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#10 邂逅

 叩きつける雨は、いつの間にか止んでいた。

 だが、その代わりに立ち込めた濃密な霧が、世界から色彩と距離感を奪い去っている。

 ガクン、という衝撃と共にコンテナが大きく傾いた。


「う、わあぁぁッ!」


 牧村の悲鳴と共に、藤堂たちの身体はコンテナから勢いよく放り出された。

 背中を打った衝撃に喘ぎながら、藤堂は泥まみれの地面に這いつくばる。

 鼻を突くのは腐敗した生ゴミと、そしてどこか懐かしい濡れた土の臭いだ。


「藤堂さん……大丈夫ですか」

「小野田、無事か。牧村は」

「な、なんとか……でも、ここ、どこっすか……」


 立ち上がった三人が見たのは、悪夢のような光景だった。

 足元には、師水港から運ばれてきた産業廃棄物の山。

 廃プラスチックや金属屑、得体の知れない汚泥の袋が、不毛な土地に無数に転がっている。

 だが、そのゴミの山の向こうに見えるのは、舗装された道路でも、煌々と輝くコンビナートの灯りでもなかった。

 松明の火が揺れる粗末な板葺きの小屋。

電柱一本ない、完全なる闇に沈んだ中世の村落。

 あまりの時代錯誤な風景に、藤堂は思考が停止しかける。


「……隔離施設か。それともカルト教団の秘密村か?」


 その時、霧の向こうから法螺貝の野太い音が響いた。

 ザッ、ザッ、と統率された足音が近づいてくる。


「曲者だ! 逃がすなッ!」


 闇を裂く怒号──現れたのは、足軽の格好をした数人の男たちだった。

 手にしているのは時代劇の小道具ではない。

 鈍く光る本物の長槍だ。

 その殺気は、ただの警備員のそれとは明らかに異なっていた。


「おい、待て! 俺たちは警察──」


 藤堂が叫びかけたが、男たちの槍が容赦なく突き出される。


「生け捕りにして殿の前に引き出せ!」


 殿という単語に、警察手帳を見せようとした藤堂の手が止まる。

 相手は自分たちが知る公権力や法律が通用する相手ではない。

 男たちの目が狂信的なまでに澄んでいるのが何より恐ろしかった。


「小野田、牧村! あっちの茂みに逃げろ!」

「え? と、藤堂さんはどうするんですか!」

「いいから行け! 俺が注意を引く!」


 藤堂は泥を蹴って逆方向へ走り出した。

 美咲と牧村が城下町跡の暗がりへと転がり込むのを確認し、自らは鬱蒼とした森の中へと突き進む。

 背後から聞こえる罵声と足音を引き連れ、藤堂は深く、さらに深く、異界の森へと入り込んでいった。


「はあ……クソ、なんなんだ……!」


 どれほどの時間が経っただろうか。

 追手の気配を撒いた藤堂は、膝に手をつき、肺が焼けるような呼吸を繰り返していた。

 汗と泥で、安物のスーツは無残に汚れ、ネクタイはどこかに引っかけて引きちぎれている。

 周囲は静まり返っていた。

 聞こえるのは、夜鳥の不気味な鳴き声と、木の葉を揺らす風の音だけだ。


「ん? 何か近付いてくる」


 不意に、背筋を凍らせるような視線を感じた。

 反射的に身を翻す。


「……動くな」


 低い、だが驚くほど芯の通った少年の声。

 数メートル先の藪の中から、一人の若者がこちらを凝視していた。

 ボロボロの着物に、泥に汚れた顔。

 だが、その手には抜き身の刀が握られ、切っ先は寸分違わず藤堂の喉元に向けられている。

 藤堂は息を呑んだ。

 そこに立っていたのは、資料で嫌というほど目にした、若き日の仙斎慶一郎そのものだったからだ。


「おい……ガキ。冗談はやめろ。ここは映画の撮影所か? それとも大國グループの秘密養成所か何かか?」


