あなたに添える花
水底織殿。
それは水の底に沈む願いを織り上げる者たちの宮殿。壁の代わりに薄い絹の帳が幾重にも垂れ、外の景色を柔らかく遮っている。風のないはずの水底で、絹だけが静かに呼吸するように揺れた。
ガシャン、ガシャン
今日も願いの糸を織る音が宮殿に響く。
****
古びた洋風の家がひっそりと佇んでいた。かつて華やかな時代に建てられたその家は今もなお気品を残し、年月の埃さえ美しさに変えている。窓辺には鉢植えが並び、風に揺れるたび、小さな鈴の音のように葉が触れ合った。
「わあ……素敵なところ」
庭には見たことのないほど多くの花が咲き誇っていた。社には花というものが存在しない。いや、ロゼイア姉様が華ではあるけれど、絹と織機のみの社じゃ、こんな鮮やかなものは見られない。社にも少しくらい花を飾ればいいのに。
「ボケーってするな。早く口上を言え」
「わ、分かったってば」
鏡影に肘で突かれる。まぁ、ぼーっとしてた私も悪いけど、もう少し優しくしてくれたっていいじゃん。そんな不満を胸に口上を述べる。
「もし、もし。願いを叶えに、綻びの社から参りました。糸は、お持ちでしょうか?」
しばらくして、扉が開く。白髪混じりの老婆が訝しげな瞳でこちらを見つめた。
「あの…どなた?」
「ワタクシの名はロゼイア。あとは見習いよ」
「鏡影だ」
「水綺です」
「あなたが強く願った願いを叶えに来たわよ。願いは何?」
老婆は一瞬目を細め、それからゆっくりと頷く。
「そうでしたか。でしたら此処ではなんですので、中へどうぞ」
老婆の後に続く。玄関をくぐった瞬間、古い木の香りが鼻をくすぐった。
「にしても、人間からの願いなんて久しぶりね」
「?願いはどれも同じなんじゃ…」
「お馬鹿さんね。妖はワタクシたちと同じ波長だから届きやすいの。けれど人間はそうもいかない。幾つもの工程を経て、やっと願いが形になるの。それほど強い想いでなければ、私たちの所までは届かないわ」
「つまり…?」
「要するに死ぬほど面倒な準備して、強く想わきゃ願いが来ないって話だ、バカ」
「なるほどーって、バカじゃないし!」
「散らかってますが、どうぞ」
老婆の部屋は外に比べてとても涼しかった。古い家具の間に枯れかけの花瓶が一つ。そこだけが時間から取り残されたように静かだった。
「私は薊。園芸が趣味でね、色んな花を育てているの」
「見たよ!とっても綺麗に咲いてた。あんな綺麗な花を育てているなんて凄いね」
「あら、ふふふ。ありがとう。私の願いは、枯れない花がほしいわ」
「枯れない、花?」
「えぇ。あの仏壇を見て」
指先が古びた仏壇を指す。白く濁ったガラス戸の向こうには、萎れた花と色褪せた写真。花瓶の水は濁り、香の煙がかすかに漂っている。
「……あの人はね、私の夫よ」
その声は、花びらのように震えていた。
「毎日、新しい花を供えてきたけれど……もう、腕が言うことを聞かなくてね」
自分の手をさする薊さんに、疑問に思って聞く。
「どうして?病気なの?」
「ふふ、違うわ。歳なのよ」
「??」
「歳をとったらね、身体のあちこちが言うことを聞かないの。あなたも大きくなったら分かるわ」
「ふーん?」
そういうもんかなぁ。人間について、少しだけ知識がついた。
「あなたのお願いは分かったわ。あの仏壇に供える花が欲しい。そうよね?」
「ええ」
「……そう。だけど願いを叶えるその前に、お代を払っていただけるかしら?ワタクシに食事を振る舞うのよ。そうしたら、あなたの願い、叶えてさしあげるわ」
「なら腕によりをかけて作るわね。久々のお客さんだもの。豪勢にしなきゃ」
「食べるのはワタクシだけよ。そこは勘違いで」
