の中心に、一頭の黒馬が静かに佇んでいた。
馬上には、煌びやかな甲冑を纏った若き武将。
篝火に照らされたその横顔は、彫刻のように美しく、そして氷のように冷たかった。
彼は一切の感情を見せず、ただ事務的に、虫を駆除するような目で殺戮を眺めている。
「く、クソ……細河様の仇じゃ!」
焼けた家屋の影から、一人の男が弓を構える。
弓矢は景胤の背に向かって飛んでいく──だが、好機は訪れなかった。
景胤の影から小柄な黒装束が飛び出し、その飛んできた矢を刀で両断する。
「……」
「控えてたか、初梅」
少女のような体躯に見えるが、その動きは兵たちの中で誰よりも速かった。
黒い忍装束を纏う初梅と呼ばれた少女は、その結んだ長い黒髪を翻し、固く刀を握る。
彼女がすれ違った瞬間、逃げていた男の首が音もなく宙を舞う。
返り血を浴びることすらなく、彼女は表情を変えぬまま次の獲物へと向かっていく。
「な、なんて恐ろしい……あんなに躊躇なく人を……」
美咲が戦慄した時だった。
恐怖で足元がおぼつかなくなった牧村が、後ずさりし──瓦礫を蹴ってしまった。
ガラガラ、と乾いた音が路地に響き渡る。
「ん?」
一瞬で、世界が静止した。
馬上の武将が、ゆっくりと首を巡らせる。
その視線が、正確に二人の隠れ場所を射抜いた。
「誰だッ!」
近くにいた兵士たちが、血走った目で振り返る。
隠れることは不可能だった。
松明を手にした数人の兵が、槍を構えて殺到してくる。
「ひいッ! ちょ、待ってくれって!」
牧村が両手を上げて飛び出した。
パニック状態で、ここが法治国家ではないことなど吹き飛んでいる。
「わ、わわ、私たちは怪しい者じゃありません! ただ道に迷っただけで……け、決して敵対するつもりなんて……!」
「牧村さん、下がって!」
美咲が牧村の前に割って入る。
彼女も恐怖で膝が震えていたが、必死にそれを押し殺し、毅然とした態度で兵士たちを睨み返した。
「言い訳は通用しないわ。相手を見て」
美咲の言葉通り、兵士たちの目に慈悲の色はなかった。
彼らは牧村の言葉など理解しようともせず、ただ異物を排除するために槍を振り上げている。
這い寄る死の気配に美咲が覚悟を決めたその時だった。
「控えよ」
凛とした声が、夜気を切り裂いた。
振り下ろされようとしていた槍が寸前で止まる。
兵士たちが波が引くように道を開け、平伏した。
その奥から馬を降りた武将──山那景胤が、優雅な足取りで歩み寄ってくる。
「そこの者。見ない顔だな」
近くで見ると、その威圧感は圧倒的だった。
整った顔立ちは、この世の者とは思えない浮世離れした美しさを湛えているが、纏っている空気は血生臭い覇気そのものだ。
景胤は、美咲と牧村を見下ろし、その奇妙な服装に目を細めた。
「妙ななりをしているな。南蛮の商人か? もしくはバテレンか?」
「私たちは……」
美咲は喉の渇きを覚えながらも言葉を探す。
だが、何と答えればこの男を納得させられるのか、見当もつかない。
沈黙を怪しいと見たのか、景胤がわずかに顎をしゃくった。
それだけで、兵士たちが再び殺気を漲らせる。
「あ、あの……!」
美咲は咄嗟に、懐に入れていた業務用のタブレット端末を取り出した。
武器ではないことを示すためか、それとも身分証代わりか、あるいはただの条件反射だったか。
彼女がそれを掲げた瞬間、指が画面に触れ、スリープが解除された。
カッ、と強烈なLEDのバックライトが点灯する。
漆黒の闇に慣れた目には、それは閃光のように映った。
「うわッ! 妖術だ!」
「火を使わぬ灯火だと!?」
兵士たちが怯えて後ずさる。
だが、景胤だけは眉一つ動かさなかった。
彼は光る板をじっと見つめ、その瞳に知的な好奇心の色を宿した。
「……ほう。面白いからくりを使う」
景胤は一歩踏み出そうとしたが、すぐに冷徹な表情に戻る。
未知の技術への興味よりも、支配者としての警戒心が勝ったようだ。
「だが、素性の知れぬ者を野放しにはできん──初梅」
彼が短く名を呼ぶ。
その瞬間、景胤の影から、先ほどの黒装束──初梅が音もなく現れた。
彼女の手には、血に濡れた刀が握られている。
美咲が瞬きをする間もなく、初梅は間合いを詰め、その刃を美咲の首筋へと走らせた。
抵抗など無意味。
死を確信し、美咲が目を閉じた──しかし、痛みは訪れなかった。
「え?」
恐る恐る目を開ける。
切っ先は、美咲の喉元数センチのところで静止していた。
初梅の様子がおかしい。
能面のように無表情だった彼女の顔が、今は驚愕に見開かれ、小刻みに震えている。
彼女の視線は、美咲の首ではなく、その下──美咲が着ているグレーのレディーススーツと、その内側の白いブラウスに釘付けになっていた。
「…………」
初梅の口元が微かに動くが、声にはならない。
ただ、まるで幽霊でも見たかのように、美咲の衣服を凝視したまま、金縛りにあったように動かなくなっている。
殺気は消え失せ、代わりに彼女の瞳には、深い混乱と動揺の色が渦巻いていた。
「……どうした、初梅」
景胤が怪訝そうに眉を寄せる。
彼の命令に対し、忠実な影であるはずの初梅が反応しない。
彼女は刀を下ろすことも、振り上げることもできず、ただ小さく震えながら、美咲と牧村の服を見つめ続けている。
「ふむ、青天の霹靂よ」
景胤は、動かなくなった初梅と、彼女を狂わせた異邦人たちを交互に見やった。
やがて、彼の唇が三日月のような形に歪む。
それは獲物を狩る時の目ではなく、未知の玩具を見つけた子供のような無邪気で残酷な笑みだった。
「我が懐刀をここまで狂わせるとは」
景胤は手を振って、兵士たちに合図を送った。
「殺すな。丁重に『賓客』として牢へ案内しろ」
「と、殿? よろしいのですか?」
「構わん……じっくりと話を聞かせてもらおうか」
兵士たちが美咲と牧村を取り囲み、荒々しく捕縛する。
猿轡をされ、引き立てられていく二人。
美咲は連行されながら、一度だけ振り返った。
そこには、まだ刀を構えたまま立ち尽くす初梅と、その肩に手を置き、何事かを囁く景胤の姿があった。