 藤堂は努めて冷静を装い、一歩踏み出そうとする。

 だが。


「止まれと言ったはずだぜ。次の一歩で、その喉笛を掻き切る」


 若者──白兵衛の瞳に、揺らぎはない。

 藤堂はその眼光を見て、背筋に冷たいものが走った。

これは洗脳や演技などという生温いものではない。

戦場で明日をも知れぬ日々を送る、本物の野犬の目だと確信する。


「……本気か。おい、後ろの嬢ちゃんも。お前ら、自分が何をしてるか分かってんのか?」


 白兵衛の背後から、一人の少女が顔を出した。

 千鶴は不安げに、だが白兵衛を守るように寄り添っている。


「なんだ? その妙ちくりんな服は。お前、景胤の放った物見か?」


 白兵衛の言葉に、藤堂は顔を歪めた。


「景胤? 知らねえな。俺は藤堂だ。警察だ」

 藤堂は内ポケットから警察手帳を取り出し、掲げた。

 だが、二人の反応は予想とは全く異なるものだった。


「ケイサツ……? どこの大名の手の者だ。今川か、それとも織田か?」

「いや、これは身分証だ。お前ら、警察も知らないのか?」


 白兵衛は警察手帳を呪術の道具か何かを見るように警戒し、さらに刀の切っ先を突き出してきた。

 興奮状態で、今にも引き金──いや、抜刀しそうな気配だ。

 藤堂は判断した。

 言葉を尽くす前に、まずこの野生動物のような少年の警戒を解かなければ、話にすらならない。


「分かった、分かったよ。まずは落ち着け。いいか、俺は武器を持っていない。お前らを傷つけるつもりもない」


 藤堂はゆっくりとした動作で、スーツのジャケットを脱ぎ捨てた。

 さらに泥だらけのワイシャツのボタンを一つずつ外し、上半身を剥き出しにする。

 露わになったのは、幾多の死線を潜り抜け、鍛え抜かれた刑事の肉体だ。


「見ろ。丸腰だ。隠し持てるような隙間はねえ」


 藤堂はそのまま、ぬかるんだ土の上にどっかとあぐらをかいて座り込んだ。

 白兵衛は刀を構えたまま、じっと藤堂を観察する。

 その様子を、千鶴が不安そうに見つめていた。

 数秒の、永遠のような静寂。

 やがて、千鶴が白兵衛の腕にそっと手を添え、無言で首を振った。


「……白兵衛、この御方は嘘を吐いているようには見えない。山那の兵たちとは違う」


 千鶴の言葉に、白兵衛は微かに肩の力を抜いた。

 しかし刀は手放さず、鞘に収めるだけに留める。


「……いいだろう。だが、動けば斬るぞ」

「ああ、助かるよ……それで、お前らはどこの誰だ。何があった」


 二人は、自らの名を名乗った。

 山那家の嫡子、景胤による落城、奪われた城、そして死んだ多くの者たち。

 白兵衛は『牢人』として、千鶴は『姫』として、自分たちが置かれた惨状を、ごく当たり前の日常の悲劇として淡々と語った。

 藤堂は、彼らの口から次々と飛び出す異常な単語の羅列に、片手を上げて制した。


「待て、待て待て。お前ら、大國グループや仙斎って名前に聞き覚えはねえか? ここを管理してる奴らだ」

「オオクニ……センサイ……? どちらも聞いたことがない。この島を治めているのは細河の殿と、それを滅ぼした山那だ」


 藤堂は深くため息をついた。

 二人の目は真っ直ぐだ。

 嘘をついているようには見えない。

 だとすれば、この子供たちは本当に、自分たちが古い時代に生きていると信じ込まされている。


「次は俺の番か、俺は藤堂彬。島の外から来た。警視庁捜査一課の刑事だ……簡単に言えば、悪い奴を捕まえるのが仕事だ」

「ケイシチョウ……ソウサイッカ……念仏みてえな名だなあ。お前、海を超えてきたというが、もしや駿河の今川の人間か?」


 白兵衛の問いに、藤堂は眉を跳ね上げた。


「駿河の……ああ、もしかして静岡のことか?」

