8、契約
翌日、森さんの会社に電話をした。
「プロジェクトの話、お受けします」
「よかったです。業務委託という形になりますので、お手数おかけしますが、もう一度、来ていただけますか?」
「はい。今日のお昼前に伺えますが、よろしいですか?」
奈美が学校から戻る前に、帰って来たい。
「では、11:30にご来社ください。一緒にお昼でもどうですか?」
「はい。そうさせてください」
待ち合わせより少し早く着くように行ったが、森さんは既にエントランスで待っていた。
「あれ、時間間違えましたか?」
「いいえ。楽しみ過ぎて、『待て』が出来ませんでした」
愉快そうに笑う森さんを見ると、なんでこんなに胸が痛くなるのだろう。
会社でよく使うという、蕎麦屋に行った。
「蕎麦屋というには、少し……立派過ぎません?」
店の佇まいに気後れする。
「蕎麦懐石って感じですかね。そんなにかしこまった店ではないです。商談で使用した時は、月締めの請求書で会社持ちになるんです」
「すごい……ですね」
昼は通常、お客を入れないという個室に通された。
森さんが「いつものでお願いします」と言うと、店員はにこやかに頷いて出て行った。
「とりあえず、目を通していただきたい書類が……こちらに」
「ものすごい量ですね」
「そうなんです。業務委託契約は何かと細かくて。申し訳ありませんが、内容を確認して、こちらにご署名をいただきたいです」
小さな字でびっしりと埋め尽くされている書類に目を通し、最後の空欄に署名をした。
「会社に戻って上長のサインを貰ったら、一部を返送させていただきますね」
「よろしくお願いします」
上品な蕎麦懐石が運ばれてきた。
「こんなに食べられるかな」
「一杯飲みますか?」
「いえ、さすがに今日は」
笑うしかなかった。
「サンフランシスコでのスケジュールや詳細は、後日、送らせてもらいますが、セミナーやパーティーの出席がありますので、ドレスコードに注意してください」
「ドレスコード……」
「はい。お手持ちの物があればそれで構いませんが、イブニングドレスはお持ちですか?」
「いいえ」
森さんは食べ方がすごく綺麗だ。
「パーティーと言っても、舞踏会ではないのでダンスの練習はしなくて大丈夫です」
真面目な顔で言っている、それが、冗談と分かり笑ってしまう。
「残念、ダンスは得意なのに」
「奇遇ですね。実は僕も自信があります。今度、踊ってください」
お酒が入ってないのに、ふわふわと心地よい気分に溺れていく。
「残念ながら、衣装代は経費には落とせないので……ドレスは、僕からプレゼントしましょうか?」
冗談なのか、本気なのか、分からず、大きな声で笑ってしまった。
「大丈夫です。こんなにいただけるとは思っていなかったので」
私は書類を指さした。
「旅費と滞在費は食事も含めて、こちらでお支払いさせていただきますので、ご心配なく」
「ありがとうございます」
思いがけないことを真面目な顔で言う、森さんはいつも面白い。
出張までは、まだ数日あったが、イブニングドレスはどうしようか。
一人で選ぶ自信が無くて、由貴さんを頼ることにした。
「一緒に買い物に行ってあげるよ~」
由貴さんが快く協力してくれたので、百貨店で待ち合わせをした。
「サンフランシスコ!いいなぁ!」
「5日で行って帰って来るので、結構、弾丸です」
「でも、出張費、全額出してもらえるんでしょ?」
「はい」
デパートの中に、こんな売り場があったのかと、驚きながら歩いた。
「これって、売ってるんですか?」
「そうそう。結構するけど、レンタルも意外と変わらないって言うか、買っちゃった方がいいと思うよ」
子どもの頃のピアノの発表会を思い出す。
「森さんも行くの?」
「はい」
「いーなー、間違い起こさないでね」
「起きませんよ」
