第44話 二人一緒の幸せを
シーレシアの街には、今日も穏やかな風が吹いている。はるか頭上には、精霊界への入り口を抱えた雲が変わらず浮かんでいた。
教会の裏庭、少し前までは足繁く通っていた場所。ここに来るのは、随分と久しぶりのような気がした。
フィスクが生活していた一番高い塔は、窓も入り口も封鎖されていた。半壊していた槍の塔は、残っていた壁も完全に崩れ落ち、瓦礫の山と化していた。槍が深く刺さっていた地面にはその跡が残っているが、いずれ風雨に晒されて消えていくのだろう。
回廊から出て裏庭を突っ切り、塔のすぐ傍まで歩いていく。シャイラがやりたいことを察したのか、ふわりと周囲に魔力が漂ったのが分かった。
「精霊たち、お願い。私をフィスクの所に運んでくれる?」
シャイラの求めに応じて、優しい風が体を持ち上げる。運ばれた先は、閉鎖された塔、その屋根の上だった。
「フィスク、司祭様との話、終わったよ」
傾斜のある屋根に座っていたフィスクが振り返り、目を丸くする。すぐさま差し出された手が、シャイラの体を受け止めてくれた。
「ここまで探しに来てくれたのか? 呼べば迎えに行ったのに」
「気にしないで。フィスクはあまり、他の人と関わりたくないでしょ?」
隣に腰を下ろそうとしたが、フィスクは自然な動きでシャイラを膝の上に座らせた。横抱きにされて、じわりと頬が熱くなる。
「お、下ろして!」
「落ちるかもしれないだろ」
しれっとそんなことを言うフィスクは、しっかりとシャイラを抱き締めたまま、離してくれなさそうだった。仕方なく少しだけ体重を預けると、嬉しそうに目を細めて頬を摺り寄せてくる。
恥ずかしいと同時に、嬉しいとも思ってしまうから、多分もうどうしようもないのだ。
「えっと……、そう、司祭様! との話、ね」
しどろもどろ切り出したシャイラの頭上で、フィスクが小さく笑う声。
「もう、フィスク! ……あのね、やっぱり、フィスクやアイルさんを見た人が結構いて、『シーレシアに精霊がいる』って噂がかなり広まっているらしいの」
「だろうな」
シャイラがアロシアに襲撃された時や、魔王との戦いの時。〈風の民〉の特徴である髪の色を隠していなかったフィスクたちは、多くの住人に目撃されてしまっていた。
「これから騒がしくなると思う。今はシーレシアだけだけど、いずれ噂は帝国中に広まっていくはず。……それでも、いいの?」
――魔王を倒してから、早や数日。
フィスクが精霊の力を完全に取り戻したことは、アイルが号泣しながら確認した。戦いで負った右肩の傷さえ治れば、もう何も問題はないと。治癒魔法で手当てはされているが、完治にはしばらくかかるらしい。
その治療期間をどうやって過ごすかという話になった時、フィスクはシーレシアに滞在することを望んだ。
曰く、「魔王が死んで、精霊界にとって一番の脅威はなくなった。頭を失った魔物はしばらく侵攻してこないだろう。そもそも怪我が治るまでは、襲撃があっても戦わせてくれないんだろう? だったら、どこで療養してても同じだ」とのことだ。
ちなみにアイルは、「そんなに屁理屈こねなくても、素直にシャイラと一緒にいたいって言えばいいだろ……」とため息をついて、フィスクに殴られていた。
シャイラとしては、「一緒にいよう」という約束を守ってくれることは、嬉しい。しかしこの街で過ごすとなると、人間嫌いのフィスクにとって不快なことも出てくるだろう。今広がっている噂はその最たる例だ。
私利私欲で精霊を利用したいと考える人間は、間違いなくいる。シーレシアの司祭はそんな人ではないと知っているつもりだが、あのアロシアを送り込んだのが中央教会の上層部だったことを考えると、信頼できる相手はしっかりと見極めねばならない。
シャイラを襲撃したアロシアは、あの後捕らえられて帝都へと移送された。もう関わることがないなら、それ以上思うことはない。
だが、それだけで終わるほど簡単な話ではない。何の憂いもなく、同じ時間を過ごしたいのだ。
「私はフィスクと一緒にいられたら幸せだけど。フィスクもそうじゃないと嫌だから、街が騒がしくなるのは、困るなって……」
ここは武勇と信仰の街、シーレシア。風の精霊が本当にいるなんて知ったら、皆が押しかけてくるだろう。
フィスクと拳を交えてみたい。せめて話したい、いや、一目見るだけでもいい。そうしてこの美しい姿を目にしたら、虜になってしまうに決まっている。
