桜花に戀時雨 ③
初めは、ただの獲物だった。人を食らえるか、食らえないかの瀬戸際。力のほとんどを失い、弱い妖になってしまった私はいっそ最後の晩餐にでもしてやろうと、そう決めて。襲おうと標的にしたのは翳だった。
『そこに、誰かおんの?』
人同士での揉めごとに傷つき、己の目から光を消した愚かな人間。何の力もない、弱い存在。またとない機会。なのに、何故か私は食らうことができなかった。食らう機会を、なくした。
『薫?また会える?』
目が見えないから、私を妖だと知らない。目が見えないから、私が君を食べようとしていたことなんて知らない。目が見えないから、同族だと思ってここへ来る。
『薫?そこにおる?話さへんかったら分からんねん。近くにおって』
揺れる手に何度触れただろう。迷う声に何度声をかけただろう。転びそうな君を何度助けただろう。
『目が見えたらさ、真っ先に薫に会いに行くわ。きっと別嬪さんなんやろうなぁ』
その未来に私はきっと居ない。なんて愚かで、滑稽で、能天気な、優しい子。いつか君の目に光が宿り、私の姿を映すなら失望してしまうかもしれない。私は君が思っているよりも綺麗じゃないよ。人を食らうことができる醜い化け物が、君の純粋な目に映れば穢れてしまう。ならいっそこのまま、私の姿を知らずに目を閉じたままでいてほしい。それが人と妖の、本来交わってはいけない境界線なのだから。
「濡れてない?」
もし恋の花が存在するなら、きっと桜のように薄紅に照れて咲いているだろうか。甘い香りに魅せられて、こうして二人、種族を超えて夢のひと時を過ごす。けれど恋の花は、ずっと咲いてはくれない。散らしたのは他でもない、私自身。
「薫?」
薄紅の雨が降る。私の時間も、恋と共に雨と散ってしまう。ああ、こんな苦しい想いをするなら出会わなければよかった。恋なんて、しなければよかった。なんて思っても結局君に会えた時間が生きた年月よりも、とても輝かしい日々だったのだから恋の力は本当に凄い。
「かげる」
ここで君に口吸いでもすれば、君はきっと私を思い出して引きずってくれる。でも、敢えてしない。だって私は意地悪なんだろ?ねぇ、翳。
「ありがとう」
目が見えない君が悪いんだ。だからね、翳。私みたいな卑怯な女、引っかかっちゃダメだよ?
「私の、愛しき人よ…」
傘の内側で薫の声が遠のく。触れられていたはずの温もりも、香水の甘い匂いさえも、風にさらわれて薄れていく。
「…かおる?」
呼んでも、返事はない。風に運ばれた薄紅の花びらが頬を撫でて落ちた。
「…………」
閉じていた瞼が開く。濡らさぬよう差し続けた傘の下で、薄紅の瞳から静かに涙が流れた。