鼻歌を歌う薊さんに肘を突かれる。なんだろう?と思って隣を見れば、鏡影が難しい顔をしていた。
「どうしたの?」
「ちょっと表に出るぞ。話がある」
「うん?分かった」
「俺たち、庭の花を見ていいか?」
「……えぇ、いいわよ。しばらく時間かかるだろうしね」
「分かった。すいませーん!花、見てきまーす」
「どうぞ〜」
鏡影と一緒に外へ出た。外の空気は、むっとするほど熱い。さっきまで過ごしていた部屋の涼しさがまるで夢だったみたいに感じる。庭には色とりどりの花が咲き誇っていた。
「おい、ノロマ。さっき仏壇に供えていた花、見たか?」
「え?うん。黒い花だったよね。なんの花かは知らないけど」
「黒百合だ」
「黒百合?白い百合は知ってるけど、そんな色もあるんだ」
「……死んだ人に添えるには悪くない花だ。けど、願いとしてはどうだろうな」
「どうって?」
鏡影は視線を花壇に落とした。陽を浴びて鮮やかに咲く花々がどれも整っていた。
「黒百合の花言葉、知ってるか?」
「ううん。知らない」
「花言葉は『呪い・再生・愛』。あの婆さんがどれを想って供えたかは知らない。けど今回の依頼、もし意味のある願いだったら厄介だ」
「なんで?」
「愛だったらいい。仲良し夫婦で終わる話だ。再生は……まあ、場合による。けど、呪いだったら?」
「……薊さん、優しそうだったけどなぁ」
「優しい人間が枯れない花なんて願うかよ」
その一言に思わず身震いがした。熱気の中で風がひとすじ吹き抜ける。花びらが揺れて、かすかな影を地面に落とす。その揺れが、どうしようもなく不気味に見えた。
「…どういう意味?」
「願いってのは本音が出る。たとえば"枯れない花"ってのは失いたくないとか、埋めたい記憶とか。そういうもんだ」
「でも誰かを想う気持ちなら、いいことじゃない?」
「そうかもな。けど、あの仏壇の花を見て…そう言えるか?」
その言葉に返す言葉が見つからない。黙る私に鏡影は意味ありげな顔で告げる。
「それにお前は見れたか?この庭に……黒百合が咲いているのを」
蝉の声が遠くで鳴いていた。熱を帯びた風が頬をかすめ、花々をひとつ揺らす。その中に黒百合らしき花は、何処にも見当たらなかった。
「……戻ろう?」
「そうだな。長居すると、ロゼイアが怒る」
冗談めかした声が、どこか真剣に聞こえた。
「ただいま戻りまし、たー…」
部屋の扉をそっと開けた瞬間、ふわりと香ばしい匂いが部屋に充満していた。ロゼイア姉様はテーブルの中央で黙々と食べている。その手つきは、まるで高級レストランか宮廷料理の席にでも座っているような完璧な所作。なのに皿は次から次へと空になっていく。あまりの光景に思わず足が止まった。あの華奢な身体のどこに入っているんだろう。ほどなくしてロゼイア姉様は最後の一口を上品に飲み込んで箸を置いた。
「ご馳走様」
「はあい、お粗末さま。ふふふ、いっぱい食べてくれるから、ついつい沢山作っちゃったわ。味は大丈夫だったかしら?」
「…まぁ、味は、悪くはなくってよ」
「それはよかったわ」
「じゃあ見習い、皿洗いよろしくね」
「え!?」
「はあ!?なんで俺らが?!!」
「なあに?ワタクシに逆らうの?」
「「…………」」
「……まぁ、仕方ないよね。私たち見習いだし」
「クソが」
「ちょっと鏡影、聞こえちゃうよ」
鏡影と二人でぶつぶつ言いながら皿を洗う。皿洗いをしている私たちをよそに、ロゼイア姉様は依頼を進める。
「では改めて願いの確認よ。あなたの願いは、"枯れない花が欲しい"だったかしら。間違いはなくて?」
「ええ」
「何故その願いを望んだか聞いても?」