「フィスクのことを知ったら、誰だって夢中になるもの。フィスクはそんなの嫌だよね? 私だって、嫌だし……」
シャイラは俯いて、フィスクの胸元に耳を寄せた。確かに聞こえてくる、彼が生きている音。ずっとシャイラの中にあった、彼の命。
それがあるべき場所に戻ったなら。フィスクが生きているなら。それで十分だ――なんて、もうそんなことは言えないのだ。
「……シャイラ」
突然、大きな手が頬に添えられたかと思うと、ぎゅうぎゅうと強く抱き締められた。フィスクの胸板に押し付けられた反対の頬が潰れる。
「ちょ、フィスク!?」
「それってつまり、俺を取られたくなくて嫉妬してるってことだよな?」
なんとか視線を上げると、茹だったように肌を真っ赤にしたフィスクが、とろりと瞳を蕩けさせていた。
「私そういう話してた!?」
「してた」
腕の中に閉じ込められ、覆い被さるようにキスをされて、シャイラの世界はフィスクだけになった。さらりと垂れた空色の髪が、カーテンのように視界を区切る。
フィスクの顔だけしか見えない。熱に浮かされて爛々と輝く眼が、そのままシャイラの体を貫いて縫い留めるようだった。朱に染まる目尻に指を這わせると、一層ほどけて甘くなる。まるで、地平線に沈む日の光をうつした、夕焼けの雲のように。
「俺は、お前がいればそれでいいんだ」
「フィスク……」
「他の有象無象なんて気にするな。認識する必要なんてない」
「とんでもないこと言うね」
くすくす笑うと、フィスクもつられたように息を零した。
「でも……、うん、そうかも」
関わりの無い誰かに気を逸らすより、大切な相手に心を寄せたい。愛してくれる人に、まっすぐ向き合いたい。
自分からもフィスクに唇を寄せて、シャイラはふと、瞬きをした。
「お母さんも、」
「ん?」
「そうやって私を選んでくれたんだね」
――魔王が遺した羽は、形見としてエリーシャに譲られた。
シャイラが持ち帰った羽を受け取って、エリーシャは静かに微笑んでいた。想像していたよりも、穏やかな表情だった。そしてどこか、安堵しているようでもあった。
言ったでしょ、と。
あの人は、フィスクくんみたいに強くはないの、と。
自分の愛したひとについて彼女が語ったのは、それが最後だった。
あの羽はどこかへ大切に仕舞われて、それっきり見ていない。
「お母さんは私のことを、真っ正面から愛してくれた」
「……そうだな」
「それで、たぶん、魔王は私とお母さんじゃなくて、フィスクを選んだ」
「その言い方やめてくれ」
フィスクが心底嫌そうな顔をする。それをさらりと流して、風に靡く空色の髪を意味もなく指で摘まんだ。
「全部抱えるなんてできないから、自分の手の届く範囲で。その代わり、腕の中に抱えたものは、精一杯大切にしなきゃ」
でなければ、すべてを蔑ろにするのと同じだ。
そう思えるようになったから、きっともう、間違えることはないだろう。
エリーシャがそうしたように、シャイラも選んだ。一番大切なひとを、このどうしようもなく愛しい精霊だと定めたのだ。
腕の中から見上げれば、微笑みを返してくれる彼を。
「……よく考えたら、すごいよね。物語の中の存在でしかなかった精霊が、こうして隣にいて、触れ合って、明日のことを話してる」
シャイラはしみじみと呟いた。
フィスクのことを知るまでは、想像もしなかったことだ。
「今さらじゃないか?」
美しい精霊が小さく笑う。ほどけた頬が柔らかく膨らみを作り、愛らしく色づいた。何のことはない普通の笑顔のはずなのに、頭がくらっとした。
この顔に慣れることは、今後一生無いのかもしれない。
「ほら、そろそろ昼の用意をしないといけないだろ」
シャイラを左腕で抱えたまま、フィスクが屋根の上で立ち上がった。もともと遠かった地面が更に遠くなる。慌てて、フィスクの首筋にしがみついた。
「そのまま掴まってろよ」
フィスクの背中から、純白の翼が広がる。どこも透けていない、流れ落ちるような曲線を描く、大きな一対の翼。細かい光の粒子と共に、舞い散った羽根がくるくると風に踊る。
「帰ろう、シャイラ」
「……うん、帰ろう」
落とさないように、アネモネの髪飾りをしっかりと差し直して。
シャイラとフィスクは、空へ飛び立った。
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