第42話 魔王との戦い
柔らかい感触だけを残して、ゆっくりと顔が離れる。腕の中から見上げたフィスクは、決然とした目をしていた。
「……シャイラ」
囁く声が耳を撫でる。
「お前の父親を、殺すぞ」
シャイラを抱えたまま立ち上がったフィスクの背から、白い輝きが弾けた。魔力の波動が広がる。現れたのは、半透明の翼だ。綺麗だが、どこか輪郭が頼りなくも見える。
これが、魔王に奪われて、たった今シャイラが返した、フィスクの魔力だ。風の精霊としての証である、白い翼だ。けれど。
「核を取り戻さないと。それ以外、俺がお前と生きる道はない。だから……」
「うん。分かってるよ」
時々輪郭がぶれる、半透明の翼。シャイラの中にあった魔力をすべて渡しても、フィスクが本当の意味で助かったわけではない。
意識を集中すれば、魔王の中にフィスクの気配が感じられた。本来魔力が宿るべきフィスクの核は、まだ魔王が宿しているのだ。
フィスクが魔王を殺し、核を取り戻すか。力及ばず、フィスクが殺されて終わるのか。
「私が、フィスクを選んだの」
どんな結末であろうと、シャイラの選択は変わらない。彼と一緒に。そう決めた。
フィスクがはにかむように、笑みを零した時。
二人を守るように渦を巻いていた風の壁が、ぐわりと音を立てて歪んだ。花びらの隙間から、大剣の切っ先が突き出す。それをひらりと躱して、フィスクはシャイラを連れて空へ逃れた。
弾けるように散って消える風壁。色とりどりの花びらが降り注ぐ。その向こうに、僅かに息を切らして大剣を持ち上げる魔王が立っていた。
夜空の色だった。深い闇に染まった髪が靡く。星明りの瞳が怨嗟の光を孕んでぎらついていた。
初めて正面から見る魔王は、意外にも涼しげに整った顔立ちだった。シャイラの父親というには、少し若く見える。神秘的な美貌を持つフィスクとは何もかもが違うが、刃のような視線の鋭さだけは同じだった。
「貴様……!」
シャイラと同じ金色の瞳は憎々しげに、まっすぐフィスクだけを睨みつける。不完全ながらも形を成す翼を認め、大きく舌打ちをした。
ただ殺すだけでは足りない、果てのない苦しみと絶望を。そんな、フィスクに対する強い憎悪が、ちりちりと肌を灼くようだった。
一瞬だけ目を閉じたフィスクは、大きく羽ばたいて地面に降りた。離れた場所にシャイラを下ろして、ひとつ頭を撫でてから背を向ける。
フィスクが丸腰で向き合うのを見た魔王は、歯を剥き出して嗤った。
「正気か? その不完全な身体で、このおれに敵うとでも? 武器もなしに?」
「……はは」
空気が、変わった。
「まさか。そんな舐めた真似はしないさ」
フィスクの声が弾む。それを聞いた瞬間、シャイラの背中がぞくりと粟立った。
肌を刺す夏の陽光にも似た、熱くて刺々しい殺気だ。その中に混じる、ひとひらの愉悦。
「ようやくお前と、全力で戦えるのに」
言下に、右手を掲げるフィスク。
「今なら応えてくれるだろう? ――セフィアス!!」
フィスクの肩越しに、魔王が目を見開いたのが見えた。
魔王が蝙蝠のような羽をはためかせたのと同時に、どこか遠くで風が起こる気配がした。
空を切り、鋭い風の刃を従えて、何かが飛来する。すんでの所で身を翻した魔王を掠め、フィスクの手に収まったのは、教会の裏庭にあった精霊の槍だった。
柄の全体に植物の蔦のような細かな装飾が施された、銀色に輝く槍。穂先は人の顔を二つ並べたよりも長く、幅の広い刃が弧を描いて輝いていた。
その美麗さに目を奪われる。突くも斬るも自在の槍だ。フィスクは軽々と片手で握っているが、恐らくかなり重い。穂先に重心が寄っているようにも見える。素朴な造りに惑わされれば、上手く扱うことのできない武器だろう。