「いつもは育てた花を供えていたんだけど、私もいい歳だから体があまり言うことを聞かなくて。育てた花じゃないのは夫に申し訳ないけれど…夫には綺麗な花を供えておきたい。枯れない花なら、あの人もきっと寂しくないわ」
「それが、あなたの願いなのね」
「ダメかしら?」
「構わないわよ。あなたが、そう強く望むなら」
ロゼイア姉様は小瓶を取り出し、手のひらに一滴の水を落とす。そのまま軽く握りしめ、横にひと振りすると一本の花が形を成した。
「ワタクシの能力【美しい花には棘がある】は、真実の想いにのみ奇跡をもたらす。この花が、あなたの願いの形よ」
瑞々しく、漆黒に輝く薔薇。花弁の縁に紅の影が差し、どこか危うさを感じさせた。
「あら!黒い薔薇だなんて凄いわ。ブラックバッカラや黒真珠よりかなり黒い。それに人工染色じゃない。とっても素敵」
皿を片付け終え、キッチンの片隅で立ち止まる。黒薔薇に視線を向けながら口を開く。
「黒い薔薇って、薊さんでも育ててないの?」
「黒い薔薇は繊細で育てるのにとっても難しいの。元々自然界に存在しないものだし、近い色はあるけれど、私は綺麗に咲かせられなかったわ」
「じゃあ黒百合は?」
「黒って入っているけれど、本当は黒に近い色でね。手入れは大変で希少品種だけど黒薔薇ほどじゃないわ」
「そうなんだ」
あんなにたくさんの花を咲かせているのに、黒百合も手入れが大変。さらに黒薔薇はもっと特別なんだ。
『それにお前は見れたか?この庭に……黒百合が咲いているのを』
私と鏡影でも見当たらなかった黒百合。薊さんは手入れが大変だって言ってたけど、じゃあ、その黒百合はどこで育てているんだろう。聞ける雰囲気じゃなんだかできなくて、隣にいる鏡影の裾を掴んだ。
「ご希望通り、この花は永遠に枯れないわ。あなたの願いに添えられたかしら?」
「とっても。私の願いを叶えてくれて、本当にありがとう。仏壇に供えさせてもらうわね」
「ええ、どうぞ」
黒い薔薇が、薊さんに手渡された。
「いつかあなたの想いが枯れればいいわね、マダム」
ロゼイア姉様の言葉に、薊さんはただ静かに微笑んだ。それがなんだか黒百合の花が見当たらなかった花壇と同じ。ちょっとした、変な違和感。初めて会った時はとても優しそうだったのに今は少し、怖くて仕方がなかった。
*****
花が好きになったのは、ほんの些細なこと。学校で朝顔を育てて、綺麗に咲いたのを先生が褒めてくれた。たったそれだけの、きっかけだった。
見合いの席で夫と出会った。見合い結婚なんて珍しくなかった時代。あの人も私もただ、この人と結婚するんだなって漠然と受け入れた。家庭を持ち、子供に恵まれた。大変で辛いこともあったけれど、花の世話は怠らなかった。手間暇かけて綺麗に咲いた花は疲れを癒し、子供も「お母さんの花は綺麗だね」なんて喜んでくれた。そんな平凡な日々だった。
「お帰りなさい、あなた。また飲んでいたのね」
「うっせーなぁ。仕事だよ、仕事」
子供も眠る深夜。顔を赤らめ、酒の匂いを纏う夫が今日も夜遅くに帰ってきた。不満はたくさんあるし、文句を十個くらい言ってやりたい。それが無駄なやり取りだって、結婚してから十何年分かっている。ふらふらと廊下を歩く夫は、よろめきながら手に持った鞄を乱暴に置き、文句を呟く。
「んっとに使えねーなぁお前は。仕事頑張っている俺に労わりもねぇのか。普段土ばっか触りやがって。そんなことしている暇があったら、もっと家に尽くせよな」
その声の奥にある疲労と酒の匂いに、私はため息をつくしかなかった。酔っ払いの酔言。次の日には忘れてしまう迷惑な話。聞いても無駄。そんなことは分かっている。でも怒りがふつふつと溜まっていく。
「あ?邪魔だぞ、片付けろ」
