第43話 選んだ運命
シャイラの目の前で、二人の戦いに決着がつこうとしている。
大剣を携えた魔王が、花畑に倒れたフィスクの傍にゆっくりと歩いていく。そして、今になって思い出したかのように、ちらりとこちらを見た。
この光景を、知っていた。
凍り付く。この先を二度と見たくないと、願っていたはずだった。そのためのひと月だった。
魔王が大剣を振り上げ、切っ先を下に向ける。
「魔王!!」
叫ぶ。この戦いで、シャイラにできることなんてそれくらいだった。
だが驚くべきことに、魔王が一瞬だけ、動きを止めた。
大剣の切っ先が微かに揺れる。
「――ラーガ」
魔王が初めて見せた、一秒にも満たない隙。そこを縫うように突き出された銀の槍が、魔王の胸を刺し貫いた。
「女神の加護は、もうお前には無いらしい」
ニヤリと笑ったフィスクを見下ろして、魔王は虚を突かれた顔をした。殺意の覆いが剥がれて落ちて、素の驚きが露わになる。
フィスクがパッと柄から手を離すと、聖士の銀槍は風に姿を変えて消えてしまった。
体の支えをなくした魔王は、目を見開いたまま真後ろへと倒れ込む。重い音を立てて、その手から大剣が転がった。
フィスクがゆっくりと体を起こして、右肩の傷を押さえながら立ち上がる。
「……フィスク!」
魔王が動かないのを確認して、その傍を抜けてフィスクに駆け寄った。シャイラを迎えたフィスクはほんの少しだけ目元を綻ばせたが、すぐに魔王に視線を戻した。
胸元を赤い血で染めて倒れる魔王の姿は、過去の世界で死んだフィスクを彷彿とさせる。浅く途切れそうな息を継いで、魔王は呆然と空を見上げていた。
無言のまま、フィスクはその息が止まるのを待っている。戦いの興奮が去った雲色の目に悲しげな色が見えるのは、シャイラの気のせいだろうか。
「――シャイラ……」
掠れた声で名前を呼んだのが、魔王だと気づくのに時間がかかった。
呆けていた金色の目が急速に焦点を結び、しっかりとシャイラを見た。びく、と肩を揺らしたシャイラを庇うように、フィスクが一歩前に出る。
フィスクへの殺意を失った魔王は、もはやただの男でしかなかった。喘ぐように息を吸って、「お前は、」と何かを言いかける。
続く言葉を、聞きたくなかった。
「あなたは私のお父さんじゃない」
口をついて出たのは、否定だった。
声に出して初めて、自分の感情を自覚する。
「私に、お父さんはいない。……いなくたって、私はもう自分の幸せを選べる」
ずっと、そうだった。シャイラに父親はいない。母と二人きりの家が当たり前だった。父と呼べる存在などいなかった。
薄情と思われるかもしれない。もしかしたら、本当に彼は、シャイラの幸せを祈ってくれていたのかもしれない。
でも。
魔王は、フィスクを殺すことだけを考えていた。シャイラのことなど、見てもいなかった。
それが答えだと、思うのだ。
「……この運命を定めたのは、おれか」
それが、魔王の最期の言葉だった。
体の形容が崩れて、風に変じて消えていく。魔王の命が風に溶けて、空へ還る。
静かな、終わりだった。
フィスクがゆっくりと腰を屈める。手を伸ばした先、魔王が倒れていた場所に、二つ並んで落ちた羽があった。
手のひらの大きさくらいある、純白に輝く一本の羽根。そして、縮れた飛膜のついた黒い骨が、ひとつ。
フィスクと魔王の、魔力の核だ。
フィスクは白い羽根を拾い上げた。指に触れた瞬間からきらきらと光り始めた羽根は、ふわりと浮かび上がって彼の胸に吸収されていった。
よく知った脈動が広がる。明滅し、時折輪郭のぶれていた半透明の翼が、少しずつ白く染まっていく。実体を、得ていく。
ばさりと広がった翼が小さな風を起こして、花を優しく揺らした。
「……ぅっ」
胸を押さえ、背中を丸めて、フィスクは小さく呻いた。そのまま、動かなくなる。
「えっ……、だ、大丈夫!?」
シャイラは慌て、膝をついてフィスクの顔を下から覗き込んだ。
「ああ……。大丈夫。大丈夫だ……」
フィスクは、美しく整った顔立ちをぐしゃぐしゃに歪めて、ぽたぽたと涙を落としていた。小さな雫がいくつも、地面に吸い込まれていく。
『風の涙』だ。
どこか遠い場所で降る雨を、風の精霊たちが運んでくる。晴れ渡った空から降り注ぐ、優しい祝福の雨。
はらり。ほろり。ほたり。
風の涙が、たくさん落ちてくる。
「全然、こんなつもり……、ちょっと待ってくれ。とまらない。とまらないんだ……」
涙をめちゃくちゃに拭おうとしたフィスクの手を止めて、シャイラは彼の頭を抱きしめた。
「シャイラ、シャイラ。俺も、お前も、ちゃんと生きてる……。一緒に、いられる……?」
「うん。そうだよ、フィスク。そうだよ」
視界が滲む。シャイラの頬も冷たく濡れて、声が震えるのを抑えきれない。
「ずっと一緒にいよう。生きていこうよ、二人で」
そして、いつか一緒に死ねたなら、それ以上に幸せなことなんて、どこにも無いのだ。
泣きながら笑ったフィスクが、シャイラの背に片腕を回す。
それ以上、二人の間に言葉はなく、ただ、しっかりと抱き締めあって互いの温もりを刻み込んでいた。