誰に触れられることも拒絶していた槍が、今、フィスクの元にある。
不快そうに顔をしかめた魔王は、大剣を強く握り締めてフィスクに突き付けた。
「どこまでも癪に障る……。貴様の顔も、その槍も!」
「俺もお前が嫌いだよ。……前よりも、ずっと」
それきり、二人は口を閉ざして。
一呼吸分の空白の後、気づけばふたつの得物がぶつかり合っていた。
人間の目では捉えきれない速さで、いくつもの火花が散る。剣戟の音が重なり合う。
槍の穂先がひらめき、大剣の刃が鈍く光る。互いの攻撃はそれぞれの髪や肌を薄く削るが、決定的な一撃にはならない。
フィスクが天高く舞い上がりながら、高揚した笑い声を上げた。
「つまらなさそうな顔をしてるな、ラーガ!」
羽を広げて追う魔王。
「貴様を殺せば少しは楽しめるだろうな!」
下から振り上げられる大剣。フィスクが槍の石突で突き落す。
魔王は弾かれた勢いのまま体を捻り、回転に変えて長大な剣をぶん回した。
寸前で防いだフィスクだったが、真上へと打ち上げられる。
空中で体勢を崩したフィスクに、魔王が追撃を加えんと忙しく羽ばたいた。
「死ねッ!」
魔王の体から魔力が立ち上るのが分かった。
魔力で夜空の色に染まった大剣が、竜巻を纏って迫る。
その瞬間、フィスクが目を見開いた。
「はっははは!」
大剣と風の連撃を、柄で、石突で、穂先で、回転する銀槍が打ち払う。甲高い金属音が響く。その合間に笑い声。
フィスクは、魔王との戦いを心から楽しんでいた。首筋を狙う切っ先を弾き、拳で風を散らして、器用に体勢を整え、息を弾ませニヤリと笑う。
だが、フィスクが楽しそうに槍を振るえば振るうほど、魔王は殺気立っていくようだった。
溢れる魔力が棘を帯び、風の矢が無数に生み出される。
「フィスク! 貴様はここで死ね!」
「断る!」
銀槍の穂先を下に、半透明の翼を折り畳み、長い髪を靡かせてフィスクが急降下した。
風の矢を躱し、魔王に肉薄する。――が。
ふっと、翼の片方が消えた。
ぐらりと傾いだフィスクの隙を、魔王が逃すはずもなかった。
「そこか!」
「ぐっ!」
今度こそ、魔王の大剣がフィスクを捉えた。
血の筋を引きながら、空色の精霊が花畑に墜落する。
「フィスク!」
見ていたシャイラは、思わず口元を覆った。駆け寄りたかったが、間に降り立った魔王のせいで叶わない。
槍を担いだフィスクが跳ね起きる。だらりと下がった右腕から滴る鮮血。右肩が裂けていた。
頬を紅潮させ、瞳をぎらつかせたフィスクは、まだ闘志を失ってはいない。
だが、背中の翼はちかちかと明滅し、傷から流れる血は止まる気配がなかった。
それを見た魔王は、鼻で笑う。
「大人しく、おれに殺されておけばいいものを」
強い殺意の裏に、苛立ちが混じっていた。魔王は、ただフィスクを殺したいのだ。
聖士と魔王は、常に殺し合うもの。精霊と魔物は敵対するもの。
彼らはそうやって戦い続けてきた。フィスクだけでなく、歴代の聖士たちもそうなのだと。
「ラーガ、お前こそ。一度死んでみたらどうだ?」
「女神はおれを死なせないさ」
魔王はどこか、自嘲気味にそう言った。
意味が汲み取れず、不思議そうな顔をしたのはシャイラだけではなかった。だが、眉を上げるフィスクには構わず、魔王は大剣を構え直した。
「そろそろ終わらせるとしよう。貴様に無様な死をくれてやる、フィスク」
そこからの戦いは、僅か数秒だった。
片手で器用に槍を操るフィスクだが、本調子でないのは明白だった。
突き、払い、受けて、受けて、受けて。
上段から振り下ろされた大剣を受け止め、同時に膝が崩れる。フィスクの体が沈む。そこを、魔王が強かに蹴り飛ばした。
花びらを巻き上げながら、フィスクが転がっていく。
今度こそ、シャイラは悲鳴を上げた。