酔っ払った夫はふらっと花瓶にぶつかる。花瓶は倒れ、カシャンと音を立てて割れた。花弁と葉が散り、水が廊下に広がる。夫は何も気にせず部屋に向かった。
「………」
私はただ、割れた花瓶と散らばった白椿を前に立ち尽くしていた。生けていたのは白椿。結婚前に夫が花は白椿が好きだと言っていた。植えていた花の中で一番手間がかかり、やっと綺麗に咲いたのに。白椿の花言葉は沢山あるけれど、まとめると『控えめな純粋な愛』になる。私は今の生活に満足していた。けれどあの男は、好きだって言っていた花を、私の誇りを…あいつは、平然と踏みにじった。
許サナイ
仏壇の鈴をチーンと鳴らす。澄んだ音が部屋に広がった。花瓶に生けてある黒い薔薇が、仏壇とよく似合っていた。
「ふふ。私の気持ち、届いたかしら。綺麗に咲き続けるから、あの世でも途切れることないわね」
黒薔薇の花言葉は、『憎しみ・永遠の愛・あなたは私を変えた』
「ずっと……ね?」
*****
任務を終えて綻びの社に帰る。水に満たされた小瓶を狼さんに渡し、さっきの薊さんの願いを振り返る。
「なんだか怖い願いだったな」
「まぁ、恨みは何十年続くって言うし。恨みすぎて怨霊になった奴、実際いたらしいしな」
「誰だっけ?」
「俺が知るか。ツヅヴィアに聞け」
「えー?ツヅヴィア兄様ってあんま起きないじゃん」
「水綺、糸」
「あ、ごめんごめん。ワオトちゃん、お願い」
「ん」
手首に巻いた糸が、糸切りバサミで切れた。あの花も、この糸みたいに簡単に切れたらいいのに。
「人間って複雑で怖いなぁ。想いで枯れない花なんて、きっと疲れるのに」
「何を言っているの?嫌いになるなんて、愛を注ぐより簡単なものよ」
「ロゼイア姉様」
「他人を嫌い、憎み、恨む。自分とは違う存在に嫌悪するのは誰もが抱くもの。隣人を愛せよ、なんて聞くけれど。そんなのは聖人か、自己犠牲ができる人の話よ」
「言い過ぎ?」
「いや、合ってるだろ」
「あなたたち覚えておきなさい。感情を持たない生き物なんて存在しないわ。平等なのは自然と無機物だけよ」
ロゼイア姉様の背が帳の向こうに消える。残された沈黙がやけに重くて喉が詰まった。感情があるから花は枯れない。感情があるから人は壊れる。薊さんの花は、憎しみに支えられてこれからも咲き続けるんだろう。願いって、怖いな。いつか私も、誰かにそんな憎しみを抱くのかな。
ぽちゃん、と雫がどこかで跳ねる。その音が胸の奥のざわめきとともに広がった。
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ピンポーン
インターホンが鳴る。今日はお客さんの予定なんてなかったはずなのに、と首を傾げながら扉を開けた。そこには高校生になった孫の姿。
「あら、竜胆くん。いらっしゃい。どうしたの?」
「うっす。あの、今度、母が誕生日で……プレゼントに、ばあちゃんの花をあげようと思って」
「あらあら。それはいいわね。でも、ばあちゃんの花でいいの?お花屋さんの方が色々あるわよ?」
「えっと、母は、ばあちゃんの花が好きだから。ばあちゃんから貰ったっていう押し花の栞、まだ持ってるし。俺、花あんま詳しくないから…教えてほしいんだけど」
たった数ヶ月で芽吹いて茎を伸ばし、花を咲かせて散る。短い命だけど手間をかければ応えてくれる。夫のことは一生許すことができない。けれど子と孫に罪はない。子は私の花が好きだと言う。その孫が花をあげたいと言ってくれるなんて。
「……ふふ。そうなの。いいわよ。お母さんが喜びそうな花、一緒に探してみましょうか」
「…ざっス」
仏壇に飾られた黒薔薇が、ふと揺れる。黒い花弁が一枚静かに散った。




