黙龍盲虎
黄昏の空に幾千もの灯火が飛び立った。
人々の願いをのせたそれは揺れる炎で薄闇を裂き、空高く舞い上がる。
燃え尽きて地に還るものがあれば、天まで昇り星となるものもあるだろう。
夜空を彩る光の下、馬車に揺られていた男は次々と燈籠を放つ人々を横目で眺めた。
大国の都である長安では、年明けから最初の満月の夜に開かれる祭りで大いに賑わっていた。
その日の夜は元宵と呼ばれ、人々は燈籠をともして神仙に吉祥を祈る。
空に飛ばした燈籠が天に届けば願いが叶うという言い伝えもあり、華やかな灯りが都を埋めつくす様は壮観だ。
広場の上空では、鳳凰を模した巨大な燈籠が今まさに翼を広げて飛び上がったところだった。
空を見上げる人々の姿に物憂げな眼差しを向けていた男は、そっと視線をそらす。
一面にびっしりと光が散らばっているせいか、少し目がちかちかする。
ふっと軽く息を吐くと、正面に座っている人物が笑った気配がした。
『お疲れですか? 元宵はまだ始まったばかりですよ』
顔を上げると、作り物のように整った白面が目に映る。
白皙の肌と色の薄い髪に、灰がかった碧眼を有する眉目秀麗な貴公子。
この国においてそれらの特徴に合致する人物はただひとりしかいない。
皇帝の若き右腕、百里朮である。
『子君殿は長安で生まれ育ったと伺いました。いかがです? 懐かしいですか?』
唇の動きから発された言葉を読み取ると、男はすぐさま頭を振る。
俗世を離れ、武の道に志してから早十余年。
江湖では知らぬ者なき高手となった今、郷愁の念などもはや残っていなかった。
そもそも世捨て人である彼が再びこの地へ足を踏み入れたのも、他ならぬ百里朮からの依頼のためなのだ。
『そうですか。先代から、長安も随分と変わってしまいましたからね』
仕方がないのかもしれません、と百里朮は肩を竦めてみせた。
その美貌には相変わらず笑みが浮かべられていたが、先とは違って無邪気な喜色を湛えている。
どうやら質問を通して自分の反応を楽しんでいたらしい、と気づいた男は内心で嘆息した。
本当に、読みづらい青年だ。
生まれながらにして聴覚を持たない男は、代わりに人一倍人情の機微に聡かった。
しかし時折、百里朮の奇矯な言動には化かされたような心地になる。
浮世離れした容姿も相まって、彼のことを妖狐か何かではないのかと本気で疑ったこともあったほどである。
『さて、まもなく会場へ到着しますよ。以前に文を通じてお伝えしたことを覚えていますか?』
ふと声を潜めて放たれた言葉に、男はわずかに目を細めた。
『あなたは江湖から招かれた客卿として、皇帝陛下主催の新年の宴へ出席していただきます』
江湖とは武術に長け、義理を重んじる武侠と呼ばれる人々が営む社会の俗称である。
権力が及ばない上に強大な力を持つため、少し前まで権力者からはこの上ない脅威として恐れられた存在だった。
しかし今代の皇帝は江湖との融和を望んでおり、積極的に交流を図る姿勢を見せている。
つまり今から向かう元宵の酒宴にて、男は武侠の代表として皇帝から直々にもてなされるというわけだ。
たしか建前上は、そういうことになっていたはず。
『言うまでもなくご存じでしょうが、念のために。ご心配には及びませんよ。すでに手筈は整えてありますので』
にこりと意味ありげに笑う百里朮に対し、男は顔をしかめた。
彼は周囲から、貴族としても官僚としてもよく期待されている。
見目麗しく聡明で立ち振る舞いには気品があり、若いながらも人の心理に精通しているとなれば当然のことだった。
ただ――。
『後のことは任せました。今後も何かあればすぐに報告するように』
百里朮は目的のためならば手段を選ばない。
秩序を守るためとはいえ、男はそんな彼のやり方を快くは思っていなかった。
『あなたには期待していますよ、隆子君殿』
好きにしろ、と彼がもし話すことができたのなら、そう吐き捨てていたところだっただろう。
やがてふたりを乗せた馬車は大通りを抜け、たくさんの燈籠で飾り立てられた船舶の前で止まる。
巨大な会場に乗りこむ高官の姿を見ながら、少々荒れた夜になりそうだ、と隆子君は思った。
◆ ◇ ◆
月が出てきたらしい。
冴え冴えとした寒夜の空気は月影を孕み、人知れず重みを増していくようだった。
本来なら暗闇と静寂が支配する刻限。
それにもかかわらずあたりが昼のように明るいのは、今年も地上と天空を結ぶ光の饗宴が行われているからだろう。
