#1 暗躍
西暦二〇〇〇年──某所。
部屋はただ暗いだけではない。
光を呑み込むような、底知れぬ黒がそこにあった。
幾重にも重ねられた遮光カーテスの向こうでは、東京の夜景が幾千の灯を放っているはずなのに、ここでは一筋の光も漏らさない。
無数のモニターだけが、青白い冷光を放ち、作業員たちの顔を幽鬼のように浮かび上がらせている。
キーボードの打鍵音、冷却ファンの低い唸り、時折鳴るサーバーの警告アラーム──そんな無機質の音だけが部屋に響く。
部屋の奥──漆黒の和服を纏った男が、部屋を見下ろすように鎮座する。
「間もなくだな」
男の名は仙斎慶一郎。
高名な武家の血を引く、日本有数の資産家である。
元より働かずとも生涯安泰の資金を保持しているが、仙斎はそれを由とせず、一代で事業を立ち上げた。
仙斎本人の名を知らずとも、仙斎が作り上げたグループと、それに連なる大企業を知らない人間はまずいない。
衣食住から、医療にインフラ関係……日々の生活において、仙斎が作った『大國グループ』に関わらないのは、日本に住んでいたらほぼ不可能といってもいい。
様々な企業に多額の投資をしており、その影響は警察組織や政界にまでも及ぶ。
背は高く、肩幅は広く、オールバックに撫でつけた髪は濡羽色に輝き、口ひげとあごひげは丁寧に整えられている。
猛禽類のように鋭い瞳は、モニターの光を浴びても、まるで光を反射しない。
三十代半ばになろう仙斎だが、無駄な肉は一欠片もなかった。
彼が一歩踏み出すと、作業員たちの背筋がぴんと伸びた。
誰も振り向かない。
振り向くことなど許されないからだ。
仙斎はゆっくりと──しかし確実に、部屋の中心へと進む。
「衣笠」
低く、静かな声。
しかしその一言で、部屋の空気が凍った。
スーツ姿の男──衣笠が小走りに近づいてくる。
「はい」
古くからの側近であり、仙斎を敬うと同時に、仙斎を最も恐れている男である。
そんな畏敬の念を抱き、己が人生の全てを賭して仙斎に仕えている衣笠だが、仙斎にとって衣笠は駒の一つという些少な存在に過ぎない。
無論、衣笠はそれを深く理解している。
仙斎には、そんな全てを捧げても良いと思わせる、ある種洗脳に近い歪んだカリスマ性があった。
「見ろ。これは世俗が語る通説ではなく、真の意味での未来の希望だ」
仙斎はモニターのひとつを指差した。
そこには、まだ赤ん坊の顔写真が何十、何百と並んでいる。
首も座っていないような、生後間もない赤子たちであった。
「間もなく二十世紀が終わろうとしている。一世紀前には、日本には武士が存在していた。信じられるか?」
仙斎の声は、どこか遠くを眺めているようだった。
「この国に真の武士はもういない」
衣笠は息を呑む。仙斎は一つ息を吐いて続けた。
「明治の廃刀令以来、百三十年。武士の魂はすっかり腐ってしまった。衣食足りて戦火を知らぬ。安寧に慣れきった腑抜けどもばかりだ。名を捨て実を取った連中が、武士を気取って恥じない」
その言葉は怒りではなく、深い悲しみのように響いた。
「だから私は作る」
「作る……?」
仙斎はゆっくりと振り返った。
猛禽の瞳が衣笠を射抜く。
「本物の武士を。一から作り上げるのだ」
衣笠は喉を鳴らした。
「一からですか? 教育という意味で?」
仙斎は鼻を鳴らし、俯いてゆっくり首を横に振る。
「教育? 今の日本で何を吹き込もうとも、武士の魂など宿るものか。武士とは生まれた瞬間から決まっているものだ。幼少の頃より人を殺す術を覚え、常に死が這い寄る極限環境に身を置く」
彼は両手を広げ、天を仰いで深く深呼吸する。
「生まれ育った環境こそが、人間を武士にする唯一の方法だ。だから私はすべてを整える。生まれた時から、全てを」
モニターに新しい映像が映し出された。
東海の果て、地図には載らない島。
そこに、漆黒の城が築かれていた。
天守閣、土塀、石垣、瓦屋根。
城下町と島に点在する村々。
まるで中世時代の国そのものが、切り取られて置かれたかのようだった。
「赤子たちを集めた。私の子もいる。部下どもの子もいる。貧しき者から金で買い取った子もいる。代理に産ませた子も、最新の技術で創り出した子もいる」
仙斎の声に熱がこもる。
「その赤子を島に放つのだ。外部の情報を完全に遮断し、戦国期そのものの暮らしをさせる。技術も、言葉も、思想も……そのすべてを仕込み済みの者どもを住まわせる。彼らは“仕掛け人”だ。彼らには赤子の育ての親となってもらい、言葉を教え、作法を教え、その当時の人間を作ってもらう」
無論、これらが全て人道的、論理的に反し、また法律を無視しているのを仙斎は理解している。
それらを把握した上で、計画を実行しようとしているのだ。
仙斎はそれらを揉み消す権力と財力を保持しているが故に。
「階級はランダムにする。大名の嫡子として生まれる子もいれば、農民の倅として生まれる子もいる。牢人として流される子もいる。すべては運命が導くままに」
仙斎はふと笑う。
それまるで、稚拙な空想を語る男児のように。
純粋な笑みであった。
「匣爾国と名付けた。箱の中の小さな国。そこでは今、天文年間が流れている。私の合図一つで、赤子たちは一斉に放たれるのさ」
衣笠は冷や汗を拭った。
額から、背中から、汗が止まらない。
「あと三十年……いや、二十年もあれば十分だ。第一世代が成人し、子を産み、その子がまた育つ。そうしてようやく本物の武士が誕生する」
仙斎はゆっくりと両手を上げた。
まるで天を掴むように、指先を突き出す。
「喜べ、衣笠」
その声は高らかに──狂おしく響いた。
「二十年後、我々は本物の武士に出会えるのだ!」
衣笠は膝を震わせながら、深く頭を下げた。
仙斎慶一郎は、闇の中で高らかに宣言した。
「プロジェクト武士を──発動せよ」




