8話 苦味と甘味
おむつとジュースがぱんぱんに詰まった小さなリュックを背負い、恵美と手を繋ぎながら目の前の家を見上げた。3段の石段を上がり、小さなながらも立派な数奇屋門を潜ると木造二階建ての我が家が現れる。
(もう26年か……いや、俺が死んで4年建ってるから築30年か)
直子と恵美と過ごした思い出の詰まった家。ようやく帰ってきた嬉しさに目尻が熱くなる。
恵美が人差し指を伸ばし、インターホンを鳴らした。
「お母さん、来たよー!」
曇りガラスの入った木製の引き戸を開けると、懐かしい匂いが漂う。長年過ごした家の匂いが脳裏に眠っていた思い出を呼び覚ます。パタパタとスリッパの音を鳴らしながら、廊下の奥の部屋から慌てたように誰かが駆け寄ってきた。
「いらっしゃい!! 楽しみに待ってたのよ!!」
俺は目の前に迫ってきた人物を見た瞬間、目をパチパチと瞬かせた。
笑顔で出迎えたのは確かに俺の妻の直子だった。
(直子……お前)
元気がなくてやつれてしまった姿ばかりを想像していたのに、現れた直子はまさに真逆の状態。前の姿はシュッと痩せていて、顔も小さかった。
(なんだか少し……いや、だいぶ太ったか?)
全体的にポッチャリとしていて、頬も艶々と光っている。表情も今まで見たことがないような笑顔だ。痩せ細って家に引き篭もっているよりかは元気な方がいい。だが、俺がいた時よりも生き生きしている感じがして、心中は複雑だった。
「颯太くん、久しぶりねー! 見ない間にまた大きくなったわね」
直子が嬉しそうに俺の頭を撫でる。
(孫が出来たから生き甲斐ができたのか……まあ、元気なら文句はない)
「お母さん、また少し太ったんじゃない?」
「やだ、分かっちゃった? 最近、近所の田中さんと毎週のようにカフェ巡りしてるのよ。この間行ったカフェのパンケーキが美味しくってね~」
味を思い出したのか直子は頬に手を当て、美味しさをアピールした。
「もう少し大きくなったら颯太もばあばとカフェでパンケーキ食べようね」
「お母さん、食べ歩きはいいけど程々にね。あんまり甘いものばかり食べると病気になっちゃうよっ」
「これからちゃんと運動するわよ! 近所の加藤さんと今度ウォーキング始めましょうって約束してるもん」
見ないうちに随分変わった妻に俺は戸惑い、なかなか声を出せなかった。
「颯太くん、大人しいわね。前に会ったのは3才の誕生日の時だったけど、あの頃は好奇心旺盛で活発だったのに」
「最近成長してきたのか、妙に大人ぶってるの。おむつの交換もわたしがやろうとすると嫌がるの」
「男の子ってママに甘えたがりの子が多いけど、颯太くんは自立心が強いのかもしれないわね。将来どんな大人になるのか楽しみだわ~」
再度、俺の頭を撫でる。
「さあさあ、中に入りなさい」
そう言われ、俺は見慣れた廊下を歩き、一番奥にある居間へと通された。
(なんだ、これは!!)
口で言うのを必死に我慢する。和室で落ち着いた雰囲気の居間だったのに、床はフローリングに変わり、テーブルもオシャレになっていた。そして障子戸だった窓にはメルヘンチックなピンクのカーテンが掛けられている。
(本当に俺の家なのか!!!?)
愕然として見回すと、仏間が目に入る。覗き込むとそこは俺の記憶のままの和室だった。
「颯太、じいじに挨拶しようか」
恵美が静かに和室の中へと入り、仏壇の前に座った。それは妻の両親と俺の仏壇。
線香の煙が昇り、鈴を鳴らす音が淋しく響く。見上げると、俺の慰霊写真が壁に掛けられていた。何年も前の写真の中の俺は凛々しいというよりかは、どこか不機嫌そうに見える。
ーー俺はいつもこんな顔をしていたのだろうか?
自分の姿を違う目で見るとこんなにまで印象が違う。なんだかまるで別人を見ているような感覚だった。
「ほんと……何も話さないで終わっちゃった」
ぽつりと恵美の声が聞こえた。その言葉は俺に後悔の念を産み付ける。
「すまなかった」
「……颯太、なんか言った?」
振り返り、恵美と目が合った。俺はなんだか泣きそうになり、そっぽを向いた。
「なんにもない」
「変な颯太」
「ほらほら、お茶入れたから来なさい」
直子の声に恵美はさっさと仏間から出ていってしまう。俺は改めて仏壇に目を向ける。俺がよく飲んでいたビール缶と好きな銘柄のタバコ一箱が供えられていた。直子が今も変わらず俺を思っているのだと、今度は心が暖まった。
「颯太くんにはジュースがあるよ」
後悔の涙が嬉し涙に変わるが、俺はそれを見せないように袖で拭い取る。
「僕、ばあばの淹れた緑茶が飲みたい!!」
笑顔を向けた俺の目に真顔になったふたりの姿が写った。
(やっちまった! 子供が緑茶なんて言わないか!! けど、飲みたい……)
「本当に颯太、大人になったんだね」
直子はおかしそうに笑う。
「いろんなものに興味が湧くんだろうね。恵美、一口だけ飲ませてもいい?」
「まあ、一口だけなら」
恵美も苦笑いを浮かべながら頷いた。
「やったーーーっ!!!!」
(ナイスだ、妻よ!)
俺は直子の作るものの中で好きなのは、鯖の味噌煮だ。でも一番は淹れたての緑茶。
バランスのいい風味と苦味。妻の淹れた緑茶は最高だと言える。
「さあさあ、出来ましたよ」
子供用の両手掴みのマグカップに注がれた暖かい緑茶。かと思ったのに、中に氷が浮かんでいた。
「熱いと火傷しちゃうからね」
(し、仕方がない……颯太の舌はまだ敏感なのだから我慢しよう)
俺はやっと飲めることの期待に胸を膨らませ、マグカップの中の緑茶を一気に口の中へと注ぎ込んだ。
「うっ」
吹き出しそうになるも、なんとか喉へと流し込む。
「あはは、やっぱりそうなった!」
「今口直しにりんごジュース持ってくるわね」
「お母さん、大丈夫。リュックの中に入ってるから」
(……あんなに美味しかったのに)
口に広がるのは旨味ではなく、涙目になるほどの苦味だった。
目の前に置かれたキャラクターの絵柄がついた紙パックのりんごジュース。俺はすがるようにりんごジュースを飲み干す。甘い果汁が俺の喉を優しく潤した。