真夜中の深い闇のなかで多くの灯たちが輝き昇る姿はきっとひどく美しいに違いない。
「まあ、僕には関係ないけど」
ぽつりと独り言ち、空になった酒壺を持って自分の持ち場に戻る。
宴席の裏にある厨房では給仕の女官たちが慌ただしく動き回っていた。
着慣れぬ裙を引きずり、彼もその喧騒に交じると怪訝そうな視線を感じたものの特に何も言われない。
こういうところは杜撰なんだな、と胡珀は他人事のように思う。
皇帝主催の宴会は正式なもので出席には招待状が不可欠である。
不審者が入らないように厳重に身柄が確認され、常に厳戒態勢が敷かれている。
しかし此度は船舶の上で酒宴が催されるというので、やむを得ず人員を減らして対応することになったらしい。
胡珀のように、その隙をついて侵入する輩もいるというのに。
「ねえ、そこのあなた! 今、手空いてる?」
そのとき、不意に背後から声をかけられた。
おもむろに振り向くと、彼の布で覆われた両目を見たであろう官女が「あっ」と小さく息を呑む音がした。
胡珀はそんな官女を無視して、彼女の両腕に抱えられていた酒壺をひとつ取り上げる。
「お酒、注いできますね。どこから回ればいいですか?」
「え、ああ……それなら右のほうをお願いできるかしら」
「わかりました」
短く答えて、胡珀はそそくさとその場を離れた。
盲目だからといって同情されるのはごめんだった。
が、宴席に行く口実ができたので今ばかりは目をつぶる。
官女たちは知らないだろう。
胡珀がその界隈では名の知れた殺し屋であるということを。
盲目ながらも腕は確かなもので、暗中での暗殺術で彼の右に出るものはいなかった。
もう長いあいだ暗殺で生計を立てていたが、今回の依頼主は特に変わり者だった。
ある日、何の前触れもなく差し出された目も眩むほどの金子と月来香の模様が彫られた短剣。
名を伏せて送られた書状にはただ一言、元宵の宴にて暗殺を企てる不届き者を消してほしい、と。
もちろん疑問はたくさんあるが、多額の報酬や文面から「黙って従え」と言わんばかりの圧を感じた。
仕事上、依頼主のことを深く詮索することはしない。
場合によっては命取りになりかねないし、それが賢い世渡りだと理解しているからだ。
胡珀はしばらく思いを巡らせていたが、やがて意識を現実へ引き戻される。
宴席から戻ってきた複数の官女がひそひそとささやき合う声が聞こえたのだ。
「ねえ、見た?」
「ええ、本当にお綺麗だったわね」
「まるで現世においでなさった仙人様みたい……」
百里朮様、と上ずった声で彼女たちが口にした名前を聞いて胡珀はふと足を止めた。
百里家は代々皇帝に仕える重臣の家系であり、現当主の兄妹はともに非常に優れた人物として知られている。
妹の百里玉は傾城と称される美姫であり、兄の百里朮は若くして宰相の座を勝ち取った麒麟児。
特に長男の彼は西方の知識を駆使して内政を取り仕切り、陰謀渦巻く政界にあっても美麗さを失わないと話題になっていた。
その反面、熱心な投資家としての顔も持っており、裏では使えそうな人材を自分好みに育て上げているという噂もある。
百里朮もまたこの国で最も影響力を持つ貴族のひとりだ。
彼も酒宴に参加しているというのならば、特に用心すべきだろう。
妙案を思いついた胡珀は不敵な笑みを浮かべる。
任務を円滑に進めるためにも、少し細工をしてやることにした。
「でも、主賓の方も素敵な殿方だったわ」
「たしか武侠なんだっけ?」
「ええ、そうよ。まだお若いのにとても凛々しくて……」
標的を定めた彼の耳に、色恋の話に花を咲かせる官女たちの会話はもう入らなかった。
袖から小瓶を取り出し、中身をとくとくと酒壺に入れる。
いつも火炎瓶として常備している特製の蒸留酒である。
酒に混ぜればどんな酒豪でも酔わせて行動不能にさせられる、毒にもなりうる優れものだ。
わざわざ給仕の女官に扮したのはこのためだとも言える。
胡珀は何食わぬ顔で宴席に立ち入り、周囲の音を頼りに左端の上席へ近づいた。
宰相は君主の政務を補佐する最高位の官吏であるため、おのずと皇帝の席と近い座席になる。
くれぐれも粗相をしないよう慎重にそばへ寄ると、空の杯を持って胡珀は自ら声をかけた。
「失礼いたします。お酒をお持ちしました」
机の位置を手探りで確認しながら杯を置くと、酒をなみなみ注いでいく。
不慣れな手つきを装って酌をする胡珀はしかし、ふと違和感を覚えた。
――なんで、何も言わないんだ?