「シズオカ? そんな地名は知らん。駿河は駿河だ。今川家が治める土地だ」


 駿河の今川。

 藤堂の脳裏に、日本史の断片が浮かび上がる。


「……まさか、今川義元か?」

「そうだ。けど……義元公は、さきほど桶狭間にて織田の奇襲に遭い、討たれたとよ。今は外も戦乱の嵐だろう……お前、そんなことも知らずに海を渡ってきたのか」


 藤堂は絶句した。

 タイムスリップが過ったが、そんな馬鹿な話があるはずがないとすぐに払拭する。


「お前ら、何歳だ?」

「十七だが……それがどうした」


 白兵衛の答えを聞いた瞬間、藤堂の肺から酸素が消えた。

 十七年──それは、警察のデータベースに残る、あの大規模誘拐事件の年月と完全に合致する。


「他に……ふう、同い年はいるか……?」

「俺の村にいた傳八も十七だった。他にも、この島にいる『子供』は皆、数えで十七か十六……同じ時期に生まれた者ばかりだな。山賊も、足軽も、そしてあの景胤も、皆同じ年格好だぜ」


 藤堂の拳が、泥を握りしめて震えた。

 間違いない──ここにいる若者のすべてが、十七年前に日本中から奪われた子供たちだ。

 今、自分の目の前にいる少年少女は、二〇十七年の日本に実在している。

 だが、彼らの精神は戦国時代に閉じ込められている。

 仙斎という男が、赤ん坊の頃から彼らをこの島に隔離し、洗脳教育を施し、本物の戦国時代を演出して作り上げたと──極限の中で、藤堂は答えにたどり着いた。


「おい、ガキども。よく聞け。お前らは騙されてる」

「なんだと?」


 白兵衛が不快そうに顔を歪めるが、藤堂の気迫に圧され、言葉を飲み込む。

 藤堂は、かつてないほどの激しい怒りと、やり場のない悲しみに支配されていた。

 目の前にいるのは、人生を、名前を、そして自らの時代さえも奪われた犠牲者なのだ。


「ここは戦国時代じゃねえ。お前らが教わった歴史は、四百年以上も前に終わってるんだよ。外の世界には城なんてねえ。侍も、刀も、今川義元も……とっくに死んで、土に還ってる!」

「はあ? 何を、訳の分からねえことを──」

「訳が分からねえのは、この島を作った野郎だ! 仙斎慶一郎っていう狂った金持ちが、お前らを実験台にしてこの箱庭を作ったんだ。お前らはそこで『武士』として飼われてるんだよ!」


 藤堂の声が森に響き渡る。

 白兵衛は混乱し、再び刀の柄に手をかけた──だが白兵衛の背後で、千鶴が静かに藤堂の肩に手を置いた。

 彼女の瞳には、白兵衛のような拒絶はなかった。

 代わりにあったのは、冷徹なほどの悟りと深い哀しみだった。


「……白兵衛。刀を下げなさい。この御方の言葉、私は信じられる気がする」

「おい、何を言って──」

「おかしいと思っていたのよ。私たちの村には、私たちと同じ年の子供しかいなかった。年の近い子供などいなかった。いるのは遥か年上の大人だけ。私はそれが不気味だったのよ」


 千鶴は深く深呼吸をし、藤堂を見つめた。

 その瞳には、今まで彼女を苦しめていた世界の違和感が、パズルの最後のピースがはまった時のように、静かに溶けて消えていく光が宿っていた。


「私が島で育って感じていた言い表せない違和感。藤堂……と言ったわね。礼を言うわ。今までずっと胸の中にあった闇が、今晴れた気がする」


 千鶴は微かな苦笑いを浮かべ、泥だらけの藤堂に対して、姫としての気品を保ったまま深々と頭を下げた。


「私たちは、本当は誰なのでしょうね」


 藤堂は、何も答えることができなかった。

 ただこの穢れた島を覆う霧が、これほどまでに残酷なものだったのかと、天を仰ぐしかなかった。

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