第5話 教会の呼び出し
あの後シャイラは、フィスクの指示通りに怪我がないか確認され、家に帰された。フィスクのことを誰にも話すな、としっかりと念を押されたが、シャイラだって彼のことは忘れたい。
やり直せるなら、出会わないと決めていた。それが、こんな形で顔を合わせるなんて、予想できただろうか。
記憶では、あの塔に迷い込んでフィスクと出会った。かなり怒られたけれど、秘密を知ってしまったからとフィスクの世話係にさせられたのだ。だから、彼の方もシャイラのことを認識してはいたけれど、特に気に掛けるような存在でもなかったはずだ。少なくとも、最初は。
あそこで名前を聞かれて、驚いた。前回よりも悪い方向に向かっているのではないかと。
けれど、それから三日間、教会からは何の音沙汰もなかった。
シャイラが悪い訳ではなかったから、すべて無かったことになったのだろうか。この国で信仰されているのは風の精霊だ。彼らの悪戯ならば仕方がないと、怪我を見てくれた祭官も苦笑していたことだし。
記憶では、フィスクの存在を知ったその場で世話係として働くことになった。それが無いということは、きっと見逃してもらえたのだ。
もうフィスクに関わらないで済むのなら、それに越したことはない。
そんなシャイラの希望的観測は、四日目の朝に潰えることになる。
母のエリーシャに呼ばれて花屋の店先に出たシャイラは、予想外の人物の訪問に目を丸くしていた。
「コーニ! おはよう、どうしたの? 診療所のお仕事は?」
「おはよう、シャイラ。今日はお使いで来たんだ」
気弱そうな笑みを浮かべる少年は、シャイラの幼馴染であるコーニだ。知性の光を湛えた灰色の瞳を隠すように、深い紺色の髪が揺れている。
「お使い……? 薬草の仕入れ?」
「ううん。教会からだよ」
どきりと心臓が跳ねた。店内の母に声を掛けようと振り向きかけていたシャイラは、一度大きく息を吸ってからコーニに向き直る。
「教会が、私に?」
「教会……、というよりは、アロシア様かな。僕も詳しいことは聞いてないんだ」
アロシアがシャイラに用事というのなら、フィスクのこと以外にはありえない。この三日、なぜ何も言われなかったのかは分からないが、出会ってしまった以上逃げられはしないのだ。
シャイラの微妙な空気を感じ取ったのか、コーニはへなりと眉を下げた。
「シャイラ? 教会に行くの、嫌なの?」
「嫌って訳じゃないよ。ちょっと……、そうね、緊張してるかも」
コーニはフィスクの存在すら知らない。前も、最後まで知らないままだった。その理由は分からないけれど。
昔、まだ精霊が人間と一緒に暮らしていた頃。二つの種族は交わることがあった。そうして残った精霊の血は、現代まで脈々と受け継がれている。その、精霊の血を引く人間のことを、〈精霊の子〉と呼ぶのだ。
精霊たちが人間の世界を離れ、精霊界で暮すようになってから、随分長い時間が経っている。〈精霊の子〉は徐々に数を減らし、今ではそれぞれの国に数えるほどしか存在しない。そのため、教会は熱心に〈精霊の子〉の保護に努めている。
コーニはその〈精霊の子〉で、青系統の髪と灰色の瞳は風の血を引く証だった。
「シャイラを送ったら、僕は診療所の仕事に行くんだけど……。大丈夫?」
「うん、平気。大丈夫よ」
物憂げに見つめてくるコーニに、シャイラは微笑んでみせる。
事情を何も知らないコーニに話せることはない。だから、そう答えるしかない。
少し考え込む風だったコーニは、何も追求しないことに決めたらしい。軽く首を振って、「行こうか」とシャイラを促した。
母に教会へ行くことを告げて、シャイラはコーニと一緒に歩き出す。
「アロシア様って、最近シーレシアに来たばかりなんでしょう? コーニと関わりあったのね」
「うん……。帝都ではすごく優秀な研究者だったらしいよ。〈精霊の子〉について詳しくて、僕も色々話をしたよ」
シャイラの家がある西通りには、朝から開いている店は少ない。人影のまばらな大通りを、子供たちが元気に駆け抜けていく。
コーニはちょっとだけ笑って、足元の小石を蹴り上げた。
「司祭様たちが、アロシア様の噂話をしててね。面白かったんだよ。武勇を誉とする風の精霊を深く信仰するあまり、中央教会でも随一の武闘派になったとか……」
「なにそれ」
頭の中で、白い花を髪に飾ったアロシアが笑顔で拳を突き出した。
シャイラもつられて笑う。
「ほかにも、帝都からアロシア様がいなくなったら魔物の数が増えたとか。あと、言葉を話す魔物まで現れたとか」
「ちょっと誇張入ってるんじゃない?」
「すごい人だってのは事実みたいだよ。魔物に関しては、本当かどうか分からないけど」
風の教会には確かに、やたらとたくましい司祭や祭官が多い。小さな村や農地を荒らす魔物を討伐するのに、派遣される傭兵に交じって戦う祭官もいるくらいだ。
アロシアだってもちろん鍛えているだろうが、前回はその実力を知る機会はなかった。アロシアの体格はシャイラとそう変わらないように見えたから、もしかすると魔法の実力が高いのかもしれない。
「アロシア様、祭官だけじゃなくて、礼拝に来た人たちにも人気なんだ。最近は、アロシア様目当てで来てる人もいるみたい」
「それは……、どうなの?」
「いいんじゃないかな。司祭様は、この寄付で武器が新調できるって喜んでたよ」
そういえば、シーレシアの教会にいる司祭は根っからの敬虔な信徒だった。それはつまり、この風の国では、頭に筋肉が詰まっていることを意味する。
教会の外で、その司祭が待っていた。こちらを見てにっこりと笑った司祭は、まずコーニに向かって頭を下げる。
「おはようございます、コーニ様。雑事をお願いしてしまい、申し訳ございません」
「いえ、僕が行くって言ったんですから。シャイラをお願いします」
「はい、お任せください。コーニ様に風のご加護がありますよう」
頷いたコーニは、シャイラに小さく手を振って去っていく。その背中を見送っていると、隣で司祭がため息をついた。
「お願いしておいてなんですが、コーニ様はもっと毅然となさればよろしいのに。シャイラもそう思いませんか? 第一、あの方には筋肉が足りない! 風の子たるもの、体を鍛え上げなければ!」
「……筋肉はともかく。コーニは博識ですし、精霊や魔物に関する知識ならこの街で一番だと思いますよ」
そう答えたシャイラに、司祭は「そうですがね」と顎を撫でる。
「同じ片親同士の幼馴染とはいえ、シャイラはこれほどいい子に育っているというのに。コーニ様も、せめて魔物の討伐に参加するくらいのことはしていただきたいものですね。魔法は使えるのですから。診療所のお仕事も悪くはありませんがな……」
司祭に悪気が無いのは分かっている。シャイラは曖昧に微笑んで、教会に呼ばれた要件を口にした。
「アロシア様がお待ちだと聞いているのですが……」
「おお、そうですな。では参りましょうか」
司祭はようやく、教会の中へシャイラを誘った。