今まで胡珀が盲目であると知った者は何かしら反応を示したものである。
けれども目の前の人物はただ黙ったままで動揺した気配すらない。
標的との会話も想定していただけに、ここまで都合よく計画が進むとは意外だった。
わりと無愛想なんだな、と思い身を引こうとしたそのときだ。
突然手首を強く掴まれ、胡珀は目を剥く。
瞬時に身をよじると反射的に腰の短刀に手をやった。
◆ ◇ ◆
――謝謝、と。
固まる女官の手のひらに隆子君は指で書いた。
彼女はおそらく目が見えない。そして自分は話すことができない。
それならばと咄嗟に思いついた方法だったが、随分と驚かせてしまったようだ。
手を離すと女官は逃げるように立ち去るが、代わりに周囲からの視線がひしひしと突き刺さる。
今思えば、初対面の女性の手をいきなり掴むのはたしかに礼に欠ける行為だった。
その女官に真意が伝わったかどうか、そもそも彼女に文字が読めるかどうかすらわからないというのに。
隆子君は長い袖から扇子を取り出すと、顔を覆うようにそっと開いた。
時を同じくして、先ほどまでこちらを見ていた人々が慌てて目を逸らすのに気づく。
すまし顔を取り繕う彼らが恐れているのは、隆子君ではなくその奥。
何が起こったのか考えるまでもなかった。
主催者である皇帝が席につき、宴会の始まりが告げられたのだ。
『これより元宵の宴を開始する。まずは太古よりこの地を守護する神々へ、美しき調べを』
宦官の言葉を合図に、宮廷楽師たちによる演奏が始まった。
古琴、琵琶、二胡に銅鑼。
繊細な音色こそ耳には届かないが、重なり合い腹の奥底に響く力強い音は隆子君の身体を震わせる。
荘厳で優雅な旋律に合わせて、着飾った踊り子が中央の舞台で軽やかに舞う。
そんななか隆子君だけは、舞踊には目もくれずにひたすら扇子の影から周囲の気配を探っていた。
北の方角に皇帝の玉座があり、中心の舞台を挟んで左右に卓がずらりと並んでいる。
個々で用意された卓には豪華な料理と酒が置かれ、数百もの高官たちが食事を楽しんでいた。
これほどの大物たちが一堂に会している光景は宮廷でもなかなか見られるものではないだろう。
本来この場所は宰相のために用意された席のため、宴席のようすがよく見えるのだ。
おそらく、百里朮が取り計らってくれたものと思われる。
隆子君がよりうまく立ち回れるように。
思いどおりに動く駒となるように。
『次の酒宴で、あなたには陛下の護衛をしてもらいます。我々の関係はそれまで。元宵が終わり次第、縁を断ってもらってもかまいません』
少し前に百里一族の屋敷で告げられた言葉を反芻する。
隆子君は百里家の人間に逆らえない。
それは彼らが身分の高い貴族だからではなく、もっと個人的な借りがあるからだった。
かつて行き場のない孤児だった隆子君に文字を教え、武術の手ほどきをしてくれたのが百里家の前当主なのだ。