おしゃべりしながら、試着を繰り返した。
「それ、いいんじゃない?似合ってる」
「ちょっと、派手じゃないですか?」
「そんなもんだって」
由貴さんに勧められたドレスに決めた。
「ああ、喉が渇きましたね。お礼します。食事して行きませんか?」
「わーい!真実ちゃん、ごちになります!」
「実は、近くに気になってるお店があるんですよね」
二人でカラフルなタイル張りのレストランに入った。
「ポルトガル料理?」
「食べたことあります?」
「ない。想像もつかない」
「ですよね、私もです」
おすすめメニューの上から3つと、ポートワインを頼んだ。
「ポートワイン?ルビーだって!」
「ルビー?!響きが最高です!これにしましょ!」
甘くて濃い、アルコール度数の高そうなワインだった。
「「うんまあぁ」」
声が揃って、二人で笑った。
ポルトガルの料理は刺激の少ない、優しい味付けがとても美味しかった。
由貴さんになら何でも話せる気がした。
森さんへの名前の付けられないこの感情以外は。
家に帰ると、郵便受けに大きな封筒が入っていた。
この字……ドキン……心臓が大きく打った。
契約書の控えと、出張の旅程表等が入っている。
そして、前と同じ便箋のメモ。
『楽しみにしています。どうぞ、体調を崩されませんように』
心が震える。
森さんのことを考えると、くすぐったくて苦しくなる。
どうして『楽しみ』なんて書いたの?
私はなんて答えればいいんだろう。
英夫のことが好きだし、これからもずっと一緒に居たいと思う。
だけど、もし、ほんの少し、森さんと早く出会っていたら、と思うこともある。
やましいことはない。
何かを期待しているわけではない。
本当?
平然と嘘をついてしまう自分の気持ちに戸惑う。
ドレスを選びながら、森さんがどんな顔をするか想像していた自分がいたでしょ?
それは確かに、英夫ではなく、森さんだった。
この感情が正しくないことは分かってる。
だけど、自分でどうにかできるものなの?
いつからか、自分で自分が理解できない。
こんなの嫌だなと思いつつも、この甘くて苦しい痛みにやみつきになってゆく。
「お母さん、今日のご飯なに?」
娘の声で我に返る。
「ハンバーグ」
「わーい!楽しみ!」
もっと溺れていたい。
ずっと浸っていたい。
一人で考える自由を、家族に奪われる。不快。
ぼうっとしながら、玉ねぎを刻む。
私が食べたくなくても、私は家族の為に料理を作るから。
私がやりたくなくても、私は部屋を片付けるから。だから……
お願いだから、私がこの感覚を味わう時間を邪魔しないで。
「今日ね、夏休みのお便りいっぱいあるよ」
テーブルにA4のわら半紙が並ぶ。
「あとで見とくね」
「これは、大事なやつだから、先生が必ず見てだって。宿泊を伴う野外活動だって」
「そっか、夏休み明けにあるんだね。奈美はお泊り大丈夫そう?」
「まあね。お母さんの出張も、お泊りの野外活動みたいだね」
「そうだね」
娘にまで嘘をつくの?
罪悪感に耐えられる?
図太い自分がキライ。
一日の終わりに日記帳を開く。
由貴さんとドレスを選んだこと、ポルトガル料理のことを書きながら、違和感と自己嫌悪。
仕方がないよね。私が書き残したいのは、本当は森さんへの気持ちなのだから。
20年、本音を書き綴ってきたはずなのに、正直に書けないなんて、私、悪いことしてる。
分かってる。私が日記に本音を書く自由だけは取り上げないで欲しい。
そう、思いながらも、ありのままの気持ちを書く自信がない。
もし、書いてしまったら、動かぬ事実を認めてしまうみたい。
曖昧にしておくことで、傷つくかも知れない自分を守ってる。
楽しんでる残酷な自分を認めたくないけれど、楽しんでいる。
英夫のことも奈美のことも、今は、家族のこと考えたくない。