99話 直子の本心
俺がずっと愛用してきた有田焼の湯呑みに、熱々の緑茶が注がれている。いつもは颯太が掴みやすいようにと取っ手のあるプラスチック性のマグカップに、火傷を防ぐため水と氷で薄まった緩い緑茶を出されるのがお決まりだった。それと、今日に限ってお菓子も子供が好むようなものではなく、俺が食べそうな煎餅と芋羊羹が用意されている。丸い木製のお盆に乗せられた茶菓子が懐かしく、疑問を口にするのも忘れてついつい見入ってしまった。
「急に来たからこれしかお菓子がなくてすみません……それでも、いつか来てくれるんじゃないかと、浩之さんの好きなものは準備しておいたんですよ。この芋羊羹、駅前の和菓子屋さんのですよ。前に美味しいって言ってましたよね?」
直子は穏やかな口調で言う。あまりにも自然に言うものだから、危うく聞き逃すところだった。
「今……浩之さんって、言ったの? いやだな、僕は颯太だよ」
そう否定するが直子は何も言わないでニコニコ笑っている。そこで俺は全てを悟った。
「なんだ……気が付いて、いたのか?」
「ふふ、当たり前じゃないですか。何十年、あなたと連れ沿ったと思ってるんですか? 颯太くんとあなたの違いくらい直ぐに分かりますよ」
「いつから?」
「そんなの初めからですよ。いくら颯太くんと頻繁に会ってなかったからって、3歳の子供がいきなり緑茶が飲みたいなんて言い出せば嫌でも気が付きます……知ってますか? わたしはあなたを誰よりも知っている妻なんですよ」
「そ、そうか」
俺に気が付いてくれた嬉しさが込み上げるも、照れ臭さと戸惑いでうまく言葉にできない。気まずさから直子の淹れた緑茶を口にした。やはり苦味が強く感じられたが、いつも飲んでいた味に心が和む。一口サイズに切ってくれた芋羊羹を食べると、さらにお茶が美味しく思えた。
「うまい……やっぱり直子の淹れたくれたお茶が一番だ」
「ありがとうございます」
茶菓子を堪能したところで俺はようやく直子に尋ねる。
「気が付いていたのに、どうして俺に言わなかったんだ?」
その質問に直子はクスッと可笑しそうに微笑んだ。
「隠したがってるように思えたので……わたしに言いたかったら先にあなたから話してくれたでしょ? それに恵美に知られれば大騒ぎになりそうでしたからね。あなたが打ち明ける日を待とうと思っていたんです。けど、正直なところそんな日が来なければいいと思ってました」
直子は何もかも分かっていたかのように俺を見つめた。その顔は少しだけ寂しそうに見える。
「だって、わたしに打ち明けられる日が来たということは……もう浩之さんとはさよならってことなんでしょう?」
「ああ……すまない、これが最後になると思う」
俺は椅子の上で正座をし、直子に深々と頭を下げた。直子に頭を下げたのは初めてだった。
「本当にすまなかった。今まで夫婦らしいこともせず、仕事ばかりを優先して恵美のことを任せっきりにしてきたばかりか、あんな風に先に死んでしまって……直子には苦労ばかりかけて本当に申し訳なかった。熟年離婚を考えられて当然だったと今は深く反省している。どうしようもない夫で、父親だった」
なんと返ってくるかとドキドキしながら待ったが、意外にも笑い声が先に耳へ届く。俺は頭を上げ、直子の反応をただ見つめる。
「熟年離婚なんて考えてませんでしたよ。あれはいきなり死んでしまったあなたに仕返しのつもりで言ったことで、本気で離婚を考えたことなんて一度もありません」
「あれはわざと俺に聞こえるように言ってたのか!?」
「これから一緒に余生を過ごそうと楽しみにしていたのに……さっさとわたしを置いていった罰です。そこは反省してくださいね」
「あ、いや……それは本当に申し訳なかった」
戸惑いながら俺はまた頭を下げる。
「もう良いですよ。恵美は智貴さんと離婚することができましたし、原田さんのような良い人と巡り会わせててくれたんです……浩之さんのおかげ、ありがとう」
「いや、俺は何もしていない……そんなことよりも、本当に離婚は考えていなかったのか? 俺はてっきり本心だと思っていた。俺が居たら直子が好きなように家をリフォームできなかっただろうし、近所の人と食べ歩きやウォーキングだって始められなかったんじゃないか? 俺が居たから我慢してきたことがたくさんあったんだろう?」
「夫婦だって他人なんですから、我慢することだってありますよ。でもね、このリフォームも食べ歩きも運動も……本当はあなたとしたかったことなんですよ。定年退職したらリフォームのことを相談するつもりでしたし、食べ歩きも運動もあなたを誘うつもりでいました。あなたと残された時間をどんな風に過ごそうかワクワクしてたんですよ? あなただっていろいろ考えてくれていたんじゃありませんか? それをずっと聞きたかったのに、聞けないままになってしまいました。だから、わたしがしたかった事をあなたの分までやろうと思ったんです」
意外な真相を知り、苦しいぐらいに胸が締め付けられた。
「直子……すまなかった。ひとりにして……俺も一緒に直子と過ごしたかった」
「知ってますか? わたしはずっと浩之さんを愛していたんです。確かに不器用で、欲しい言葉は少なかったかもしれない。けれど、わたしと恵美を大事にしていたのは伝わっていましたよ」
「そうか、そうだったか……俺は何も伝えられていないとばかり思っていた」
「確かにあなたは愛を囁くようなロマンチストではなかったけれど……ずっとわたしを直子と名前で呼んでくれていました。長い時間家族として過ごしていれば、ひとりの女性ではなく妻であり子供の母親だと固定されてしまうのが世の中では当たり前のこと……けれど、あなたは一度もわたしを母さんとは呼ばなかった。ずっとあなたはわたしをひとりの女性として扱ってくれた。呼び方一つで大袈裟だと思いますけど、女はそんな些細なことを嬉しく思うんです」
直子は涙ぐみながらも、誇らしげに言い切った。その姿が愛おしく、初めて恋をしたような感情が込み上げてくる。
「直子……お前は本当に、俺には勿体無いぐらいの素晴らしい女性だ。こんな俺と結婚してくれて感謝している」
俺の脳裏に遠い昔の記憶が蘇る。それは初めて直子と出会った日の記憶だった。