前宰相は息子に地位を譲り渡したあと、病によりまもなくこの世を去ってしまった。
武侠は義を重んじる。
江湖に属す人間として、受けた恩に報いないというのは決して許されないことだ。
隆子君は俗世から離れたあとも、返しきれなかった恩を抱え続けていた。
けれど今宵でそれもすべて終わる。
酒杯を傾けながら玉座の方を見やる。
異常はない、と密かに合図を送ると、妹とともに皇帝のそばで控える百里朮が笑みを濃くした。
それから異変に気づいたのは、宴もたけなわに差しかかった頃だった。
ひと通り芸を披露し終えた踊り子が退場し、鬼神の面を被った男が舞台に現れる。
この宴の目玉とも言える演目、儺戯が始まるのだ。
黒装束を身にまとった役者は自在に宙を跳びまわり、雷霆のごとき剣さばきで鬼神の戦闘を真似る。
その動きには一切の無駄がなく、鬼神役の男の力強くしなやかな一挙一動に高官たちは息をすることも忘れて見入っていた。
隆子君もまた同じように。
ただ、そのときまでは。
神剣が空気を切り裂き、鋭く振り下ろされる。
刹那、地面すれすれを掠めていったそれが舞台の床に傷を入れたのを彼は見逃さなかった。
無意識のうちに隆子君は卓から身を乗り出し、鉄扇子で刃を受け止める。
月の光を浴びて鈍く輝く剣身、その間近に迫った殺意を感じて確信する。
剣舞用の刃引きされたものではない。本物の剣だ。
『この不埒者が!! 客卿といえど、神に捧げる舞の邪魔をするなど許されぬぞ!』
気づけば、数十もの武官が隆子君の周りを取り囲んで武器を構えていた。
しかし周囲から視線と矛先を向けられても、今度は動揺しなかった。
面越しに見える無感情な瞳がじっと隆子君を見返す。
燈籠の明かりを受けて禍々しく光るそれが、不意ににたりと三日月を描いた。
次の瞬間、鬼神の身体から白煙が噴射した。
本能的に身を捻った隆子君はかろうじて直撃を免れる。
後方へ跳んで距離を取るが、大量の煙は瞬く間に視界を占領した。
それでも彼は怯まず、再び一足一刀の間合いに迫る。
視界の端に黒装束を見つけ、すかさず掴み取ったが時すでに遅し。
ひらりと黒い布だけを残し、役者は忽然と姿を消していた。
舞台に残された鬼神の面を拾い、隆子君はようやく気づく。鬼神は囮だったのだ。
煙に毒は含まれていない。ただの目くらましである。
けれども外界の情報を主に視覚から得ている彼にとっては致命打ともなりうる攻撃だった。
これでは刺客を探すどころか、身動きすらまともに取れないではないか。
そのとき、平静さを失う隆子君の視界に突如ぬらりと月来香の模様が浮かび上がる。
それは百里朮の息のかかった者である証拠。
つまりあの場所で何かが起こっているという異変の合図だ。
扇子を振るって煙幕を裂き、その方向へ駆け出す。
やがて月来香に導かれ、玉座のある壇上に辿り着いたとき、皇帝の背後に立つ人物の正体に気づいて彼は目を疑った。
――百里玉!?
