3、先輩
買ってきた服を部屋で眺めながら、勤めていた会社の先輩を思い出していた。
由貴先輩は2歳年上の綺麗な人で、当時、結婚はしていたが、子どもはいなかった。
憧れていたので、服装や仕草をよく真似た。
そもそもキャラが違うから、似ていたかどうかは別の話だけど。
新婚当時、仕事終わりによく飲みに行った。
「子ども作らないんですか?」
「別に、結婚したからって子どもがいなきゃならないわけじゃないしね」
「でも、子ども欲しくないですか?」
「欲しいかどうかは夫婦で決めればいいし、いなくたって結婚生活は楽しいよ」
「でも、子ども作らないって決めてるんだったら、付き合ってるだけでよくないですか?」
「え……まあ」
「子ども作らないのに、どうして結婚したのかなって、単純に疑問っていうか」
当時のことを思い出しながら、昔の日記帳を探した。
3冊並んだ書き終わった日記帳から、12年前の日記を読み返す。
「あった。やっぱり、ずいぶんと失礼な発言をしてる……たぶん、この後から由貴さんと飲みに行かなくなっちゃんたんだよなぁ。傷つけちゃったよね……」
快活で何でも答えてくれる由貴さんに、私は甘えていた。
プライベートなことに口出しし過ぎたことを反省して、『謝れてよかった』と書き足した。
翌日、リビングで奈美とゲームをやっていたら、携帯に着信があった。
知らない番号なので、無視していたが、しつこく鳴るので出ざるを得ない。
「はい……」
「あの、音山さんの携帯でよろしいでしょうか」
「はい」
「真実ちゃん?私。由貴です。昔、一緒に働いてた……」
「由貴さん!お久しぶりです!」
「携帯番号、変わってなくてよかったぁ。実はしばらく海外に居てね、帰国したから会いたいなって」
翌日、二人は勤めていた会社付近の居酒屋で会うことになった。
「由貴さん、ちっとも変りませんね?」
「いーやー、変わったよ。ひとまわり歳くった」
「それは、私も同じです」
「「あははは」」
由貴さんは夫の海外赴任に同行し、外国を回っていたのだという。
アメリカでの5年間の任期が明けて、戻って来たのだそうだ。
「真実ちゃん、お子さんは?」
「小5になる娘がひとりいます」
「そっかぁ、お母さんやってるんだね。すごいね」
「別にすごくないです。誰でもできます。子育てはしてるつもりですけど、ちゃんとできてるのかどうかは別の話です」
昔からビール好きな私たちは、つまみもそこそこにグビグビとジョッキを煽った。
久しぶりに会った感じがせず「つい先日の話の続き」をしているように盛り上がった。
「仕事辞めたんでしょ?」
「はい。娘が小学校に入学して、仕事との両立が難しいなって」
「時短とかって取れなかったの?」
「保育園の頃はよかったんですけど、いわゆる『小一の壁』ってやつです」
「ごめん、私、子どもいないから分かんないかも」
注文していた料理が運ばれてくる。
居酒屋とは言え、上げ善据え膳は、最高だ。
「保育園は迎えに行くまで預かっててもらえるんですけど、小学生になると放課後の過ごし方は家庭によるんです」
「学童とか?」
「それもありです。でも、学童って飽きちゃったり、勉強の面倒とかは見てくれないので、おやつ食べて帰ってくるだけ、みたいな……」
「なんて言うか、勿体ないね」
「はい。だから、習い事とか、お友達と遊ぶとかでもいいんですけど……それだと、一旦家に帰らなくちゃならなくて……迎えに行かなくても一人で帰って来るって、小一にはきついかなって。一人で大丈夫なのか気が気じゃないって言うか、親ばかなんですかね、あはは」
「さすがに小一じゃねぇ」
唐揚げにレモンを絞り、空になったビールジョッキを渡してハイボールを頼んだ。
「ねぇ、真実ちゃん、藪から棒だけどさ、英語話せたよね」
「英文科卒ですけど、話せませんよ」
「あ、話せなくて大丈夫なんだけど、翻訳はどう?」
