2話 ホットケーキ
騒いでも仕方がない。
普通ならば狼狽えて、誰彼構わず自分の状況を教えてくれと懇願するのだろう。
ただ、人生を65年続けてきた側からすると、こういう理解しがたい事態を前にした時こそ冷静にならねばと変なストッパーがかかる。
考えてみれば、誰かに誘拐されて監禁されている訳でもなければ、知らない人に殺されそうになっている訳でもないのだから慌てる理由はない。
(ただ、この身体は一体なんなんだ。恵美も俺を子供として扱ってるようだし……)
考え込んでいるとキッチンから甘い香りが漂ってきた。嗅覚が刺激され、意識なくお腹が盛大な音を立てる。考えてみれば夕べの送別会から何も食べていない。部屋の時計を見ると、針は午後の3時を差そうとしていた。
「一時休戦だ」
お腹が空いた状態では冷静な判断はできないものだ。それに空腹を満たす間に、昨夜に何があったのか思い出してくるかもしれない。
「よし、食べるか」
子供部屋から出ると、そこは広々としたリビングダイニングだった。リビングにはテレビを見やすいように配置された三人掛けのソファと、低めのテーブル。ダイニングには4人掛けのダイニングテーブルが置かれていた。そして、その部屋を見渡せる対面キッチンに娘の恵美が立っている。
料理を作る娘の姿など数回しか見たことがない。
「もうすぐ出来るからね」
恵美は俺を見付けると、にこやかにそう告げた。娘に子供扱いされるのは抵抗感はあるが、身体がこれなのだから仕方がないと自己解決し、諦めるようにダイニングテーブルの前に立つ。しかし、子供の身体では大人用の椅子はかなり大きく見えた。なんとかよじ登り、席につく。
「あれ、今日はそっちに座りたいの?」
よくひとりで登れたねと、恵美はクスクスと笑った。
対応や話し方を見る限り、この子供はかなり親しい間柄なのだろう。もしかしたら、友達の子供のお守りをしているのだろうか。そうであるならば、この見知らぬ家は友達の自宅に違いない。
(けど、なんでまたそんな子供の体の中にいるのだろうか?)
夢にしてはリアルだが、非現実過ぎてこの状況がいまいち信じられない。
もう少し情報がほしいと、俺は辺りを見渡した。すると、ある物に目がいく。
リビングの棚に飾られた複数の写真立て。そこには恵美とある人物が写っていった。
その人物には見に覚えがある。俺が定年を迎える一年前ぐらいに、恵美と結婚したいと挨拶に来た男だった。名前は確か智貴と名乗っていたと思う。
(なんであいつと恵美の写真が友達の家に飾ってあるんだ?)
それより何よりも写真の中の恵美はウエディングドレスを着ている。ということは、結婚式に撮られたということだ。
(待ってくれ……恵美が結婚するのは来月の予定のはずだ!!)
慌ててまた辺りを見渡す。次は壁に吊り下げられたカレンダーが目に入る。
一際目立った3月という文字。月に変化はないことが判明し、一度安堵した。しかし、横に書かれた西暦を見て驚愕する。
どういう訳か、昨夜の記憶を最後に4年の年月が経っていたのだ。
(4年っ!? まさか、そんなっ)
さっきまで冷静だった頭の中が混乱によって一気に掻き乱されていく。
そんな時、目の前に恵美の顔が突如現れる。
「どうしたの? もしかして具合でも悪い?」
そっと恵美の手が額に当てられる。
「熱はないみたいだね。お腹とか痛くない? おやつ食べられそう?」
「おっ」
「お?」
俺はお前の父さんだと口走りそうになったのだが、それよりも先にお腹が食べ物を催促するように鳴った。
「ああ、お腹が空いてたから大人しくなっちゃったんだね。もう、具合が悪いのかと思ってママびっくりしちゃった」
「マ、マ?」
驚愕の言葉に頭の中は真っ白に染まった。
(ママだと!? なら、この身体は……恵美の子供っ!!!?)
理解しがたい事態に絶叫したい気分になるが、やはり年のせいか大声を出すなど情けない真似はできないという変なプライドが理性を制御させる。少し頭を整理しようと心を落ち着かせている最中、恵美は手に持っていたお皿を俺の前に置いた。その皿には出来立てのホットケーキが乗せられていた。少量のバターが程よく熱で溶け、掛けられたメープルシロップに馴染んでいる。またお腹が大きな音で鳴る。
「颯太、いただきますしようか」
向かい側に恵美も座り、両手を合わせる。
「いただきます」
「い、ただ……きます」
恵美に促されるまま、俺は両手を合わせて言った。
(今は仕方ない。食べよう)
用意された子供用フォークを手に取る。フォークの持ち手にも車の絵が書かれていた。
ホットケーキを一口大に分けると、フォークを刺し、ゆっくりと口へ運ぶ。甘い臭いが鼻をまた刺激し、無意識に喉が鳴る。大きく口を開き、一気に頬張った。ホットケーキの柔らかな食感、バターと甘いシロップの風味が口に広がっていく。
(う、美味い!!!!)
内心、ホットケーキなんてと思っていた。
俺の幼少期は兄弟が多いせいでおやつなんて母親から出された記憶は薄い。珍しく与えられたとしても、それは父親の好むしょっぱい煎餅や貰い物のゼリーぐらいだった。そして、初めてホットケーキを口にしたのは恵美が幼い時。恵美のためにと妻が作って、ついでに俺にもと用意され食べたのが最初で最後だった。
それなりに俺も年を取っていたためか、甘ったるいホットケーキが口に合わなかった。だから、ホットケーキを美味しい食べ物だと認識できなかったのだ。
しかし、子供の身体だからか味覚も大人とは違うらしい。
(こんなに美味いとは知らなかった!! 子供の味覚だとこんなにまで美味く感じるのか! 勉強になるなぁ~)
新しい発見に俺は無我夢中でホットケーキを食べ進む。そして、あっという間に皿は空になった。
「おかわり!!!!」
「ぇえ!? 今日はすごい食べるんだね」
体験したことのない美味しさに俺はさっきの悩みなど忘れ、おやつの時間を堪能した。