迷霧のなか玉体を抱き、隠された片手に針のようなものを持っていたのは皇帝の寵妃だったのだ。
逡巡する間もなくそこにあった箸を拾い、隆子君は彼女めがけてなげうった。
「呀ッ!」
直後、彼の掌から見えない波動が放たれる。
途端に無数の箸は凶器となって一直線に飛び、百里玉の着物の袖を帆柱に縫い留めた。
衝撃で彼女は後方の壁に強く背中を打ちつけ、針を床に落とす。
これで暗殺者は身動きが取れなくなった。
しかし安堵したのも束の間。
百里玉へ向けていた視線を弾かれたように背後へ転じる。
次の瞬間、即座に身を捌いた隆子君の髪の毛数本が宙を舞った。
心臓が早鐘を打ち、直に感じた死の気配に背筋が粟立った。
だん、と踏みこんだ足を見れば、意識せず身体が臨戦態勢を取っていたのに気づく。
目線を動かすと、つい先ほどまで立っていた場所に短剣が突き刺さっている。
まるで獲物を狩る虎のごとき一撃が彼の顔すれすれを通り過ぎたのだ。
徐々に視界が晴れ、その先に佇む人影があらわになる。
今度は高く跳躍しようと再び足を踏みこんだそのとき。
みしりと羽目板が不自然に歪み、足場が崩れ落ちた。
◆ ◇ ◆
胡珀が勘違いをしていたのだと気づいたのは、厨房に戻って女官たちから質問攻めにされたときだった。
案の定、口々にまくし立てる彼女たちから宰相の名が発されることはなかった。
代わりに出てきた名は、かの 聾唖の武術家、隆子君。
彼は江湖の頂点に君臨する武侠のひとりである。
他人との意思疎通が困難なために一切弟子を取らず、ひとり己が道を極める高士だ。
しかし、その隆子君が謀反を企てていただなんて。
胡珀は投げた短剣を回収しに悠々と歩を進めた。
隆子君こそが国賊であるのは疑いようがなかった。
公衆の面前であのような奇行に及んでしまったのだから、当然と言える。
けれども皇帝の座る玉座の前まで来たとき、彼は異変に気づく。
血のにおいがしない。刃に塗った毒のにおいも依然として残っている。
仕留め損ねたのだ。
極限まで気配を消してからの投擲。
常人なら気づくまでもなく、刃の餌食となっていたことだろう。
相手は予想以上に手強かった。
それこそ千里眼を持つ龍のごとく。
しかし胡珀もそう易々と敵に逃げられるほどうつけではない。
すでに次への布石は打ってあった。
「陛下、お怪我は」
ありませんか、と言おうとした胡珀の声を遮って金切り声が響き渡った。
「隆子君です!! 陛下の暗殺を謀った不届き者は! 彼が、凶器を持ってわたくしに……その女官も近くにいたはずです!」
「愛妃……?」
どこか上の空な皇帝に対し、寵妃は随分と興奮しているようだった。
初めて見る彼女の形相にあの皇帝ですら気圧されている。
命を狙われたのだ。無理もないだろう、と胡珀は思う。
けれどもどこか引っかかる。
本来なら武侠にとって国主を殺害する利益はないはず。
それでも衆目に晒されたあの状態で騒ぎを起こすとは、何か個人的な恨みでもあるのだろうか。
「女官よ。かの武侠が朕の暗殺を企てたという話は本当なのか?」
皇帝に問われ、腑に落ちないまま胡珀はうなずく。
「ええ。直接見たわけではありませんが。彼がこの場にいたのを……」
そのときだった。
轟、と凄まじい音を響かせて船体が震えたのは。
◆ ◇ ◆
床に強く打ちつけてしまった背中を押さえ、隆子君はよろよろと立ち上がった。
そこは船内に設置された倉庫のような場所だった。
室内には乱雑に木箱が置かれ、天井から差しこむわずかな光が周囲を照らし出していた。
上を見れば、今しがた自分が落下してきたであろう穴がぽっかりと開いている。
頭上からぱらぱらと落ちてくる木くずを払っていると、足もとで何かが動いた気がした。
すぐさま身構えるが、木片の山から出てきた毛玉を見て肩の力が抜ける。
毛並みのいい船乗り猫である。
まるまると太った猫は毛を逆立て、威嚇するように牙を見せてからそそくさと立ち去った。
隆子君が落ちてきたときに下敷きとなってしまったのだろう。
心のなかで密かに謝りつつ、宴会場へ戻る手段を探すためにそっと後をつける。
ここはおそらく船底に近い位置だ。
闇雲に歩きまわっていても埒が明かない。
そう考えた彼は小さき者の知恵を借りることにした。
しかし慎重に歩み始めてからほどなくして、猫が立ち止まった。
衝撃が轟き、閃光が目を灼いたのはほぼ同時だった。
再び瞼を開いたとき、先導していた猫がぐったりと倒れこんでいた。
その身体の下から音もなく血の海が広がっていく。
駆け寄ろうとした隆子君はしかし、突如として現れた蒼玉に気づいて息を呑んだ。
『おや? 外しましたか』
金糸で月来香があしらわれた白衣をまとう、仙人のような出で立ち。
灰がかった青色の双眸と白銀の髪が、暗闇のなか不自然に浮いている。
見紛うはずもない。
『おっと、それ以上は動かないほうが身のためですよ』
百里朮は悠然と微笑みながら、両手で青銅製の火器を構えた。
近づくと撃つぞ――口調こそ柔らかかったが、肉食動物めいた瞳が何よりも雄弁に物語る。
しかし隆子君は迷わず足を踏み出した。
今しがた小さな命を奪ったばかりだというのに、さして悪びれるようすはない。
その狂気すら感じられる態度に怒りが湧き上がったのだ。
「……ぅ……っ」
そのとき、突然くらりとした酩酊感に襲われる。
固い床に立っているというのに、まるで雲の上のように足もとが不安定だ。
向けられた銃口が二重となって視界をちらつく。
――酒か!
