桜花に戀時雨
風に揺れる草原では緑の穂が波のようにうねり、虫たちが小さく跳ねていた。ところどころ赤白に塗られた杭が突き刺さり、無機質な線を引いている。杭の間には簡素な柵が設けられ、《この先 埋立予定地》と書かれた看板が場違いなほど静かに立っていた。その場所に柵を挟んで二人の男女が佇んでいる。
「また来るわ、薫」
「そう。気をつけて帰るんだよ」
「分かっとる。また明日」
男性は握っている白杖の先を前へと軽く突き、地面の感触を確かめるように小さな間隔で歩く。その足取りは慎重で、それでいて迷いがなかった。水綺は去っていく男性の背を見つめ続ける女性に声をかける。
「もし、もし。願いを叶えに、綻びの社から参りました。糸は、お持ちでしょうか?」
その声に女性はゆっくりとこちらへ振り向いた。草のざわめきの中で、その姿だけが妙に静止して見える。人の形をしてはいるがどこか輪郭が曖昧で、陽光を受けても影が薄い。まるで次の瞬間には風に溶けてしまいそうな、そんな印象を抱く。
「綻びの社?ああ、あの願いを叶えるっていう。本当に実在したんだ」
「私は見習いの水綺。こっちは同じ見習いの鏡影と、そして願いを叶えるロゼイア姉様です」
「よろしく」
「ごきげんよう。それで、食事はいただけるのかしら?」
「ロゼイア姉様!言うのが早い!おほん、えーとロゼイア姉様は、願いを叶える代価として食べ物をお願いしているの。願いを叶えた後じゃなくて前払いとして代価をいただくんだけど、食べ物はある?」
「食べ物……」
薫は辺りを見渡す。湿った草の匂いと踏み荒らされていない大地ばかり。やがて足元の花を一本摘み取る。
「ご覧の通り、ここは何もなくてね。花はどうだい?この花は吸えば蜜が出る。どうだろうか?あとは草か虫くらいしかいないけど」
「結構よ。有り難くいただくわ」
ロゼイアはためらいなく花を受け取って蜜を吸う。その様子に水綺はわずかに引きつつ、改めて薫に向き直る。
「あの、名前を聞いても?」
「私は薫。この野原に住む……ただの弱い妖さ」
薫と名乗った妖は何を考えているのか分からない顔で、ふっと笑う。
「それで、薫さんは何を願ったの?」
水綺の問いに薫はすぐには答えず、足元の草を踏みしめる。柔らかな音を立てて穂が倒れた。
「……大した願いじゃないよ。私の願いは、あの子と並んで歩きたい。ただ、それだけさ」
「あら。命を延ばしてほしい、ではないのね。見たところ元は強い妖だったでしょう?力を取り戻したいとは願わなかったの?」
ロゼイアの問いに、薫は可笑しそうに肩をすくめた。
「まぁ、考えたことはないかって言われたら勿論ある。だけど、どうでも良くなってね。さっきの人間、見ただろ?」
「人間?」
「杖ついてた奴のことか?」
「あの子は翳。私に会いに来る、とても酔狂な人の子だよ」
薫は野原を見渡しながら語る。
「ここは何もないだろ?昔はここら一体田畑だったけど、今じゃ人も増えて作り替えられた。草と花、虫とたまに鳥がやって来るぐらい。段々と時代は進んで、うまくいかないみたい」
「?」
「そんな面白みのないこの場所に、あの子はやって来た。初めは食べてしまおうと思ってたんだけど…」
「え」
「あの子、とっても面白かったから食べるのはやめたよ」
「妖って人を食べるの?」
「好み、じゃね?」
「おえ……じゃあ、ロゼイア姉様も?」
「流石にないわよ。考えたくもない」
薫は翳が去っていった道の方へ顔を向けた。
「あの子はね、目が見えないんだ。一ヶ月前に何やら揉め事をして、目が見えなくなったんだって。医者曰く、本当は見えるはずなのに心に傷を負ってしまって自分から目を閉ざしたんだとか。可笑しな話だろ?」
愉快そうな声色だった。人にはない価値観で人の弱さを笑う妖らしい言動。
「よく転ぶし、迷子にもなる。薫、薫って何度名前を呼ばれたことか。妖の私に助けを求めるなんて実に愚かで滑稽なことだ。ここに来るまで疲れるだろうに、何故かあの子はここに来る。雑草しかないこの地に。何も見えていないのにね」
悪態をついているはずなのに、その視線は翳が去った方角から離さない。見えない翳の代わりに、最後まで見送るつもりでいるかのように。
「それだったら目を治してほしい、って願いじゃなくていいの?強く願うなら、叶えてあげられるよ?」
「確かにどんな願いも叶える綻びの社なら叶えてくれるだろう。だけどね、水綺。私の叶ってほしい願いはたった一つだけ。それに私はお人好しじゃないんだ。本当に失明したならともかく、見える状態なら自分で何とかしろって思わない?」
「んー、どうだろ?分かんない。鏡影は?」
「俺は自己責任派。自分のことは自分でどうにかしろ、だな。失明じゃないんだ。健康状態ならそのうち治るだろ」
「確かに?」
「あの子もいつか治るだろ、なんて脳天気に言っていたよ。まぁ一ヶ月経っても見えていないから、進捗は滞ってるみたい。心の傷で見えなくなるなんて、人間は本当に弱い存在だと思わないかい?」
「あ、はは……」
「ご歓談のところ、ごめんあそばせ」
パン、パン。とロゼイアは手を叩く。
「歓談はここまでにして、改めて願いの確認よ。あなたの願いは"人間と並んで歩きたい"。お間違いなくて?」
「うん、間違いではないよ。でも、できるならもう一つ、手助けしてほしいことがある。引き受けてくれないか?」
「内容によるわ」
「私の願いが叶ったら、翳の帰りの補助を頼みたい。慣れてない道を歩いたら、きっとあの子の負担になってしまう。私の願いで負担になるのは本位じゃない。どうだろうか?」
「……構わなくってよ。その役目、見習いに任せるわ」
「え?」
「はあ?」
「お返事は?聞こえなくてよ?」
「「……はい」」
「ありがとう。明日、翳は昼頃に来る。その時に願いを叶えてほしい」
念を押すような問いにロゼイアは一瞬視線を伏せ、やがて頷いた。
「あなたの願いはワタクシ、ロゼイアが叶えてあげましょう。素敵な殿方とのデート、どうか心ゆくまで楽しんで。悔いの残らないように、ね」
「そうするよ。夢が続く限り、めいいっぱい楽しんでくるさ」
薫は楽しげに笑った。依頼者の雰囲気呑まれ、水綺もつられて笑う。その傍らでロゼイアと鏡影だけが、同時に何かがほどける瞬間を感じ取るが何も言わなかった。風の音だけが残り、その場所は何事もなかったかのように静まり返る。まるで薫の願いを表しているかのようだった。それが叶う前の静けさなのか、失われる前触れなのか。水綺にはまだ、分からなかった。