「どうって……やったことありません」
レモンとマヨネーズでひたひたの唐揚げは大好物。
「私さ、アメリカにいる時、パートで翻訳の仕事やってたんだけど」
「めちゃ、かっこいいです」
「こっちに戻ってからもネットで納品できるから継続しててね」
「へぇ。ドルで振り込まれるんですか?」
「うん。でさ、真実ちゃんも一緒にやらない?」
「へ?」
驚いて、ハイボールを一気飲みしてしまった。
「できる気が……」
「大丈夫だよ。修正はプロがついてるし、私もいるし」
「あんまり自信が……」
「考えるだけ考えてみてよ、ね?」
23:55
静かに鍵を開けて帰ると、英夫が起きていた。
「こら、不良娘」
「ごめん。盛り上がっちゃって」
言葉とは裏腹に、怒った様子はまるでない。
「由貴さん、元気だった?」
「うん!」
私のことを愛おしそうに見つめる夫。
「退院できたんだから、気持ちは分かるけど、あまり羽目を外すなよ」
「はい」
もう一本飲んじゃおうかな。
冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
「言った傍から……」
「えへっ」
英夫の缶ビールと乾杯。
「由貴さんからね、翻訳の仕事やらないかって誘われたの」
「すげーじゃん!」
「できるか分からないって言ったんだけど、一緒にやろうって、いろいろ教えてくれるって」
「なに?やりたくないの?」
「やってみたいけど……」
「やれよ。応援するよ」
数日後、由貴さんが資料を持って、うちに訪ねてきてくれた。
「さすが、由貴さんって、やること早いですよね」
お茶を出しながら、娘を紹介した。
「奈美です。5年生です」
「おお、自己紹介できるんだ。えらいね」
「お母さん、私、部屋で遊んでていい?」
「オンラインゲームは駄目だよ」
「はぁ~い」
由貴さんは早速、持参した封筒を開けて、翻訳の概要を説明してくれた。
「依頼はメールで来るんだ。これ、私が前にやったやつ」
「なるほど」
「納期は一応あるけど、都度交渉できるよ」
「そうなんですね」
「とりあえず、簡単そうなの持ってきたんだけど、やってみない?」
「いきなりですか?」
由貴さんは、自分が手がけている案件の一部を持ってきていた。
「とりあえず、やってみなよ。私が日本円でお支払いするからさ」
「これっていいんですか?」
「正式にはダメ」
べえっと舌を出す。
「言わなきゃ分かんないっしょ」
「由貴さんってば!」
「もし終わらなそうだったら、早めに相談してね」
「ありがとうございます。やってみます!また、由貴さんとこうして繋がれて良かったです」
「私も、同じこと考えてた」
「「あははは」」
その夜、英夫の晩酌に付き合いながら、私も自分のグラスにビールを注いだ。
「今日、由貴さん家に来たんだろ?」
「うん。それでね、翻訳の仕事見せてもらった」
「どうだった?」
「やってみようかな」
興奮冷めやらない感は残っていたが、入浴を済ませ、部屋で昔の日記帳を取り出した。
私の一番最初の5年連用日記、それには17歳から21歳までが綴られている。
「大学時代の反省……ってわけじゃないけど、もっと勉強しておけばね……」
ペラペラとページを捲り、英語の授業について書かれている部分を探し出す。
「あった、あった」
いつものボールペンをカチリと鳴らして、こう書き換えた。
『英語のテスト、結果は散々だった……』
↓
『英語のテスト、結果は最高だった……』
事実が変わるわけではない。
私のテストの点数が上がったわけではない。
だけど、同じ結果でも、受け止め方次第で、もしかしたら自信が持てるかも知れないんじゃないかと、淡い期待がある。
英夫も応援してくれるって言ってくれたし、頑張ろうっと。
その日の日記は、ポジティブなことをたくさん書くようにした。