理解するのに時間を要したのは、あのとき酒を一口しか飲んでいないからだった。
『どうせあなたはすべてを察したようですし、特別に種明かしをいたしましょう』
一方で百里朮は手際よく弾を詰めながら、歌うように語る。
『攻撃の前に一歩足を踏み出す。あなたの武術は見切りました。そして、あなたが踏むであろう一部の床をもろい木材に替えておきました。確信があったわけではありませんが、いずれにせよあなたは胡珀に始末されていたでしょう』
胡珀、という名に先ほど煙幕のなかで感じた殺気を思い出す。
彼は数々の権力者を葬ってきた盲目の殺し屋である。
時の皇帝が私兵を挙げても捕えられなかった神出鬼没の刺客がこの宴会場にいるというのだ。
到底信じられなかったが、あの暗殺術も暗中無双と称される彼のものなら納得できる。
『儺戯役者と玉は、いずれもあなたを嵌めるための罠。一瞬見せかければいいだけですから、暗殺者ではありません。さらに玉の手により、あなたが真の刺客であると吹聴されることでしょう』
ここまできて隆子君は己の失策に気づいた。
あのとき百里玉が手にしていたのは針ではない。
自分が使ったものと同じ、ただの銀製の箸だったのだ。
それは最初から隆子君を暗殺者にでっち上げるための計画のうちだった。
『言い逃れはできません。そもそも、あなたは喋れませんから』
痛いところを突かれた隆子君は奥歯を強く噛み締めた。
朝廷と江湖の関係、ましてや己の唯一の欠点すら失念していた。
『此度の事件の首謀者は私です。しかし、狙いは最初から陛下ではなかった。あなたたち江湖』
万事休すと思われた、そのときだった。
『と戦争す、るため……っ?』
百里朮の口からごぼっと血が噴き出た。
いつのまにか、彼の胸もとから白刃が顔を出している。
ぶれて定まらない視界のなか、隆子君は彼の背後に立つ少女の姿を捉えた。
『……』
短刀を握りしめ、百里朮の背を的確に刺している。
ここまで完璧に気配を消せる刺客。
思い当たる者はひとりしかいなかった。
『な、ぜだ。胡珀は、宴席にいた、はず。それに、あなたなら、わかった、はずだ。私が、依頼主だ、と……』
『……いらいぬし?』
少女はきょとんと小首を傾げた。
『そんなのしらない。おまえは刺客、わたしは刺客をころしにきた刺客。ただそれだけのこと』
たしかに先ほどの百里朮の言葉は、己が暗殺者であると公言しているようなものだった。
しかしそれは、その場に隆子君しかいないことを前提とした発言。
すると、宴席にいた胡珀は――。
『はは……なるほど、別人か』
今さら気づいたところで後の祭りだった。
百里朮の背中から勢いよく鮮血が噴き出した。
崩れ落ちていく彼を見もせずに、盲目の少女がぽつりとつぶやく。
『兄さん。おしごと、おわったよ』
この瞬間まで、誰ひとり知る者はいなかった。
胡珀が双子の殺し屋だったということを。
そして、それこそが彼らが神出鬼没たる所以だったことを。